- 親記事No.3625スレッドの返信投稿
- board4 - No.3848
Re:なるほど
- 投稿者:パンツァー
- 2003年03月08日(土) 16時56分
> なるほど、私は戦艦大和の排水量を正確にそらで言えません。しかし、
> 調べればすぐに分かります。銀英伝の技術者達はこれまで過去の
> 事例を何も調べなかったのが「自然」であるというのが解釈な訳ですね。
>
> それ以前に乗員数十名の漁船より乗員数千人の大和の方が大きい事は
> 皆知っています。乗員数百~数千人の戦艦と乗員40万人のイオン・フォゼカス
> の大きさについてどちらが大きいのか比べられないのが「自然」な訳ですか。
>
> 十分に作中の記述から類推できる事実だと思うのですが?
不沈戦艦さんと同種の解釈を、3846に記載しておりますので、参考としてください。
簡単に内容を記載すると、
大質量体が直前に出現したことに驚いたのであって、
ワープであったか、通常航行であったか、を問うものではないかということです。
いきなり、普通の艦船と比較にならない大きさの物体が出現したら、驚くだろう、という話です。
> 無く物別れ、お開きです。
そんなこと言わずに。
- 親記事No.3625スレッドの返信投稿
- board4 - No.3850
Re:とりあえず1点だけ
- 投稿者:八木あつし
- 2003年03月08日(土) 18時00分
> ☆4
> イゼルローン要塞の建艦能力について
> (お手伝いに感謝)
>
> イゼルローン要塞の建艦能力に関しては、Kenさんが上げてくれた根拠により、明白に実証されましたね。私の作業を軽減してくれて、まったく感謝する次第です。
> 以下、説明を加えます。
>
> 1戦闘による「人余り船不足」状況の発生
>
> アスターテ会戦では、戦闘終了後は、次のような状況となっています。
> 銀英伝1巻<黎明篇>2章-7より
>
> 戦闘に参加した人員、帝国軍244万8600名、同盟軍406万5900名
> 艦艇、帝国軍二万余隻、同盟軍四万余隻
>
> 戦死者、帝国軍15万3400名余、同盟軍150万8900名余
> 喪失あるいは大破した艦艇、帝国軍2200隻余、同盟軍2万2600隻余
>
> 帝国軍では、戦闘員の損失が6%程度に対し、艦船の損失が11%
> 同盟軍では、戦闘員の損失が37%程度に対し、艦船の損失が57%
> となっています。
>
> つまり、戦闘の結果として、「人余り船不足」状況が発生するのです。
>
> バーミリオン会戦時のミュラーが三回も乗艦を替えた、などの作中事実も、船が破損しても人が生き残る好例でしょう。
>
> 2イゼルローン軍における「人不足船余り」状況
>
> 銀英伝<落日篇>、第七章-2
> <イゼルローン軍が艦艇9800隻、将兵56万7200。>
>
> 銀英伝<落日篇>、第七章-3
> <この会戦において、本来ならイゼルローン軍は最低でも100万の兵を必要としていたのだ。それだけの兵数がなければ、それぞれの艦艇を運用することが不可能なのである。>
>
> ここで、本当は100万の戦闘員を要する9800隻の艦隊を、56万人で運用するという記載があります。つまり、人は不足しているが、船は余っているのです。
>
> 1で、戦闘を行うと、「人余り船不足」状況が発生することを指摘しました。
> それに関わらず、イゼルローン軍では、保有艦艇数に対して人不足が発生しています。
> つまり、これが何を意味するかといえば、イゼルローン軍は、艦艇の補充を受けている、ということです。もし限られた数の艦艇で戦闘を継続していたならば、人は余るが、艦艇は0、というところまで行き着いてしまうはずなのです。
>
> もう、これで、イゼルローン要塞における建艦能力に関しては、明白に証明されましたね。
> そして、イゼルローン要塞において、無人艦を含め、続々と新造艦が出現していることも。
パンツァーさん。どうしても一点だけ言わせてもらいます。
イゼルローン要塞には、艦艇補修能力はあっても建艦能力はありませんよ。パンツァーさんの「人不足船余り」「人余り船不足」の考えはよく分かりますが、イゼルローン革命軍の艦艇は、あくまでも旧同盟軍艦艇であり要塞のよる新規建造艦艇ではないです。
回廊決戦前のヤン艦隊の戦力は、艦艇2万8840隻、将兵254万7400名でした。
