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- board4 - No.8078
Re:ゴールデンバウム朝について
- 投稿者:スタスク
- 2008年06月26日(木) 19時54分
近年、学者の間でゴールデンバウム王朝時代の歴史見直しが盛んになってきている。それ自体は大いに結構なことであり、これがさらに広範なものになることは非常に望ましいことである。
ローエングラム朝時代に獅子帝とその近臣の権力奪取正当化のため、ゴールデンバウム王朝の皇帝たちが過度に悪し様に描かれているのは確かにその通りであろう。
御用史家の筆の曲げ具合は凄まじく、新帝国に対する危険分子は徹底的なまでに貶められている。ブラウンシュヴァイク公爵オットーやヨブ・トリューニヒトに関する記述は呆れるとしか言いようがない。
これは獅子帝覇権確立のために働いたロイエンタール提督にも及んでいる。さすがに獅子帝のもとで働いていた時期のことは同時に獅子帝のことさえ貶めかねないため、大して変なことは書いていないが、新領土総督に就任してからは無茶苦茶である。
ロイエンタールが反乱をおこした理由は今もってはっきりしない。新帝国の史書を鑑みるに個人的プライドを守るため、反乱を起こしたとしか読めない。確かにその周囲には地球教の影やラングの策動などが見え隠れするが、数百万将兵の命を無為に散らせるには説得力がなさ過ぎる。
そのため、今日に至るまでロイエンタールは個人的なプライドのために将兵を無為に死に追いやったと悪評がたっている。彼が弁明のためにさっさと出頭すれば最悪の事態は避けられたことは疑いない。
仮に立志伝などにあるように最初から野心を燃やしていたとしても、情勢があまりにも悪すぎる。一体何が、彼に挙兵を促したのだろうか?
今日では最初から反乱を起こすつもりで軍備を整えていたことが判明している。そこで地球教が余計なことをしたせいで、準備不足のまま開戦せざるえなくなってしまったのである。
なにしろ、監察官が送られて万一計画がばれればどうなるか分かったものではない。ばれなくても、事態がどう転んでも新領土総督の地位を辞任せざる得なくなる。
ロイエンタールには準備不足の反乱しか残されていなかったのだ。これがグリムパルツァーやクナップシュタインといった提督を取り込めなかった原因であると考えられる。
肝心の反乱を起こした理由だが、どうもイゼルローンにおける獅子帝の稚拙な指揮と、個人的なプライドで数百万将兵を死なせたことが決意を促した様子である。
とりわけ、「喪中の軍は討てん」という言葉は帝国軍の上から下まで不評だった。
この事実が公表されないのも当然で、獅子帝建国の功臣が自発的に裏切ったなど、書くわけにはいかないからである。加えて、帝国と敵対していた地球教、政府内部で嫌われていたラングを排除する必要もあって意図的に無視された。
さらに酷いのが、トリューニヒト高等参事官殺害の件である。
いくら敗戦で心身ともに疲れていたとはいえ、丸腰の文官を殺すなど誇り高いロイエンタールのやることと思えない(ある意味軍人としての誇りで数百万将兵を無為に死なせたことは十分非難されることであるが)。
これについてはすっかりネタが割れている。ローエングラム朝崩壊後、軍務省の機密文書に獅子帝とオーベルシュタイン軍務尚書によるトリューニヒトを排除するための密談が交わされていたことが明確に記されていたのである。
この時の謁見で交わされた内容によると、トリューニヒト抹殺計画が発動直前まで進められていたのである。
これに身の危険を感じたトリューニヒトが先手を打って、高等参事官の職を彼の持ちうるありとあらゆるコネを使って得て、新領土に逃げ込まれたため、この計画は中断を余儀なくされた。
しかし、ロイエンタールの反乱で帝国軍によってハイネセンが制圧されると、これ幸いにと、軍務尚書直轄の特殊部隊がトリューニヒトを抹殺。
これを弁明も出来ないかつての功臣に擦り付けたのである。
このことが原因で、ミッターマイヤーは地球教最後の襲撃のドサクサに紛れてオーベルシュタインを暗殺したのである。どうもロイエンタールの長年の親友であったことに加え、獅子帝の過度のロマンチシズムへの反発に対するシンパシーがあったようである。
しかし、獅子帝死後でさえ、彼はロイエンタールが個人的なプライドを守るために反乱を起こしたことを改めることが出来なかった。
それもそのはずで、ミッターマイヤーとしてもことを公にして、獅子帝の権威を傷つけては自身の地位が危ういのである。
と、あれだけ喧伝されていた獅子帝の周辺でさえ、実態はあまりよろしくない。
そのくせ、ローエングラム朝の創始者である獅子帝の記述は後世の手が加えられているため、胡散臭いまでの名君として描かれている。
なかにはその反動で、ルドルフ1世とゴールデンバウム朝の極端な神聖視が新興している事実がある。
初代皇帝であるルドルフはこれまで20世紀後半におけるアドルフ・ヒトラーやヨシフ・スターリンのような悪鬼として描かれており、まさに悪の帝王と見なされてきた。
近年はこれまで参照されてこなかったルドルフ1世と当時の銀河連邦時代の文献が公開されたことと、地球教本部の発掘が進んだことから、全否定の対象とまでされることは少なくなった。
確かにルドルフに長年仕え、その傍で働いてきた人々の手記は確かに重要な資料であり、それを参照することでルドルフの実像に近づくことは望ましいことである。だが、同時にそれはルドルフを過度に高く評価している些か偏った記述を鵜呑みにしていいということにはならない。
何故なら、ルドルフとて普通の人間であり、彼のなすこと全てに善意のみが介在していたと見なすほうが危険である。
事実として彼は猛烈な使命感を持つ一方、虚栄心が強く、強い権力志向をもっていた。そうでなければ、わざわざ世襲の帝政など始めはしないだろう。
同時代人には皇帝への即位を利権漁りに奔走する政治家や官僚たちと同じように、自分の地位を固めたかっただけではないのかと、指摘する向きもある。
ルドルフが一連の改革によって社会層の固定化、あるいは自分たちが非難している政治家や官僚と同じ轍を踏みつつあることに、気づかなかったとするならば、人間というものに対し驚くほど無知であったとするしかない。
ルドルフの遺伝子に対する考えは軍人時代、首相時代、皇帝時代と時を経るごとに変遷している。
これは不思議なことでもなんでもなく、長い人生のうち考えが全く変化しないほうがよほどおかしい。
ルドルフの遺伝子に対する考えがどのように変遷してきたかについては非常に興味をそそられるが、具体的な研究は今のところなく、今後の研究が待たれるところである。だが、大体において前半生では連邦各地で蔓延していた遺伝子問題解決のため、後半生では改革を維持するための特権階級創設に利用していたのではないかと思われる。
また、人種的偏見が強いことは間違いなく事実であった。実際、特権階級に有色人種が存在しないことはこれまで広く指摘されており、これが前述の遺伝子に対する考えと深く繋がっていると考えられる。
このように、一部の歴史家はルドルフを獅子帝のように飾り立てようとしている。確かに再評価は面白いが、過度に行っては過去の愚を冒すことになる。
ルドルフを獅子帝に対抗するための神輿にしてはならない。
いずれにしても、我々は歴史を利用して現在の政権の正当化をしなくてもいいこの時代に感謝しなければならないのだろう。
(これは月刊『銀河の歴史』に記載されたものです)
- 親記事No.7904スレッドの返信投稿
- board4 - No.8080
Re:薬師寺シリーズ考察
- 投稿者:とおりすがり2
- 2008年07月08日(火) 06時09分
まず、考察としておかしいのは。
ミステリーにおいて、いや、小説は、セリフを通しての説明は何をしゃべってもよいことになっています。
登場人物が常に本当のことをしゃべったら話にならない。