そして問題のシヴァ星域会戦時のイゼルローン革命軍の戦力は、艦艇9800隻、将兵56万7200名です。
ここの「人不足船余り」状態からパンツァーさんは、イゼルローン要塞が新規艦艇を建造したことによって、人員以上の艦艇を有するようになったと考えました。しかし一つ忘れてはいませんか? 地球教団によるヤン暗殺後、イゼルローン要塞から大量の離脱者が出たことを。
新書版8巻209頁
<「いかがいたします? 離脱したとはいえ、イゼルローン要塞を不当に占拠して皇帝に反抗した輩、無条件で免罪してよいものでしょうか」
むりからぬ意見ではあるが、ロイエンタールとしては単純に武断に徹するわけにはいかない。
「100万以上の男女を拘引することなど、現実に不可能だろう。(攻略)」>
この記述から、「人不足船余り」の疑問は解けたはずです。回廊決戦前は、少々兵員が不足気味とはいえ艦艇と兵員は何とか釣り合っていたのです。ヤン暗殺後、離脱者は新書版8巻203頁の記述から輸送船で離脱していると分かります。また今後の戦いを考えれば、いくらユリアンでも軍用艦での離脱を許すはずはありません。
パンツァーさんの残存艦艇数に対して兵員がより多く生き残っている、という考えは当たっていると思います。すると回廊決戦終結時、ヤン艦隊は約1万隻余の艦艇と約100~120万余の兵員が残ったのではないかと推測されまます。
そしてヤン暗殺後、イゼルローン要塞に残った人員が約94万。その中で艦艇乗組員は約57万。94万の男女比はだいたい2:1で、女性の大半が男性の家族であることから、軍人のほとんどが男性となります。
そこで離脱者約100万人の男女比もだいたい2:1とすると、男性が約66万人となります。これならば調度よく、イゼルローン共和政府の男性数ないし兵員数と(仮定とはいえ)辻褄が合います。
つまりイゼルローン革命軍艦艇(回廊決戦の残存艦艇)を動かすはずだった人間(回廊決戦の生き残りの兵員)が、大量に要塞から離脱してしまったが為に、革命軍の艦艇数に対してそれを動かす兵員数が極端に釣り合わなくなってしまった訳です。
これでパンツァーさんの主張された要塞に建艦能力があるという主張は、明確に否定できるのではないでしょうか。
またイゼルローン要塞の設備は、銀英伝本編であれだけ詳しく記載されているのです。もし仮に要塞に建艦能力があるとすれば、さすがに一緒に記載したと思います。
-
- board4 - No.3851
銀英伝キャラの人間関係からの考察
- 投稿者:魂のよしりん
- 2003年03月10日(月) 13時40分
銀英伝キャラを子供の頃の人間関係から考察してみたいと思います。
といってもロイエンタールでなくヤンとラインハルトに関してです。
ヤンは子供の頃母親は無く、商人の父親とあちこち行っていたような
記憶があります。この子供の頃の家族・人間関係が彼の「何に対しても
なかなか本気になれない」性格を作ったのではないでしょうか。
ラインハルトは「姉(実質母親)が自らの身を皇帝に差し出すことに
よって家族を守った。つまり自分は姉の犠牲によって守られた」との想
いが彼をゴールデンバウム王朝打倒へ向かわせ、ついにそれを実現して
しまいました。しかし姉との強固過ぎる関係ゆえに彼は生涯”少年”の
ままで”男”にはなりきれませんでした。ヒルダとの関係も”同志”み
たいだし。まあもっともラインハルトが「戦いと男の友情」に生きがい
を見出すタイプだったからかもしれませんが。
- 親記事No.3625スレッドの返信投稿
- board4 - No.3852
Re:とりあえず1点だけ
- 投稿者:パンツァー
- 2003年03月10日(月) 14時28分
まあ、建艦能力に関しては不明というところでしょう。
「建艦能力が明白に証明された」と、言いえる根拠がないことは、認めます。
ただ、「建艦能力があるという主張は、明確に否定できる」という八木あつしさんの主張も、根拠のないことです。
以下、その説明。
パンツァーの記載(No3819)
これは、人的資源に限りがある、ということを示しているだけでしょう。
無人艦隊なるものは、銀英伝中に登場しなかったと思いますが。
私は、No3819で、戦闘に参加している艦艇数は、人的資源の減少により減少しているものであるから、この記載事実から建艦能力を判定することは無理である、といった趣旨の内容の投稿を行いました。
ここで、人的資源の枯渇があっても、戦闘力を維持する可能性、つまり、無人艦を検討しておく必要を感じたのです。したがって、銀英伝には無人艦隊は登場しないのではないか、と書いたのです。
作中事実において、無人艦は存在しましたが、詭計の道具くらいにしか使えず、戦闘力は存在しないに等しい存在ということでした。したがって、これを増産しても意味がない、ということになっています(詭計に使う一定数の艦艇以上は)。
Kenさんの記載(No3832)
800年4月、回廊の戦いの前:28,840隻(乱離篇、第二章-1)
ビッテンフェルト/ファーレンハイト艦隊との戦闘後:二万隻を割りこみ(同、第四章-2)
801年5月:1万隻強(落日篇、第五章-4、帝国側による推定)
シヴァ星域の会戦:9800隻(同、第七章-2)
私も探してみましたが、真ん中二つの戦力比較において、戦闘員数の記載が見当たらないですね。
ここに戦闘員数の記載があれば、まだ少しは、検証に役に立たせることができるのですが。
少なくとも、艦艇を作っても戦闘力に寄与するわけでもなく、無意味である以上、イゼルローン要塞において建艦を行ってないとしても、なんの不自然もないのです。
「建艦能力があるという主張は、明確に否定できる」
とはならない、と考える次第です。
もっとも、イゼルローン要塞の建艦能力の有無は、移動要塞論とは直接関わる部分がないので、否決されたとしても一向に問題はありません。
> またイゼルローン要塞の設備は、銀英伝本編であれだけ詳しく記載されているのです。
イゼルローン要塞の設備に関して、もしよければ、
八木あつしさんの知っている範囲で、記載個所を列挙してみてもらえないでしょうか。
参考までに。
それから、引用のタグは、
<乱離篇>3章-2
のように、何篇の何章の何節かを示す形式の方が、銀英伝の出版形態上、この掲示板の閲覧者に親切ですね。
ノベルズ版と文庫版では、冊数も違いようですし、当然ページ数も異なります。
Kenさんのやっている方式を、私も真似ています。
- 親記事No.3625スレッドの返信投稿
- board4 - No.3853
Re:なるほど
- 投稿者:RAM
- 2003年03月10日(月) 16時21分
RAMです。
> > 無く物別れ、お開きです。
>
> そんなこと言わずに。
>
困りましたね。No.3841の投稿はお開きもしくは議論の前提を整理する事の提案
こそが本命でした。ROMさんの投稿の後に今までの議論を引き続いてレスしてい
たのが不沈戦艦さんだったので偶然レスしただけであってこの事項に特別執着し
ているわけではありません。
私はこのまま議論を続けていても労多くして実り少ないのではないかと思って
います。パンツァーさんとは今まで比較的醜い衝突はありませんでしたが、
基本的に私の議論の前提はKenさんや古典SFファンさん寄りにあります。
直接記述>計算より求まる数値>間接記述
以上のように記述の重みを置いています。
また、しきりにKenさんへ「外部からの設定持ち込み」に対する立証責任を議論
されておりますが、これについても私は基本的には銀英伝は現在の地球の遠い未来
という位置付け的に見ていますので、特別な記述がない限り全て現在の物理法則
が通用すると考えていました。これについても意識が合わないと思います。
記述がない部分の扱いについても書いていない物は無い物にするのか、裏設定を
入れて良いのか、どう扱ったものか良くわかりません。
更に作者の意識問題についてはNo.3840の不沈戦艦さんの下記のような記述など
私にとってはナンセンスでしかありません。
> ところで、その根拠は何です?はっきり言いますけど、「イオン・ファゼカス号の
> 巨大さ」というのは、銀英伝を書いた本人である、田中芳樹すら認識していない「作
> 中事実」です。作者すら「分かっていない」ことを、登場人物たちが「分かってい
> る」と言い張るのは、あまりに矛盾していませんかね。
このような事を言うのでしたら私としたら作者は無限補給なんて認識していない
のだから登場人物が分かるはずがない。移動要塞の議論をする事自体が無粋な事
として終わってしまう気がします。しかし実際はそうではありません。
もっと限定的な事項での議論でしたら議論を行いながら前提部分の摺り合わせも
出来るかもしれませんが、移動要塞の議論においては関連する事項が多岐に渡り
まとまりが付きません。今までの議論から何一つまともな結論に至っていない事
が一つの証明ではないでしょうか?