セリフとは作者の思いをそのまま書いているのでなく、その人物がその時に、そういうだろうなと想像して書いているわけで。
キャラがオカルト否定したのにオカルトになっても別におかしいことでない。
あと、作者が本の中以外でしゃべったことは当然、小説の質には関係ない。あくまでエッセンスとして考えるべき。
ファンでない人にも読んでほしいから、いろいろなことを発言する。基本的に(出版社側の)宣伝。
- 親記事No.8061スレッドの返信投稿
- board4 - No.8081
あの世界は
- 投稿者:とおりすがり2
- 2008年07月08日(火) 07時06分
あの世界には、登場人物は口には出さないが、ゆがんだ価値観が浸透している。
あれだけ科学が発達しているのに、ほとんどが人が動かしている。兵士の命の価値が低い。ミノルスキー粒子があるわけでないのに、有人操作こだわる。
彼らは貴族の誇りや戦争を美化している建前のまえに、思い切った合理的な作戦ができてないというか考え付かない。
あの世界の独特の価値観のせいでないかと思う。
防衛線としては、アルテミスの首飾りはそんなに悪いものではないと思う。
ただ、それだけで守るというのが、対策として無謀なだけ。
あの世界は戦争ということに対して、ちゃんとした経験値をもっていない。戦争のプロといっても同盟を蹴散らす程度の戦いしかしていないわけで。科学が成熟しているわりに、バカしかいないと思っていい。
あの戦いをそういう価値観で踏まえると。
アルテミスの首飾りは無人(コンピュータ)で動いていたのかな(うろ覚え)。
たぶん、あの世界の人は、無人兵器に殺されるのは一番の屈辱となのでないかと思える。
応援がきても、犠牲がでれば(有人戦闘なら、何万人死んでも大義名分がつく)、彼らにとって後味の悪い戦いになる。
それでやっと殲滅させても、アルテミスの首飾りの評価を上げることになる。(貴族にとって無人兵器は評価してほしくない)
彼らにとってモノをぶつけるのが一番の良策にみえたのもそういう価値観からくるのでないのかと思う。
アルテミスの首飾りでなく大艦隊がいたら、モノをぶつけることはしない。彼らはバカだから。
はっきりいってあの世界は、SFとしては、どうかしていると思う。かなり、いいかげん。
ただ、読者はゆがんだ価値感も味わうのが銀英伝の楽しみ方なのでないかと思う。田中芳樹なんだから。
あ、ごめん。偉そうなこと書いたけど、アニメしか見てないです(しかも相当前)。
- 親記事No.8061スレッドの返信投稿
- board4 - No.8082
もう少しがんばりましょう
- 投稿者:S.K
- 2008年07月08日(火) 09時30分
> あの世界には、登場人物は口には出さないが、ゆがんだ価値観が浸透している。
> あれだけ科学が発達しているのに、ほとんどが人が動かしている。兵士の命の価値が低い。ミノルスキー粒子があるわけでないのに、有人操作こだわる。
> 彼らは貴族の誇りや戦争を美化している建前のまえに、思い切った合理的な作戦ができてないというか考え付かない。
> あの世界の独特の価値観のせいでないかと思う。
独特も何もまずあの作品の大前提であるルドルフ大帝が
「体鍛えろ」で新無憂宮に自動走路一つ設置しなかった人
という解説があるんですから、それが「説明」です。
>
> 防衛線としては、アルテミスの首飾りはそんなに悪いものではないと思う。
> ただ、それだけで守るというのが、対策として無謀なだけ。
いくら何でも「最終防衛線」だと思ってなければインフラ
犠牲にしてまで同盟十二個艦隊なんて揃えてないでしょうよ。
> あの世界は戦争ということに対して、ちゃんとした経験値をもっていない。戦争のプロといっても同盟を蹴散らす程度の戦いしかしていないわけで。科学が成熟しているわりに、バカしかいないと思っていい。
>
と思う前に見るをやめましょう。
> あの戦いをそういう価値観で踏まえると。
>
それなりの「説明」はしてあるのにそういう馬鹿な「価値観」
で語られるのは良し悪し以前に作品に対して「迷惑」でしょうから。
> アルテミスの首飾りは無人(コンピュータ)で動いていたのかな(うろ覚え)。
「手動設定にも切り替え可能な自動防衛兵器」が正解。
どういう理由で帝国艦隊を攻撃する筈の「アルテミスの首飾り」
で、救国軍事会議が「ハイネセン地表を焼く」なんて脅迫ができた
と思っていたんですか?
> たぶん、あの世界の人は、無人兵器に殺されるのは一番の屈辱となのでないかと思える。
> 応援がきても、犠牲がでれば(有人戦闘なら、何万人死んでも大義名分がつく)、彼らにとって後味の悪い戦いになる。
> それでやっと殲滅させても、アルテミスの首飾りの評価を上げることになる。(貴族にとって無人兵器は評価してほしくない)
> 彼らにとってモノをぶつけるのが一番の良策にみえたのもそういう価値観からくるのでないのかと思う。
>
……基本的に「アルテミスの首飾り」って「同盟が依頼した
フェザーンの商品」で帝国の価値観(これも相当誤解してますが)
に合わせる筋合いのない代物ですが。
> アルテミスの首飾りでなく大艦隊がいたら、モノをぶつけることはしない。彼らはバカだから。
回避可能な有人艦ではなく軌道衛星だからです。
リモートコントロールの上に宇宙の状況をハイネセンの救国
軍事会議の指導者達に教えてくれる第十一艦隊が壊滅している
ので融通のきく運用が氷塊衝突の際にできなかっただけです。
>
> はっきりいってあの世界は、SFとしては、どうかしていると思う。かなり、いいかげん。
どうかしてるのもいいかげんなのも貴方の理解力よりはマシ
なのではないでしょうか。
> ただ、読者はゆがんだ価値感も味わうのが銀英伝の楽しみ方なのでないかと思う。田中芳樹なんだから。
>
> あ、ごめん。偉そうなこと書いたけど、アニメしか見てないです(しかも相当前)。
あのね、アニメというのは他人の手が加わるので、それで
「銀河英雄伝説」という作品はまだしも小説家田中芳樹を
論評しちゃいけません。
別にまた来る必要もないですが定型文として
「出直しておいでなさい」。
>
- 親記事No.7904スレッドの返信投稿
- board4 - No.8083
Re:「考察」という言葉の意味を『本当に』ご存知ですか?
- 投稿者:S.K
- 2008年07月08日(火) 09時40分
> まず、考察としておかしいのは。
> ミステリーにおいて、いや、小説は、セリフを通しての説明は何をしゃべってもよいことになっています。
> 登場人物が常に本当のことをしゃべったら話にならない。
「おかしな事を喋っている」「行動と価値観と言説に一貫性が
ない」という指摘はして良いんです、事実その通りであれば。
>
> セリフとは作者の思いをそのまま書いているのでなく、その人物がその時に、そういうだろうなと想像して書いているわけで。
> キャラがオカルト否定したのにオカルトになっても別におかしいことでない。
>
本物の宇宙人を目の前にして「プラズマだ」と断言する作品は
ギャグか電波です。
> あと、作者が本の中以外でしゃべったことは当然、小説の質には関係ない。あくまでエッセンスとして考えるべき。
> ファンでない人にも読んでほしいから、いろいろなことを発言する。基本的に(出版社側の)宣伝。
>
明らかに登場人物の価値観や科白、話の展開に影響していて
しかもそれが「悪影響」と呼ばれる類のものだから言及される
んでしょうに。
「考察に物申す」ならせめて「思考」してから書きましょうよ。
-
- board4 - No.8084
アルスラーンの新作が完成したそうですね
- 投稿者:新Q太郎
- 2008年07月10日(木) 21時58分
ひさびさですいません。
URLは入れられないようなので
「とある作家秘書の日常」というブログ名でご検索ください。
==========================
『アルスラーン戦記』、脱稿です!