ですので、移動要塞の議論について私は撤退、または議論の前提の整理が出来たら
参加と言う事にさせて頂きます。
- 親記事No.3625スレッドの返信投稿
- board4 - No.3855
Re:とりあえず1点だけ
- 投稿者:八木あつし
- 2003年03月11日(火) 04時20分
> イゼルローン要塞の設備に関して、もしよければ、
> 八木あつしさんの知っている範囲で、記載個所を列挙してみてもらえないでしょうか。
> 参考までに。
新書版2巻11頁から12頁にかけての記載だけで十分だと思います。
<宇宙港は2万隻の艦艇を収容でき、整備工場は同時に400隻を修復できる。>
とあります。整備工場を改造して建造工場にしたのだ、という仮説なら出来るかもしれませんが、時間的に改造自体が無理かと。
新書版1巻130頁も少しありますね。しかもここには
<巨大な食料工場など、駐留艦隊も100万以上の人口を支える環境と設備が整っており、(後略)> とあります。
一体100万以上の人口の最上限がどこまでなるのでしょう。しかし同盟軍のヤンが赴任中の要塞では、軍民で500万人が生活していました。1巻の記載と同盟時代の人口を考えると100万~500万が限界という可能性もありますね。もしかして1000万? でもさすがに多すぎるでしょう。
それにしても1巻のイゼルローン要塞の帝国軍は、要塞守備兵50万と駐留艦隊将兵150万(記載はないですがこれぐらいでしょう)はいましたが、その家族はいませんでした。つまり軍人(しかも男のみ)だけしかいない要塞だったのです。そしてイゼルローンを建造した30年ぐらい前も帝国軍の運営システムは変わらないと思います。
それなのに何でまた、イゼルローンには帝国軍にとって必要もない「学校」や「産院」や「保育所」まで作ったのでしょうね(笑)。
- 親記事No.3581スレッドの返信投稿
- board4 - No.3856
Re:うーん
- 投稿者:Ken
- 2003年03月12日(水) 22時28分
IKさん、
まずは、過分なお言葉をいただき、ありがとうございます。また、回答が遅れたことをお詫びします。実は、IKさんが土曜日に投稿されてから、どう回答しようかずっと迷っておりました。
正直に申しますと、「文系と理系」、「マクロとミクロ」いうご指摘には、虚をつかれました。そういう切り口で、この問題を捉えてはおりませんでしたので。IKさんの投稿を読んで、私なりに考えをまとめようとしたのですが、正直うまくまとまりません。しかし、いつまでも回答を遅らせるのも失礼ですので、今の時点で抱いている疑問と感想を書かせていただきます。
「文系と理系」
たしかにこの対比はよく耳にしますが、私には必ずしも実体がはっきり分かってはいないのです。これは単に、思考活動の対象の違いであると思うのですが、IKさんは、思考活動の形態自体が異なる、と言われているのでしょうか?理系がミクロの部分の整合性を重視するのに、文系は全体的な意味論を重視するのだと。あるいは、直接言及されてはいませんが、「理系」が数字を重視するのに、「文系」は定性的考察を重視するのだと。
そして、IKさんは、銀英伝の解釈は「文系」的に行うべきと言われているのでしょうか?