やった、やりました!
さきほど田中さんから電話がありまして、『アルスラーン戦記』、無事に脱稿したということです。
===================
このサイトが始まった頃に比べるとネット環境も広がっています。
ウィキペディアの「田中芳樹」項目や
上のブログなどを集めたリンク集なんかもあってもいいかもしれませんね。
- 親記事No.8084スレッドの返信投稿
- board4 - No.8085
Re:アルスラーンの新作が完成したそうですね
- 投稿者:S.K
- 2008年07月11日(金) 14時08分
> 「とある作家秘書の日常」というブログ名でご検索ください。
> ==========================
>
> 『アルスラーン戦記』、脱稿です!
>
> やった、やりました!
> さきほど田中さんから電話がありまして、『アルスラーン戦記』、無事に脱稿したということです。
>
> ===================
>
今年は発行されるんですね、いや感激。
そういえば今更ですが以前お話いただきました「国体の為に
命を賭ける事の必要性」について少し。
マル・アデッタでは「人生=自由惑星同盟の矜持」となる
だけの年輪を重ねたビュコックがそれを担う事でヤン=若い者
に「戦うか逃げるか雌伏するか恭順するか」の選択権を与えて
くれた、と思うのです。
ヤンに勝ち目を作りたいだけではないから万が一を狙って
カールゼン提督には協力を頼む、しかし自由惑星同盟はもう
「民主主義国家の理念」を守り支えうる国体ではないと判断
するからフィッシャー達3人に乏しい戦力から5千隻をつけて
ヤンに託す、それが7巻におけるビュコックの心情ではなか
ったでしょうか。
より多大な兵力を与えてしまえばヤンは「民衆の期待」から
逃げられなくなるでしょうし、事前に伝えれば絶対ヤンは
「ビュコックへの恩義」から戦わざるを得なくなるのは作中
にも書かれている事ですし。
随分と昔の提議への遅レスで申し訳ありません。
-
- board4 - No.8088
高島俊男「しくじった皇帝たち」と田中芳樹
- 投稿者:盗塁王赤星
- 2008年07月16日(水) 11時12分
私が大ファンの中国文学者、高島俊男先生の新刊に、「しくじった皇帝たち」(ちくま文庫)という本があります。この本、前半が隋の煬帝について、後半が明の建文帝、というか建文出亡(建文帝が叔父の燕王(後の永楽帝)に皇位を奪われた際に、殺されずに逃げ延びた、という伝説)を題材にした幸田露伴の「運命」について、という構成になっています。
「運命」は多くの批評家、作家に名作として激賞された露伴の代表作のひとつで、とくに漢文書き下し調で書かれたその文章は格調高い名文としてよく知られています。
ところが高島先生はこの「運命」について
―『運命』の大部分は『明史紀事本末』(引用者注―清初の史書)を書き下した―つまり訓読した―だけのものである。(中略)別に露伴でなくても、誰が訓読してもおなじものができる。中学生がやってもおなじことだ。
と喝破しています。
さらに高島先生は「運命」と「運命」を持ち上げた批評家を詳細な資料に基づいて批判し、後者については「わかりもしない漢籍について知ったかぶりをふりまわすのは聞き苦しい」と一刀両断にしています。
さて。
ここで我々が思い出すのはわれらが田中芳樹先生のことです。
周知のごとく、田中先生の卒論は他でもないこの「運命」についてであり、さらにこの作品を現代向けにリメイクした「運命 二人の皇帝」という作品も発表しています。
「運命 二人の皇帝」の小前亮さんによる解説によると、田中先生は「運命」の文章について「意味はわからなくても、声に出して読んでいるとだんだんうっとりしてくる」とべたぼれなんだそうです。
……ここはぜひとも、田中先生に高島先生の「運命」評についての感想をお聞きしたいところではあります。
もっとも、私には田中先生の「うっとり」を笑う資格などは到底ありません。
「運命」はずいぶん昔に一度読みましたが、正直言ってなにがなにやらよくわかりませんでした。
したがって田中先生のように名文に酔いしれることもできず、もちろん高島先生のように露伴のはったりと怠慢を見抜くこともできず、「ふ~ん、名文というのはこういうものなのか」とぼんやり考えていただけでした。アホ丸出しです(笑)
ただやっぱり田中先生の中国関係の事物に対する評価というのは大前提として無条件の「中国文化崇拝」によってかなり下駄をはかされている部分があるんじゃないかなあ、もし露伴が普通の日本語で「運命」を書いていたら鼻も引っ掛けなかったんじゃないかなあ、などと邪推してしまう次第なのであります。
- 親記事No.8088スレッドの返信投稿
- board4 - No.8089
Re:高島俊男「しくじった皇帝たち」と田中芳樹
- 投稿者:S.K
- 2008年07月16日(水) 14時12分
> さて。
> ここで我々が思い出すのはわれらが田中芳樹先生のことです。
> 周知のごとく、田中先生の卒論は他でもないこの「運命」についてであり、さらにこの作品を現代向けにリメイクした「運命 二人の皇帝」という作品も発表しています。
> 「運命 二人の皇帝」の小前亮さんによる解説によると、田中先生は「運命」の文章について「意味はわからなくても、声に出して読んでいるとだんだんうっとりしてくる」とべたぼれなんだそうです。
> ……ここはぜひとも、田中先生に高島先生の「運命」評についての感想をお聞きしたいところではあります。
「ぼくちゅうがくせいだからむずかしいことわかんないやへへへ、
でも『こうてい』はオラなんだかワクワクしてくるぞ」
と言ったら、尊敬の念を新たにしようと思います。
でも少し生え際の後退を助長させてやりたくなる誘惑も覚える
かもしれませんが。
>
> もっとも、私には田中先生の「うっとり」を笑う資格などは到底ありません。
> 「運命」はずいぶん昔に一度読みましたが、正直言ってなにがなにやらよくわかりませんでした。
> したがって田中先生のように名文に酔いしれることもできず、もちろん高島先生のように露伴のはったりと怠慢を見抜くこともできず、「ふ~ん、名文というのはこういうものなのか」とぼんやり考えていただけでした。アホ丸出しです(笑)
> ただやっぱり田中先生の中国関係の事物に対する評価というのは大前提として無条件の「中国文化崇拝」によってかなり下駄をはかされている部分があるんじゃないかなあ、もし露伴が普通の日本語で「運命」を書いていたら鼻も引っ掛けなかったんじゃないかなあ、などと邪推してしまう次第なのであります。
さて、それはどうですか?