「文系」というと、大学の学部でいえば、法学部や経済学部や文学部に相当するのでしょうか?そういう分野では私は門外漢ですが、少なくとも法律や経済に関しては、IKさんが言われることとは少し異なるイメージを持っているのですが。
例えば、法律とは、立法にせよ司法にせよ、徹底して「ミクロ」な部分を追及するのではないでしょうか?Aという法律に従うことがBという法律を破ることに繋がらないよう、末端にいたるまで整合性が要求され、原則としてただ一つの「例外」も許されないのではないでしょうか?また仮にAとBが相反する状況を生じる場合には、どちらが優先するかまで厳密に規定するのが「法律」であるように思います。
経済はおそらく「マクロ」なものでしょう。しかし、私が経済学に抱いているイメージは、卑俗な言い方をすれば「数学の化け物」というものです。経済学者や証券アナリストが利用する数式に比べたら、私がやった計算など小学生の宿題以上のものではないでしょう。経済はマクロ現象であり、だからこそ解釈にも予測にも、厳密な数学的解析を必要とするのだ、という認識を私はもっています。これは、もっと広い意味での「社会学」も同じですね。(余談ですが、ハリ・セルドンの「サイコ・ヒストリー」はその極限の形というべきでしょうか)
いわゆる「文学」はどうか。
文学は「創作」であるという点で経済とは異なるし、通常一人の作者が創作するという点で法律とも異なるのでしょう。特に後者はIKさんのご指摘と関連しているように思います。長い年月と多大な労力を費やして整備されてきた法律とは異なり、文学という創作物は矛盾を除ききるのが難しいのだから、その点を追求してもしかたがないのだと。
そうだとすれば「作中記述」から何かの「作中事実」を帰結しようという試み自体が意味のないことになるのでしょうか?移動要塞についていうなら、ガイエスブルグが移動した時点の記述では「可能」と、それ以外の箇所の記述では「不可能」と結論するのが自然であり、作者である田中氏はその不整合を解決しようとしていないし、そもそも不整合があることに気付いてもいなかったのでしょう。
そのような不整合を「きれいに」説明しようとしたのが、この一連のスレッドであり、複数の説明方法が提示され、それぞれの正当性をめぐって紛糾した、ということになるわけですね。
適切な例かどうかは分かりませんが、私は「邪馬台国論争」を連想しました。「畿内だ」「九州だ」という論争が、徳川時代から200年くらい続いているのでしょう。論争が起こるそもそもの原因は、恒久移動要塞に関する銀英伝の記述と同様、魏志倭人伝が邪馬台国の所在地について明確な記述をしていないことにあります。畿内説と九州説の対立は不明確な記述の異なる解釈間のものですね。またそれぞれの説を支持する傍証として、九州説は例えば吉野ヶ里遺跡を、畿内説は三角縁神獣鏡などを持ち出しているのですね。
このような論争の話を聞いて、私のような人間が真っ先に考えるのは、「それぞれの説を主張する人は、自説の正しさが証明されたと信じているのだろうか」という点なのです。私からみれば、現時点のデータから邪馬台国論争に下せる結論は一つしかなく、それは「卑弥呼が九州にいたと断じることも、畿内にいたと断じることも不可能」というものです。
私が、今回の論争でとってきたスタンスも同じです。これまでの成り行きから、私は「否定派」になってしまっていますが、正確には「分からない派」です。ただ、「肯定派」の人たちが、そのような第三の立場を認めず、「恒久移動要塞は可能だと証明された」と主張されるので、結果的に否定派のスタンスから論駁することになっていますが。
もしもIKさんにお答えいただけるなら尋ねてみたいのですが、「文系」というのは、このような第三の立場を認めないのでしょうか?だから「畿内説」や「九州説」はあっても、「分からない説」は存在しないのでしょうか?そして同じことが銀英伝の移動要塞論争にも起こっているのでしょうか?
>これ以上の議論によって得られるものがあるとしても、それ以上のものが失われることにもなるでしょう。
「失われる」という言葉を読んで、私はあることを思い出しました。私がこの掲示板で知り合った最大の「親友」であり、今回の論争の「戦友」でもあった古典SFファンさんが退場宣言をして出てゆかれたことです。タナウツにとっては惜しんでもあまりある損失であり、私としては声の限りに復帰を呼びかけたいのですが、同様のことがこれからも起こりうるというのであれば、慎重を期さねばなりません。
最後に一つだけ誤解を指摘しておきます。
>アインシュタインやランダウをミクロの問題のみならず作品全体に敷衍することに、どれほどの妥当性があろうかということですね。それでは物理学になってしまいます。
アインシュタインやランダウに言及したのは古典SFファンさんで、私ではありません。私は、銀英伝の記述だけでは結論を出せない問題に結論を出すため、我々が知る物理法則を採用しようと提案したことはあります。しかし、論争相手に受け入れられなかったので、私自身の論旨には持ち込んではいません。
- 親記事No.3581スレッドの返信投稿
- board4 - No.3857
Re:うーん
- 投稿者:IK
- 2003年03月13日(木) 00時17分
> IKさん、
>
> まずは、過分なお言葉をいただき、ありがとうございます。また、回答が遅れたことをお詫びします。実は、IKさんが土曜日に投稿されてから、どう回答しようかずっと迷っておりました。
いいえ、そもそもお答えをいただけるとは思っておりませんでした。
管理人さんでもない私が、レフリーめいたことを発言すること自体、ご両者に失礼、明らかに出すぎているのですが、そう思えばこそ「観察」を続けていたのですが、いつ果てるとも知れないので、個人的な意見をいいたくなった、ということです。
今回の Ken さんのお話に答えるのは、移動要塞論そのものとはずれますが、別スレッドということでよいですか?