原典を古代中国で書かれて、その後イタリア語訳などされても
『剣呑』という価値が変わらなかった「ルルイエ異本」という
奇書がありまして(笑)。
-
- board4 - No.8091
薬師寺シリーズ考察3
- 投稿者:冒険風ライダー
- 2008年07月27日(日) 14時13分
ところで薬師寺シリーズ考察では、さも当たり前のように薬師寺シリーズの作品毎に【1巻】【2巻】等の巻数表記を行っているわけなのですが、実は薬師寺シリーズにはそういう巻数表記が正式には存在しないんですよね。私が行っている薬師寺シリーズの巻数表記は、作品が初刊行されている順に私が勝手に連番を振っているもので、作品および作家サイドで公式に認められている表記ではありません。
何故銀英伝やアルスラーン戦記などと同じ「シリーズ作品」であるにもかかわらず、薬師寺シリーズに巻数表記が存在しないのか? その命題に対する解答のひとつが、今回取り上げることになる薬師寺シリーズの【3巻】となる「巴里・妖都変」にあります。
「巴里・妖都変」以降の作品から顕著になるのですが、薬師寺シリーズは巻毎に出版社がコロコロ変わるという奇矯な特性を持っています。「魔天楼(1巻)」「東京ナイトメア(2巻)」「クレオパトラの葬送(4巻)」「霧の訪問者(7巻)」が講談社より出版されているのに対して、「巴里・妖都変(3巻)」「黒蜘蛛島(5巻)」は光文社、「夜光曲(6巻)」「水妖日にご用心(8巻)」は祥伝社からの刊行です。ここから、同一シリーズであるにもかかわらず出版社が固定されていないために巻数表記が「できない」、というひとつの仮説が導きだせるわけです。
何故薬師寺シリーズのみ、わざわざこんな「出版社行脚」が行われているのかについては、何と言っても【あの】「らいとすたっふ」が関わっているわけですから、「大人の事情」とやらが絡んだロクでもない思惑があるように思えてならないのですけどね。何しろ【あの】「らいとすたっふ」は、田中作品の再販乱発およびパチンコへの売り飛ばしという、金儲け主義丸出しの前科が立派に存在する組織であるわけですし(苦笑)。
今回の薬師寺シリーズ考察は、薬師寺シリーズで初めて出版社変更が行われることになった3巻「巴里・妖都変」のストーリー&社会評論に対するレビューとなります。それでは始めていきましょう。
薬師寺涼子の怪奇事件簿3巻「巴里・妖都変」
2000年1月30日 初版発行
薬師寺シリーズ3巻「巴里・妖都変」 光文社ノベルズ版P7上段~下段
<だいたいフランスという国そのものが薬師寺涼子に似ている。
一九八五年、南太平洋で核実験を強行したとき、反対行動をおこなった環境団体の船をフランス政府の秘密工作員が爆破して、メンバーを殺害した。むろん各国から非難の声があがったが、フランス政府は謝罪なんぞしなかった。「警告を無視して領海を侵犯したむこうが悪い」というのである。
やっていることは悪辣で無反省なのに、堂々としていてカッコよくておシャレなものだから、ついだまされてしまう。涼子の正体を知りつくしているはずの私でさえ、何度だまされて後悔したことか。>
いくらフランスという国が嫌いだからといって、事実の歪曲を行ってまでフランスを美神令子の劣化コピーごときと同列に並べる行為は感心できませんね、泉田準一郎君。
ここで挙げられているのは、1985年7月10日、南太平洋のムルロア環礁におけるフランスの核実験に反対・抗議活動を行うため、ニュージーランドのオークランド港で出港準備をしていた、環境保護団体グリーンピースの帆走キャンペーン船「虹の戦士号(S.V.Rainbow Warrior)」が爆破され、同船に乗り合わせていたカメラマンのフェルナンド・ペレイラが死亡した事件です。この事件はニュージーランド警察当局の捜査によって、フランスの諜報機関である対外治安総局(DGSE)によるテロであることが突き止められ、テロ作戦を指揮したとされる2名のフランス人が逮捕されました。
この事件をきっかけに、主権を侵害されたニュージーランドとフランスの関係は悪化。さらに事件から2ヵ月後には、当時のフランス国防相の関与も判明し国防相は辞任、フランス政府は「虹の戦士号」爆破を認めて公式に謝罪を行い、グリーンピースに対して賠償金が支払われています。そしてグリーンピースは、このときの賠償金を元に「虹の戦士2号(S.V.Rainbow WarriorⅡ)」という新しい船を竣工させています。
フランスはすくなくとも問題となっている事件では、自分の責任を認めた上で謝罪も賠償も行っているのですし、そもそもニュージーランド国内でテロを起こし、他国の主権を蹂躙したこの当時のフランスが「警告を無視して領海を侵犯したむこうが悪い」などという自爆行為的な言い訳などするわけがないでしょう、自爆評論を趣味にしているとしか思えない薬師寺涼子じゃあるまいし(苦笑)。
全く、こんな事実無根の捏造話を元に薬師寺涼子などと同列に並べられるフランスもいい迷惑ですね(>_<)。
第一、「薬師寺涼子に似ている」という事例を挙げたいのであれば、ここでこき下ろされているフランスよりも、むしろ例の事件で被害者の立場にあるグリーンピースの方がはるかに妥当でしょうに(苦笑)。
グリーンピースは、フランスのみならずアメリカのFBIからも国内テロリスト団体として監視されている組織です。その活動は、目的のためには手段を選ばない犯罪そのものと評しようがない過激なものも多く、1991年には「冷戦後の不安定な政情の中で、核兵器が簡単に流出することの危険性を明らかにする」などという理由で、東ドイツに配属されていた当時のソ連軍将校からスカッドミサイルの核弾頭を購入する計画を立てています。
またグリーンピースは、2001年にはオーストラリアのシドニーにある原発を、2003年にはイギリスのサフォーク州サイズウェルの原発を、それぞれ「原発の安全性や警備に問題があることをアピールする」などという理由から実力行使で占拠するという事件も起こしています。やっていることはテロリズムそのものであると言わざるをえません。
日本でも、1992年11月13日に、フランスからプルトニウムを輸送していた「あかつき丸」を護衛していた巡視船「しきしま」に対して、グリーンピースのキャンペーン船「ソロ」が接触事故を起こしていますし、2005年~2006年には、日本の調査捕鯨船に対して、グリーンピースの船舶が抗議行動を行い、互いの船が接触する事故が起こっています。しかもその際グリーンピースは、事故に対する謝罪どころか、今後も同様の抗議活動を続けるという旨の声明まで発表する始末だったのです。
「やっていることは悪辣で無反省」で「薬師寺涼子に似ている」という点では、例の事件で【きちんと謝罪および後始末を行っている】フランスよりも、「環境テロ団体」と評されることすらあるグリーンピースの方がはるかに該当するのではないかと思われるのですが、そちらは無視してかまわないとでも言うのですかね?
薬師寺シリーズ3巻「巴里・妖都変」 光文社ノベルズ版P36下段~P37上段
<私はときどきフシギな気がする。文化人やジャーナリストといわれる人たちは、「犯罪者はミスをしない」と信じこんでいるのだろうか。
弁護士とその妻子が、狂信者団体によって殺害された、有名な事件がある。そのとき狂信者団体のバッジが現場に落ちていた。当然まっさきにその団体が疑われるべきだが、団体のスポークスマンは、ぬけぬけといってのけた。
「われわれが犯人だとすれば、わざわざ現場にバッジを落としたりするわけがない。これは、われわれに罪を着せようとする、宗教弾圧の陰謀だ」
あきれたことに、多くの文化人やジャーナリストが、この安っぽい詭弁を信じこんだ。真相を追究する人々を、犯人たちといっしょになって非難した文化人までいる。だが事実は……いまでは誰もが知っている。>
世の中には、フィリピンの日本人誘拐事件を「当時のリクルート汚職事件を隠蔽するためにでっち上げられたもの」と主張したり、大韓航空機爆破事件を「汚職隠しの公安の陰謀」などとのたまったりする阿呆もいるのですから、たかだかオウム真理教程度の詭弁陰謀論を素直に受け入れる文化人やジャーナリストがいたとしても何らフシギなことではないと思うのですけどね~(笑)。
その実例をお見せ致しましょうか↓
創竜伝3巻 P118上段~下段
<「日本の公安警察は、まことに特異な能力を持っている。政府高官の汚職や疑惑がおおやけになった直後、かならず外国のスパイが逮捕されたり、過激派の犯行が明らかになったりする」
そうアメリカの新聞が皮肉ったことがある。一九八八年にR事件とよばれる新興企業がらみのスキャンダルがおき、首相や大蔵大臣の名前が事件に出てくると、いきなり「フィリピンの日本人誘拐事件は日本の過激派のしわざだった」というニュースが発表された。一時は大さわぎになったが、その後、何の続報もなく、いつのまにやら話は立ち消えになってしまった。こんな例はいくつもあって、公安警察のやりくちはワンパターンなのだが、 マスコミがまたそのつど、ほいほいとじつによく踊るのである。お隣りの国でおきた「旅客機行方不明事件」も、いつのまにか「旅客機爆破事件」になり、「美貌の女スパイ事件」になり、「拉致された日本人女性事件」になって、さて肝腎の旅客機と乗客はどうなったのやら、ろくに捜索もされぬままに、いつのまにか人々の記憶は薄れてしまったのだ。何と御しやすいマスコミであり、何と忘れっぽい国民であろう……。>
こんな「安っぽい詭弁」でもって「真相を追究する人々」を非難した挙句、未だに己の間違いを訂正すらすることなく、見当ハズレなトンデモ社会評論を吹聴し続ける人間が実在する、などということが果たして信じられますかね、泉田準一郎君(苦笑)。
まあそんな皮肉はさておき、オウム真理教が唱えたような詭弁陰謀論が何故受け入れられたのかについては、他ならぬ田中芳樹自身の過去の言動が全てを物語っているわけなのですけどね。すなわち、公安を始めとする警察組織全般に対する「こいつらは何をするか分からない」という不信感および偏見がその根本にあったわけです。
1995年のオウム真理教事件以前は、組織犯罪に対する国民の理解はお世辞にも高いとは言い難かったですし、またマスコミも、たとえば犯人に対する警察官の発砲すら鬼の首を取ったかのように叩きまくる報道を派手に展開するくらいに、とにかく警察を危険視する風潮がありました。今からでは考えられないでしょうが、オウム真理教のようなテロ系の組織的犯罪はフィクションの世界にしか存在しない、などと半ば本気で信じられていたような時代です。だからこそ、警察の権力行使が過剰すぎるほどに危険視され、警察陰謀論が簡単に受け入れられる土壌が存在したというのがまずひとつ。
そして第二は、その手の警察の権力行使によって何らかの不利益を被る組織および個人が、オウム真理教以外にも日本には少なからず存在する、というのも大きいでしょうね。これには2つのパターンがあって、ひとつはオウム真理教と同じくらいに後ろ暗いことをしているから、自分達にも同じように捜査のメスが入るのではないかと考える自己保身派で、日本共産党や創価学会などがこれに当たります。もうひとつは、常日頃から警察(というより国家権力全般を)叩くこと自体が自己目的化している左傾マスメディアで、朝日新聞・毎日新聞・共同通信およびその系列会社全てがこれに該当します。
これらの組織、およびそれに関わる文化人達は、「警察を掣肘したい」という一点においてオウム真理教と利害が一致します。そのため連中は、オウム真理教の主張を本気で信じていたというよりも、むしろ自分達の保身と生活と利害のためにこそ、無理矢理な論調を展開してでも、オウム真理教を擁護せざるをえなかった、というわけです。この連中は1995年の地下鉄サリン事件以降でさえ、「結社の自由」辺りを大義名分に「破壊活動防止法をオウム真理教に適用してはならない」などと大真面目に主張するくらいの筋金入りだったのですから、オウム真理教の「安っぽい詭弁」とやらが仮になかったところで、連中は別のところから似たような理論を持ってきて、同じような陰謀論的警察叩きを展開しまくっていたことでしょう。
自己保身と利害から陰謀論が利用され、無知と偏見がそれを助長する。肯定否定は別として、一昔前のオウム真理教や田中芳樹が唱えていたような「安っぽい詭弁」が受け入れられていた背景には、そういう構造があったように思えてならないのですけどね。
薬師寺シリーズ3巻「巴里・妖都変」 光文社ノベルズ版P100上段
<「あんたがほんとうに霊能力者だっていうんなら、あたしを地上から消してごらんなさいよ。いますぐ、ここで。さあ、塩なんかあてにせず、自力でやってみたら!?」
涼子の言動は過激だが、内容的には私も同感である。多くの人が見守るなかで空を飛んでみせた霊能力者なんて、ひとりもいない。一九九一年末にソビエト連邦が消えてなくなる、と予言した予知能力者もひとりもいない。職業的な霊能力者というのは、つまりインチキ霊能力者という意味だ。>
薬師寺シリーズの世界には、3巻終了までの時点で判明しているだけでも、
・ 壁の中を自由に移動できる大理石の蠍の怪物
・ 黒魔術+陰陽道から生まれた、空を飛ぶ有翼人
・ 黒魔術+陰陽道から生まれたミノタウロス、ヒュドラ、エキドナ
・ 黒魔術+陰陽道から生まれた、石化能力を持つゴルゴン
・ 錬金術から生成された、人間の脳を吸い取るマヴォーニク
・ 錬金術から生成された、目に見えない食欲の怪物エスタメヌス
といった「科学的に説明不可能な手法による誕生経歴および特殊能力を持つ怪物」が多数出現している上、それらを操る人間も実在し、さらには薬師寺涼子も泉田準一郎も眼前でそれらを目撃しているはずなのですが、そんな世界で霊能力者の存在そのものを否定することに一体どんな意義があるというのでしょうか? まさに「自分が直接関わっていることを自分で全否定する」「オカルトに依存しながらオカルトを否定する」以外の何物でもないのですが。
薬師寺シリーズの世界では、むしろこういう類の論法でもってオカルトを全肯定した方が、作品の整合性という観点から見てもはるかに妥当なものとなりえるはずなのですけどね↓
創竜伝6巻 P10上段~下段
<ホイスラーという男が彼を出迎えた。タウンゼントのスタッフのひとりで、年齢は三〇代後半、黒い髪、大きな鼻、貧弱な顎が特徴となっている痩せた男だ。いちおう、世にいうところの超能力者であった。
四人姉妹がかかえこんでいる超能力者にも、さまざまな種類と等級がある。ホイスラーは最下級の男であった。彼はたしかに念動力と通視力とを持ち、スプーンの柄を曲げてみせるていどのことはやってのけたが、それ以上のことはできなかった。
それでも彼が与えられている任務は、けっして小さなものではなかった。彼の任務は、インチキ超能力者として活動し、超能力や超能力者に対する社会的信用を失わせることであった。念動力でスプーンを曲げるときでも、他人に背中を見せ、ことさらあやしまれるようふるまった。ロンドンの名物であるビッグ・ベンの時計の針を、念動力でとめてみせると宣言し、みごとに失敗した。ソ連の外交官を念動力であやつって亡命させた、と主張し、当人から完全に否定された。彼が何かやるごとに、人々はあざ笑い、彼だけでなく超能力そのものを信用しなくなった。