> 正直に申しますと、「文系と理系」、「マクロとミクロ」いうご指摘には、虚をつかれました。そういう切り口で、この問題を捉えてはおりませんでしたので。IKさんの投稿を読んで、私なりに考えをまとめようとしたのですが、正直うまくまとまりません。しかし、いつまでも回答を遅らせるのも失礼ですので、今の時点で抱いている疑問と感想を書かせていただきます。
>
> 「文系と理系」
>
> たしかにこの対比はよく耳にしますが、私には必ずしも実体がはっきり分かってはいないのです。これは単に、思考活動の対象の違いであると思うのですが、IKさんは、思考活動の形態自体が異なる、と言われているのでしょうか?理系がミクロの部分の整合性を重視するのに、文系は全体的な意味論を重視するのだと。あるいは、直接言及されてはいませんが、「理系」が数字を重視するのに、「文系」は定性的考察を重視するのだと。
>
> そして、IKさんは、銀英伝の解釈は「文系」的に行うべきと言われているのでしょうか?
「行うべき」などとは言えるものではありません。文学は結局は科学ではないのだから、科学的整合性のみで捉えるのは難しいだろうな、ということです。
もしある部分が「科学的」に説明がつくとしても、それを全体に広げることができますか。再現性がないと「科学」とは言えないと思いますが。
この再現性がないにも拘らず、一部分を「科学」で切り取ろうとする姿勢をとある方は「空想科学読本」的だと評していたのだと私は理解しております。
科学で言えば、私は今もって銀河系規模での統一的コミュニティが成立することをどうしても自分に納得させられません。しかしそれは棚上げできるのですね。文学ですから。そういうものとして読めばいいのです。
田中芳樹さんは確かに優れた物書きです。しかし彼は文学博士課程を修了したのであって、科学者ではない。科学にはるかに造詣の深い他のSF作家でさえ、物語であろうとすれば科学的に矛盾する記述を行っています。
もちろんそんなことは Ken さんは百も承知であるでしょうし、この点、おそらく意見の相違はないと思います。科学的整合性の不備が文学的価値を損なうものではないことを。
しかしこの点を認識するならば、「評価」に関わる自説を科学的な論拠によって補強することそれ自体が無理があるのです。そういう性質で補強されるべき対象ではないからです。
もちろん「お遊び」としては充分ありましょうが、「評価」を補強するには政治的、思想的要素がなければなかなか対話が成立しにくいと思いますがいかがでしょうか。
> 「文系」というと、大学の学部でいえば、法学部や経済学部や文学部に相当するのでしょうか?そういう分野では私は門外漢ですが、少なくとも法律や経済に関しては、IKさんが言われることとは少し異なるイメージを持っているのですが。
>
> 例えば、法律とは、立法にせよ司法にせよ、徹底して「ミクロ」な部分を追及するのではないでしょうか?Aという法律に従うことがBという法律を破ることに繋がらないよう、末端にいたるまで整合性が要求され、原則としてただ一つの「例外」も許されないのではないでしょうか?また仮にAとBが相反する状況を生じる場合には、どちらが優先するかまで厳密に規定するのが「法律」であるように思います。
これは本論からずれるかも知れませんが、興味深いご意見です。
何と言いましょうか、細部に拘ることそれ自体を否定しているのではなく、そこに大局観があるかどうか、ということですね。
「法治主義」と「法の支配」という概念が違っていることはご存知でしょうか。ソクラテスは「悪法も法である」と言いつつ毒杯を仰ぎましたが、悪法は法ではないという考えもあり、こちらの方が主流になりつつあると思います。
以前、私が「テキストだけではなくコンテキストにも着目すべきだ」と言ったことを覚えていらっしゃいますか。
理科系の学問というものは本質的にそこに「自我」があってはならないのであり、テキストを追う性質があるように思います。それはそれでその枠組みの中では絶対に必要なことであり、文系でも対話を目指すならばある程度、科学的であることは必要です。しかし科学と科学的は全然違うのです。
> 経済はおそらく「マクロ」なものでしょう。しかし、私が経済学に抱いているイメージは、卑俗な言い方をすれば「数学の化け物」というものです。経済学者や証券アナリストが利用する数式に比べたら、私がやった計算など小学生の宿題以上のものではないでしょう。経済はマクロ現象であり、だからこそ解釈にも予測にも、厳密な数学的解析を必要とするのだ、という認識を私はもっています。これは、もっと広い意味での「社会学」も同じですね。(余談ですが、ハリ・セルドンの「サイコ・ヒストリー」はその極限の形というべきでしょうか)