なぜこのような任務がホイスラーに与えられたのか。いうまでもなく、四人姉妹が世界の超能力者をひとまとめにして支配するためであり、しかもその事実を隠しておくためである。一般市民が超能力の存在を認め、科学者がまじめに研究にとりくんだりしては、四人姉妹としては困るのであった。政治にせよ歴史にせよ科学にせよ、真相はごく一部の選ばれた人間だけが知っていればよい。それが四人姉妹の支配技術だった。>
一方でこんなことを書いておきながら、他方では同じ巻で輪廻転生の存在を(作中に存在が確認されているにもかかわらず)全否定してのけている創竜伝もそうなのですが、オカルトが存在する世界を描写しながらオカルトを否定するなどという意味不明かつ自己否定的な行為はいいかげん止めて頂きたいものなのですけどね。田中芳樹は「自分自身のストレス解消のためだ」などと主張するのかもしれませんが、親(作家)から常にそのような虐待を受けなければならない作品(子供)が可哀想ではありませんか(T_T)。
まあ田中芳樹と「らいとすたっふ」には、かつて「自分の子供を強制的にポルノに主演させられて喜ぶ親がいると思っているのか」などと言っておきながら、ポルノ以上に問題だらけのパチンコに、しかもそのことを充分に承知していながら自分の作品を売り飛ばした前科が存在するのですから、自分の作品に対する作家としての愛情を欠片たりとも抱いていなかったとしても別に驚くべきことではないのかもしれないのですけどね。
薬師寺シリーズ3巻「巴里・妖都変」 光文社ノベルズ版P124下段~P125上段
<「オタクに国境なし!」
涼子が肩をすくめ、由紀子が顔に手をあてた。
どうやら変人にも国境はないらしい。まあ人種や民族の間に、偏見や差別がないのはいいことだ。それに、私が見ても、アメリカのアニメより、日本のアニメのほうが、作品世界のオリジナリティでもキャラクターの魅力でも、ずっと上だろうと思う。>
日本のアニメを称揚すること自体は大いに結構なことですが、作品世界のオリジナリティやキャラクターの魅力などというシロモノを薬師寺シリーズの作品中で語るのは明らかに自殺行為である、ということが、作者にも作中のキャラクターにも理解できないのでしょうかね~(苦笑)。
そもそもの出発点がスレイヤーズと極楽大作戦の劣化コピー作品でしかない上、パクリ元の魅力を大いに損ねるどころか否定までしている邪魔な要素が大量にちりばめられている薬師寺シリーズに、他者に誇りえるオリジナリティなどあるわけがないでしょう(笑)。私はテンプレート作品にはテンプレート作品なりの魅力なり存在意義なりがあるという考えの持ち主ですが、一目見ただけで「パクリ」と分かるような作品およびそれを書いている作家がオリジナリティを語るのは笑止な限りでしかありません。
しかも薬師寺シリーズは、テンプレート作品として見た場合ですら全く評価することができないんですよね。よりにもよって、スレイヤーズおよび極楽大作戦の主人公の性格とは本来全く相容れないはずの創竜伝的な社会評論などを作品世界に導入してしまったがために、これまで論じてきた「オカルトに依存しながらオカルトを否定する」だの「金持ちの権力者が金持ちおよび権力者を否定する」だのといった支離滅裂な惨状が発生し、それによって作品の世界観の崩壊および(本来ならば魅力な存在たりえたはずの)作中キャラクターの低能電波化が進行し、作品の質を地の底にまで下げまくっているときているのですから。ただのテンプレート作品ならば、すくなくともここまでの醜態を晒すことはなかったでしょうに(>_<)。
日本のアニメには及ばないにせよ、すくなくとも薬師寺シリーズなどよりは、アメリカのアニメの方が、まだはるかに作品世界のオリジナリティやキャラクターの魅力というものが存在しますし、テンプレート作品として見てもはるかに優秀であると言えるのではないですかね、客観的に見れば不幸でも何でもないのに「自分は不幸だ」と喚くしか能のない、横島忠夫の歪な複製品たる泉田準一郎君。
薬師寺シリーズ3巻「巴里・妖都変」 光文社ノベルズ版P130下段~P131下段
<私たちが飛びこんだ店は、ブランド品の店だった。シャネルかエルメスか、ルイ・ヴィトンかニナ・リッチか、ヴェルサーチかクリスチャン・ディオールか、フェラガモかカルヴァン・クラインか、私にはまるで区別がつかない。ただ、はなばなしくあがった悲鳴の大半は日本語だった。日本人女性の団体客が来店しているようだ。
「お客さま、いったいこれは……」
黒縁の眼鏡をかけた小柄な中年の男が店の奥から駆け出してきた。日本人が多い店だから、日本人のスタッフがいるようだ。
「ここの店長さん?」
「さようで。ここはあのヴィクトール・ガデラのシャンゼリゼ店です」
「あの」といわれても、私には猫に小判である。日本人の店長は、無知な私に怒りとあわれみの視線を向けると、店頭に飾ってあった一冊の本を手にした。
店長がうやうやしくかかげた本の表紙には、日本語でつぎのように記されていた。
「まるごと全部いただくわ 猫柳ルビコ著」
どこかでみたような気のする本だ。
「自他ともにムダつかいの女王と認めるベストセラー作家、猫柳ルビコ先生の、爆笑エッセイですぞ。三〇万部を突破してます。この本に、当店のことが書かれておるんです」
「悪口が?」
「とんでもない! 当店の品ぞろえと店員の態度がよろしい、と、おほめいただいております。何でアナタ、悪口を書いた本を店頭に飾らなきゃならんのですか」
「そりゃそうだ、失礼。でもムダづかいの女王にほめられてうれしいですか。おたくの商品を買うのはムダづかいだ、といわれてるわけでしょう?」
店員は絶句した。>
店の商品を買うこと自体が無駄遣いなのではなく、店の商品を「とにかく買いまくる」から「ムダつかいの女王」と言われているのでしょうに、泉田準一郎の国語能力は致命的なまでに低いと言わざるをえませんね。作品中にある「まるごと全部いただくわ」という著書の題名からもそれを察することはできますし、元ネタの人はまさにそういうキャラクターなわけなのですが。
ここで挙げられている「猫柳ルビコ」の元ネタは、記載されている特徴から、ライトノベル作家兼エッセイストの中村うさぎ女史であると推察されます。中村うさぎには、自分のブランド物買い漁りやホストクラブ通いを赤裸々に綴ったエッセイシリーズ「借金女王のビンボー日記」「ショッピングの女王」で大ヒットした経歴があり、浪費家としてその名を轟かせているところから、田中芳樹は件の描写で取り上げることにしたのでしょう。
で、中村うさぎの浪費癖がどれほどのものかと言うと、1年間だけで服飾費に2千万円も蕩尽し、クレジットカードを使いまくってブランド品や高級品を買い漁った結果、1ヶ月のカード請求額が450万円に上り、ホストクラブにハマって年間1500万円以上もの金をつぎ込む。それらの浪費を維持するために消費者金融から多額の借金を繰り返し、税金や水道光熱費を滞納して催促を求める役所と熾烈なバトルを演じる……というあまりに凄まじいシロモノです。そして、そんな人間失格以外の何物でもない破綻した生活スタイルを、陽気な論調で客受けするように書き綴っているからこそ、中村うさぎの著書はベストセラーたりえたわけです。
中村うさぎの浪費癖は、日常生活における不平不満が購買欲求に転化する精神疾患の一種で「買い物依存症」と呼ばれるものです。「買い物依存症」の特徴は、買い物をしている際は充足感で満たされているものの、買い物が終わった瞬間に買ったものに対する興味をなくしてしまったり、高額な買い物をしたこと自体に罪悪感を覚えてしまったりする傾向にあります。買い物の際に購入した【物】ではなく、買う【行為】それ自体が目的化しているわけで、これではいくら【物】を買っても満たされることがないのは当然でしょう。
「買い物依存症」に陥っている中村うさぎの「ムダづかい」は、あくまでも中村うさぎ個人の精神的な問題に帰属するものなのであって、それが何故「おたくの商品を買うのはムダづかいだ」ということになってしまうのでしょうか? 泉田準一郎の愚かな国語解釈と無知ぶりには、さすがの店員も唖然とせざるをえなかったことでしょうね(苦笑)。
薬師寺シリーズ3巻「巴里・妖都変」 光文社ノベルズ版P182下段~P183上段
<「実力のないヒヨコにかぎって、そういいたがるものさ。わたしから見たらお笑いだね。運なんかに頼らず、実力と努力とで、わたしは錬金術を自分のものにしたんだ」
「ほんとにそうかしらね」
「……どういう意味だい?」
花園すみれが両目を細める。涼子の瞳に皮肉っぽい光が満ちた。
「あんたていどのインチキ科学者が、錬金術のテクノロジーをほんとに会得したなんて思えないのよね。自然科学において、あたらしく発見された法則が、真理として認められるためには何が必要か、いまさらいうまでもないでしょ?」
私のようなローテクの文科系人間でもそれくらいは何とか知っている。科学上の新発見が真理として認められるには、つぎの二点が不可欠なのだ。
誰が計算しても、おなじ解答がでること。
誰が実験しても、おなじ結果がでること。
いわゆる超能力が科学上の真理として存在を認められないのは、実験のたびに異なる結果が出るからだ。しかも、実験自体の精密さがあやしいのだから、話にならない。>
黒魔術だの陰陽道だの錬金術だのといったオカルト的要素や、それを駆使して生成された怪物が頻出する薬師寺シリーズで、「科学上の真理」などという概念が使われるとは笑止もいいところですね。
そもそも、今まで薬師寺シリーズに出てきたオカルト的要素が、既存の科学理論で説明されたことが作中でただの一度でもありましたっけ? 薬師寺シリーズで登場している諸々の怪物も、2巻で登場した黒魔術や陰陽道も、3巻の錬金術も、薬師寺シリーズの世界において実際に力を行使しているわけですが、泉田準一郎の論理では、それらの事象も「科学的に説明できない」のだから当然否定すべきシロモノである、という結論が当然導かれるべきなのではありませんかね?
風水学・呪い・占い・予言・超能力は科学的に説明できないからインチキなシロモノであるが、(呪いを内包している)黒魔術・(風水学と占いが体系化されている)陰陽道と錬金術、およびそれらによって生成された怪物および怪物が使う特殊能力は科学的に説明できなくても成立しうる……。こんな御都合主義かつダブルスタンダードだらけの支離滅裂なオカルト概念が如何なる理由と論理でもって薬師寺シリーズで成立しえているのか、私ははなはだ疑問に思えてならないのですが。
否定されるべきオカルトと肯定されるオカルトとの間に明確な基準に基づいた区別を行うことができないのであれば、素直にありとあらゆるオカルト的要素を全肯定する、またはそれこそオカルトを完全排除したミステリー系推理小説、という形にしておいた方が、作品的には良かったのではないかと思うのですけどね~(>_<)。
ところで3巻「巴里・妖都変」で登場している錬金術なのですが、これについて泉田準一郎は以下のような考え方を抱いております↓
薬師寺シリーズ3巻「巴里・妖都変」 光文社ノベルズ版P166下段~P167上段
<それにしても錬金術なんてシロモノにかかわることになるとは。
私は不快だし、不安でもあった。
あたらしいテクノロジーやシステムが出現するときには、かならず強烈な反作用・副作用がともなう。原子力の発見は核兵器を生み、生命科学の進歩はクローン人間誕生の悪夢に結びつく。錬金術だって、どんな兇事を生み出すか、知れたものではない。
だいたい世の中にそううまい話はないし、バラ色の夢の九割までは妄想か詐欺でしかない。警視庁づとめなどやっていると、「何でそんな安っぽいペテンにひっかかるんだ」と、被害者に対してあきれることがしばしばである。
「錬金術によって石ころを黄金に変える」
なんて、そんなうまい話が無害のまま終わるわけがないのだ。>
まず、「あたらしいテクノロジーやシステム」の「強烈な反作用・副作用」云々の話が、どこをどうすると「だいたい世の中にそううまい話はないし、バラ色の夢の九割までは妄想か詐欺でしかない」という論理に結びつくのかが理解不能ですね。ここでたとえ話として挙げられている原子力や生命科学、そして3巻「巴里・妖都変」で登場している錬金術は、「妄想か詐欺」で片付けられるような「実体のない無力な存在」などではないのですが。
泉田準一郎が「何でそんな安っぽいペテンにひっかかるんだ」などと呆れている詐欺被害者の場合、その内容は、ありもしない「バラ色の夢」を信じ込まされて大金を投じたり、私財を投げ打ったりといったものでしょう。「バラ色の夢」は最初から空中楼閣的なシロモノに過ぎず、それ自体は何の力も持ってなどいないわけです。
それに対して、原子力や生命科学は、すくなくともそれ自体に「バラ色の夢」を実現させる力が兼ね備えられています。その力は、一方では確かに核兵器やクローン人間誕生を招く「マイナスの脅威」として顔を持っているわけですが、他方ではクリーンエネルギーや医学の進歩にも大きく寄与する「プラスの恩恵」的要素も多々あるわけです。「あたらしいテクノロジーやシステム」は、誰によって使われるか、またどのような使われ方をするかによって、善にも悪にも、脅威にも恩恵にもなりえるものなのです。
そして、3巻「巴里・妖都変」の錬金術もまた、登場人物によって原子力や生命科学などと同じように扱われています。錬金術を駆使する敵陣営は、錬金術の能力を大いに自画自賛かつ誇示していますし、薬師寺涼子もまた錬金術の能力を認めた上で、その力を我が物にしようと画策しています。すくなくとも薬師寺シリーズの世界では、錬金術は「妄想か詐欺」で片付けられるものとは定義されてなどいないわけです。
脅威と恩恵の「実体」が存在する原子力や生命科学と、「実体」が存在しない妄想や詐欺や「安っぽいペテン」の話が、どうして同一線上で語られなければならないのでしょうか? 内実も問題も全く違うというのに。
で、こんなわけの分からないモノローグをだらだらと語り続けている泉田準一郎は、その桁外れな錬金術嫌いが高じて、ついにはアレほどまでに「逆らってはイケナイ上司」と自分に言い聞かせていたはずの薬師寺涼子にすら刃向かうという愚挙に出ることとなります↓
薬師寺シリーズ3巻「巴里・妖都変」 光文社ノベルズ版P198上段~P199下段
<「北岡のことですがね、どうしますか」
それと知らずに、とはいっても、連続殺人犯を社員としてやとっていたとあっては、JACESという会社の信用にかかわる。その点をどう解決するのか。
「これはもう、全部なかったことにして、口をぬぐうしかないわね。むずかしいことじゃないわ、藤城邸が消えてなくなればね」
「真相を明らかにしないんですか」
「真相はあたしがつくるわ。あとは世間が認めりゃ、それで歴史がつくられるのよ」
キャリア官僚の手でつくられる公式記録なんてものは、たぶん、そういうものなのだろう。真相だの正義だのと口にするのもばかばかしい。だが、私は真相をほぼ知っている。涼子に同調して口をぬぐうべきだろうか。
「で、あなたにとっては、どちらが優先課題なんですか」
「どちらって、何のことよ」
「JACESの名誉と、錬金術のテクノロジーとです」
涼子は即答せず、いささか不審そうに私を見つめた。ゆっくりと私はいってやった。
「その気になれば、私は、JACESにとって不利な事実をバクロできるんですよ」
「ちょっと、まさか、北岡のことをじゃべる気じゃないでしょうね」
そんなことしたら生命はないわよ、といわれるかと思ったが、そうではなかった。交渉の余地がありそうだ。
「どうです、取引しませんか」
「取引?」
「そうです」
「どんな取引よ」
「殺人犯バロンの正体がJACES社員の北岡伸行だった、そのことが警察にもマスコミにもいっさい知られないよう、私も協力します。誰にもしゃべらないし、証拠も消します。ですから、あなたも、錬金術のことはあきらめてください。あれはこの世にあってはならないもので、だからこそ亡びたんだと思います」>
錬金術をこの世から消すためならば、(錬金術を我が物にしようとする)薬師寺涼子の方針にも逆らうし、犯罪の隠蔽工作にも自ら進んで加担する、というわけです。泉田準一郎って、もしかしなくても薬師寺涼子などよりもはるかに偏狭で自己中心的な人間と言えるのではないでしょうか?