心理歴史学は私の考えではおそらく成立不可能です。
滞米経験のおありになる Ken さんならばご存知でしょうが、経済学は欧米では理系に分類されています。サミュエルソンが MIT の教授であるように。
しかし経済学は科学的ではあるが科学ではない。その意味では文系でしょう。数字をいくらひねりまわしたところで、絶対普遍の原理など経済学にはないからです。そんなものがあれば、昨今の経済不況は橋本内閣の時にとっくにけりがついていたでしょうね。
>
> いわゆる「文学」はどうか。
>
> 文学は「創作」であるという点で経済とは異なるし、通常一人の作者が創作するという点で法律とも異なるのでしょう。特に後者はIKさんのご指摘と関連しているように思います。長い年月と多大な労力を費やして整備されてきた法律とは異なり、文学という創作物は矛盾を除ききるのが難しいのだから、その点を追求してもしかたがないのだと。
>
> そうだとすれば「作中記述」から何かの「作中事実」を帰結しようという試み自体が意味のないことになるのでしょうか?移動要塞についていうなら、ガイエスブルグが移動した時点の記述では「可能」と、それ以外の箇所の記述では「不可能」と結論するのが自然であり、作者である田中氏はその不整合を解決しようとしていないし、そもそも不整合があることに気付いてもいなかったのでしょう。
>
> そのような不整合を「きれいに」説明しようとしたのが、この一連のスレッドであり、複数の説明方法が提示され、それぞれの正当性をめぐって紛糾した、ということになるわけですね。
まったくその通りです。しかし「きれいに」説明できるはずがありません。科学じゃないんですから。どのような立場に立とうとも、100%というのはあり得ないんです。
だから20%あるいはそれ以上は「評価の相違」として突き放すしかないでしょう、と私は言っているのです。
一介の素人が地図を見ながら大陸移動説を考えようが、特許局の役人が「特殊相対性理論」を発表しようが、それが正しいならば科学においては正しいんです。ケンブリッジ大学の本職の先生があとで恥をかくこともあり得るんです。科学というものはそういうものです。「誰が」というのは本質的な問題ではありません。
> 適切な例かどうかは分かりませんが、私は「邪馬台国論争」を連想しました。「畿内だ」「九州だ」という論争が、徳川時代から200年くらい続いているのでしょう。論争が起こるそもそもの原因は、恒久移動要塞に関する銀英伝の記述と同様、魏志倭人伝が邪馬台国の所在地について明確な記述をしていないことにあります。畿内説と九州説の対立は不明確な記述の異なる解釈間のものですね。またそれぞれの説を支持する傍証として、九州説は例えば吉野ヶ里遺跡を、畿内説は三角縁神獣鏡などを持ち出しているのですね。
>
> このような論争の話を聞いて、私のような人間が真っ先に考えるのは、「それぞれの説を主張する人は、自説の正しさが証明されたと信じているのだろうか」という点なのです。私からみれば、現時点のデータから邪馬台国論争に下せる結論は一つしかなく、それは「卑弥呼が九州にいたと断じることも、畿内にいたと断じることも不可能」というものです。
>
> 私が、今回の論争でとってきたスタンスも同じです。これまでの成り行きから、私は「否定派」になってしまっていますが、正確には「分からない派」です。ただ、「肯定派」の人たちが、そのような第三の立場を認めず、「恒久移動要塞は可能だと証明された」と主張されるので、結果的に否定派のスタンスから論駁することになっていますが。
成り行きでこのようなことになったのは私は理解しております。その意味では、この点で Ken さんを擁護するのは他者を非難することにつながるので控えていましたが、一部の方の表現に必ずしも愉快な思いをしているのではないことを思い切って表明しておきます。ただしそれを言えば私自身の過去もありますので、ひとり善人づらするつもりはございません。出来ればそれぞれに可能な範囲で控えるよう努力していただきたいと希望するだけです。
成り行きとは言え、今回の Ken さんのスタンスは「否定派」になっていたように思います。本当のことを言えば、双方に言うべきかも知れませんが、話しやすい Ken さんに言ってしまったという事情があります。その点、割り引いて下さると有難いです。