まず、「あれはこの世にあってはならないもので、だからこそ亡びたんだと思います」という考え自体が非常に危険なシロモノです。歴史を紐解いてみれば、ナチス・ドイツのユダヤ人排斥や共産圏の大虐殺なども、まさに「あれはこの世にあってはならないもの」だから抹殺すべき、という発想から始まったものなのですし、偏見と無知から一方的に裁き、文化や先進技術そのものを抹消する、という点では、ヨーロッパ中世の異端審問や魔女裁判と何ら変わるところがありません。
前の引用で泉田準一郎が挙げていた原子力や生命科学の事例で説明すれば、より事の本質は見えてくるでしょう。原子力や生命科学も、確かに泉田準一郎が述べているように「使い方次第で」危険な副作用や反作用が発生するものでしょうが、しかし一方では、これまた「使い方次第で」人類に多大な恩恵をもたらしてくれるものでもあるわけです。ならばここで本来考えるべきは、それらのテクノロジーの「正しい使い方」を掌握した上で、マイナス面の弊害を抑えつつ、プラス面を生かす方法を模索することであるべきであって、マイナス要素があるからといってプラス要素を何ら顧みることなく危険視した挙句、存在そのものを抹殺しようとするその姿勢は、視野の狭い自己中心的な狂信者のそれと全く同じではありませんか。
というか、ここで私が言っていることは、実のところ、他ならぬ田中作品の中でさえも説明されていることなのですけどね↓
夏の魔術シリーズ2巻「窓辺には夜の歌」 徳間ノベルズ版P177上段~下段
<「そんな本、焼いてしまえばいいんですよ。もっと貴重な、有益な書物で、焼かれてしまったものがいくらでもあるんでしょ? よりによって、そんな有害な本だけが生き残るんだからたまらない」
「どんな本が有益でどんな本が有害かは、むずかしい問題だな」
北本氏は慎重だった。
「一冊の本から何をえるか、それは読む側の資質にもよる。また、書物の益や害を、権力者が好き勝手に判定するということにでもなれば、その害毒は一冊の魔道書どころではないよ」
「そうですね。ナチス・ドイツの焚書なんて例もあるし、おれ、軽率でした。さっきの発言は取りけします」
あっさりと耕平は自分の意見がまちがっていたことを認めた。>
「書物」を「あたらしいテクノロジーやシステム」、および薬師寺シリーズにおける諸々のオカルト要素などに置き換えても、同じことが確実に言えるのですがね。というか、ここで私が引用している文章自体が、「人に強大なオカルティック的能力を与える本をどうするべきか?」という話なわけですし(笑)。
泉田準一郎は一体何の権利があって、それこそナチス・ドイツばりに錬金術を、あたかも自分が「文明の裁定者」であるかのように一方的に断罪する、などという暴挙を働いているのでしょうか?
そしてさらに言えば、泉田準一郎のごとき一種の人民裁判的オカルト抹殺手法は、すくなくともオカルトが実際に跳梁跋扈している薬師寺シリーズの世界においては、泉田準一郎が考えているであろう「錬金術による兇事の発生を未然に防ぐ」という観点から見てさえも、何ら問題の解決に繋がることがないのです。
そもそも、薬師寺シリーズ作中の錬金術自体が、古代エジプトのアレクサンドリアより生まれた「ゾシモスの秘法」に基づいて復元されたものであることを敵陣営が主張しています。つまり、ここで泉田準一郎が言うように錬金術を抹殺したとしても、また後日に別のところから錬金術が復活する可能性は否定できないわけです。
また、ここで錬金術を何もせずに葬ってしまうと、その錬金術がどのような力を持っているのか、またどのような脅威なり恩恵なりがもたらされるのかということすらも分からないままとなってしまいます。恩恵の話は今更言うまでもなく、前述の原子力や生命科学の脅威の話にしても、「そういう脅威が発生する」ということが分かるからこそ対策を考えることができる、という一面もあるわけです。錬金術を研究し、脅威と恩恵の知識をきちんと踏まえた上で対策を考えていけば、人類の発展に寄与するだけでなく、将来、錬金術を悪用しようとする人間が出現した際にも、より有効に対処することだって可能となりますし、場合によっては、錬金術以外のオカルト理論や怪物などに対しても有効な対策たりえるかもしれないのです。
ただでさえ薬師寺シリーズの世界には、「オカルトが跳梁跋扈しているにもかかわらず、スレイヤーズや極楽大作戦のようにオカルトの存在が世間一般で全く認識されていない」という問題が存在していますし、実際、作中でも薬師寺涼子一派以外の一般人は、悪役が展開するオカルト現象にほとんど為す術もなく一方的に蹂躙されているだけの状態にあります。錬金術の研究は、その問題を解消する手法のひとつにもなりえるかもしれないのに、その錬金術を「あれはこの世にあってはならないもの」だから何もせずに捨てろというのは、つまるところ「人類は永遠に錬金術およびオカルトの脅威に怯えているべきだ」と断じているも同然ではありませんか。「何が起こるか分からないから存在そのものを闇に葬る」というやり方は、一種の「問題の先延ばし」でしかなく、現実的な対処法とは到底評価できるものではないのです。
アレだけオカルトが暴れまわっている世界であるならば、その対応策を模索するという観点だけから見てさえ、オカルトの研究・理解に努めようという考えが自然発生しそうなものなのですけどね。まあ泉田準一郎は、2巻「東京ナイトメア」P198でも「黒魔術はもともと悪用するものだ」などという偏見丸出しな主張をモノローグ部分で語っていましたし、そもそも泉田準一郎の上司たる薬師寺涼子にしてからが、アレだけオカルトに関わっていながら風水や占いの存在を否定したり、「怪物の存在は絶対に認められない」「警察と科学者がオカルトを認めちゃいけない」などとほざいたりしている始末なのですから、そんな「非科学的な」考え方を持て、という方が無理な注文なのかもしれませんが(苦笑)。
薬師寺シリーズ3巻「巴里・妖都変」は、全体的に薬師寺涼子よりも泉田準一郎の方に多大な問題が存在する巻と言えますね。私自身、それまで「中途半端な横島忠夫」としてしか認識していなかった泉田準一郎に対して不快感と嫌悪感を抱き始めたのはこの巻からでしたし。
さて次の考察では、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件で作者が精神的ハッスル状態で興奮している最中に刊行された、薬師寺シリーズ4巻「クレオパトラの葬送」を取り上げてみたいと思います。