個人的なことを言いますと、先日、私がたてた某ローマ関係トピックスで、学者の意見の正当性について議論がありました。ある方が学者の定説なんて数年で代わるのだから本を論拠にするのではなく自分の意見をもてとおっしゃいまして、まあ、それにも一理ないこともないと思ったのですが、100%はありえぬとしてもでは0でいいかというとそういうことでもないのです。それではただの「妄想」になりますから。具体的にはカエサルの正しい発音(当時の発音)は何かという話題でしたが。
突きあわせて矛盾を切り落としてまあ80%くらいにする。それが大事なのだと思います。人文学は科学ではないですから(人文科学という言い方はおかしいと思います)それでも100%にはなりません。全人類において100%の合意が成立した時は、人類がたったひとりになった時です。
オンかオフかのデジタル思考を理系的と評したのであり、程度問題を重視するのを文系的と評したのです。
残りの20%まで詰め合わせようとすれば、それこそ相手の世界観まで打ち砕くことになりますね。議論では判決は出ないのですよ。ここは法廷ではないのです。
> もしもIKさんにお答えいただけるなら尋ねてみたいのですが、「文系」というのは、このような第三の立場を認めないのでしょうか?だから「畿内説」や「九州説」はあっても、「分からない説」は存在しないのでしょうか?そして同じことが銀英伝の移動要塞論争にも起こっているのでしょうか?
「分からない」説を私は認めるべきだと思っていますよ。ただし「分からない」と言い切ってしまう前に、合意できる分はしておくという作業も重要ですね。ただし究極的には「分からない」派ですよ、私は。80%の部分では肯定派ですけど、いつも20%の猶予は保持しておりますから。
ですから私の意見は決して Ken さんのみに言っているのではないのです。SF古典ファンさんのお言葉を引用したのは(もちろんそれがSF古典ファンさんのものだと知っておりましたよ)SF古典ファンさんにも言いたかったからです。
> >これ以上の議論によって得られるものがあるとしても、それ以上のものが失われることにもなるでしょう。
>
> 「失われる」という言葉を読んで、私はあることを思い出しました。私がこの掲示板で知り合った最大の「親友」であり、今回の論争の「戦友」でもあった古典SFファンさんが退場宣言をして出てゆかれたことです。タナウツにとっては惜しんでもあまりある損失であり、私としては声の限りに復帰を呼びかけたいのですが、同様のことがこれからも起こりうるというのであれば、慎重を期さねばなりません。
それはSF古典ファンさんご自身が判断されることです。私個人の見解を言えば、あのような形で退出宣言をなされたことは氏らしからぬ軽挙であり、出来得れば復帰して欲しいと私も思いますが、やはり氏ご自身の判断を尊重したいと思います。
Ken さんのみに過分な責を負わせているのは重々承知しています。ただ「譲れる人が譲る」というのも大事ではないかと思いまして、敢えて申しました。
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- board4 - No.3858
このサイトを見て
- 投稿者:こんぱくと
- 2003年03月13日(木) 13時58分
田中芳樹を打つ!て題名に惹かれたので覗いてみました。
いや、すごいですね。文字通り打ってます(笑)
ここまで言わんでもとも思いますが、こういうのもありかな、とそれなりに楽しませていただいております。
私は結構好きなんですが、田中作品。
雰囲気とか人物描写が割と好きです。好みといってもかまわないかな?
ですが、やはり小説として呼んでいるので、文中に書いていることをすべて鵜呑みにしようとは思ってはいませんね。
作者の考え方が偏っているのは、批判されている方たちと同様に感じていましたので。これは作品を読み始めた中学生時代から、友人たちと話していたことです。
ですが、自分なりに小説として楽しんできたのですし、歴史に関心を持ったのは、田中作品に影響されてとのこともあるので愛着があります。なので今後も読みつづけるでしょう。
なぜここに書き込みをしたのかというと、ここで批判をしている人たちが結構田中作品を読み漁っているようなんで、実は結構作品が好きなのかなあと思ったからなのです。勝手な勘違いならごめんなさい。
私としては、このサイトに書き込みをしている人たちの、幅広い歴史の知識に感心してしまったので、田中作品を読みつつ、このサイトも楽しませていただきます。