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- board2 - No.466
荒巻某
- 投稿者:G
- 1999年12月31日(金) 09時10分
なかなか面白いサイトでした。
評論モドキに対する怒りってのが発生しちゃったんで、指のなすがままに書いちゃいます。
創竜伝の評論モドキの手法なら「紺碧の艦隊」も同列です。 山本五十六が太平洋戦争直前に転生して、クーデター起こしたり囲碁の話を持ち出しながら、悲惨な大戦を避けてムニャムニャと言うお話です。 しょうもないっちゃしょうもない話ですけど、私は「こんな戦闘機有ったら面白かったな」ってなノリで楽しんではいました。 7巻ぐらいまでは。 以降、「日本の戦争責任を忘れずムニャ」で「恒久平和がホ
ニャララ」と言い訳みたいな呪文が増え、やがては意味不明の「囲碁論議で地政学」とか作品世界で起きた地震を「現実世界とは違い見事な事後策で処理」、「官僚体制の批判」などを経て、それからは説教のオンパレード。 読むに耐えず13巻から読んでません。 転生したのは一部の人間だったはずが、転生後の世界の共通の常識になってたり設定も一貫してないし。 純粋な文学なんて期待せず、単に娯楽の一つで読んでたんですがね。 どうも売れていくに従って作者のコンプレックスを化粧する
ような、そんな印象でした。 「下卑た小説書いているからって馬鹿ではない」ってのを主張したいんですかね? ちなみに私は銀英伝の完結間際に説教臭さを感じたため、その後の作品は読んでません。 書きたいことをついつい書いてしまっただけなんで、趣旨がアレなら削除しちゃって下さいな。 それでは。
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- board2 - No.467
小説が先か、評論が先か
- 投稿者:本ページ管理人
- 1999年12月31日(金) 10時16分
Gさんのカキコミを見て、
「田中芳樹風のメタファーを使えば『下手な小説というぶさいくな娘を、政治評論というドレスで飾り立てて喜んでいる』とでもなろうか。」
という私の緒言の言葉について、某サイトで
「むしろ『下手な政治評論というぶさいくな娘を、小説というドレスで飾り立てて喜んでいる』ではないのか」という指摘があったことをふと思い出しました。
まあ、創竜伝の場合はどっちでも可でしょうけど、実はどちらを選ぶかによって、言葉の入れ替えにとどまらない、評価する立場の再確認になるのかも知れません。
それでは今年も残りわずかになりましたが、みなさま良いお年を。
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- board2 - No.468
一通り読みました(入力不良の可能性陳謝)
- 投稿者:おふおふ
- 2000年01月01日(土) 20時31分
過去ログは未見ですが。例えば、(仮に)小林よしのりの著作を読んで「純粋まっすぐ君」や革新系的サヨク的戦後民主主義的価値判断を無自覚に受け入れている人たち、にたいして非常に敵愾心を燃やすようになった人は、売れっ子作家の田中芳樹の小説に反映される価値判断(「評論」ですか)に反感を持ち、その小説が売れているという事実に政治的驚異を感じるかもしれないな、と考えればこのHPのモチベーションはなんとなく分かります。管理人の方がよしりん信者だ、といいいたいわけではありません。ただ、批判する側が自らの価値判断についてどれくらい自覚的なのか。必ずしも明らかではないように思えます。
「田中芳樹の政治的プロパガンダ」を問題にすることとかれの職業姿勢のそれを、とは別の次元の問題ではないでしょうか。作品論についても同様です。ミソもクソも、という印象を受けます。
「田中の政治認識は浅い」という批判と田中の価値判断への批判、さらにそれが作品に(作者の独白として)混入していることへの批判。これらはそれぞれ独立した問題ではないでしょうか。
感情的な罵詈雑言ではない理論的な批判を志向しておられるのですから。自分も田中芳樹についてはいろいろ(批判を)言いたいこともあるのですが、あくまで小説家として考えているからでしょうか、まるで「アカの手先」やヒトラー呼ばわりまでされているのを見ると非常に気分が重いです。
ついでながら、小林よしのりとの相違について少し議論がありましたが、非常に興味深いテーマだと思います。田中批判をする際もっと検討されてもいいのでは?ただ、私は「ゴー宣」をSPA!以降は読んでないので意見できないのですが・・・・・・
とりあえず感想まで。乱文乱筆失礼いたしました。
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- board2 - No.469
アル戦10巻に触れない事。
- 投稿者:ランチ曹長
- 2000年01月02日(日) 15時53分
アルスラーン戦記10巻出たけど、ここの参加者の人達って、2名ほどを除いては、誰もその内容に触れないじゃないですか。
ここでの議論に期待してたんですよ。「まだまだ書けるじゃないか」「いや、中断したから、つまんなくなったよ」「この部分とこの部分はOOのパクリだ」とか。
現在の田中芳樹を語る際「架空歴史モノの続きも書かずに・・・」ってのは誰でも使う常套句ですが、実際に続きが出た時には誰も触れやしない、ってのはどんなもんでしょうか。
このBBSって結局、アル戦の続きが出ようがタイタニアの続きが出ようが、灼熱の竜騎兵の続きが出ようが、七都市物語の続きが出ようが、銀英伝外伝の5、6巻が出ようが!
・・・結局それらについての話題は出ずに、創竜伝をネタにした田中芳樹批判に終始してるんじゃなかろうか、と思ったのですよ。
創竜伝ネタから派生した批判ならいくらでも出るけど、新刊の話題はさっぱり・・・、ってんじゃ、管理人さんが「創竜伝を撃つ」ではなく「田中芳樹を撃つ」というタイトルにこだわる意味が無いんじゃないか、と。
ROMの分際で、と思われるでしょうが、常連の方々に少し考えてもらえれば幸いです。
あ、私は10巻、面白いと思いましたよ。まだいけるじゃん、と。ただ、ヒルメスの今後の展開ってカラトヴァ風雲録とかぶるんじゃないか、って気はしましたが。
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- board2 - No.470
Re: 小説が先か、評論が先か
- 投稿者:Merkatz
- 2000年01月02日(日) 18時11分
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
> Gさんのカキコミを見て、
> 「田中芳樹風のメタファーを使えば『下手な小説というぶさいくな娘を、政治評論というドレスで飾り立てて喜んでいる』とでもなろうか。」
> という私の緒言の言葉について、某サイトで
> 「むしろ『下手な政治評論というぶさいくな娘を、小説というドレスで飾り立てて喜んでいる』ではないのか」という指摘があったことをふと思い出しました。
> まあ、創竜伝の場合はどっちでも可でしょうけど、実はどちらを選ぶかによって、言葉の入れ替えにとどまらない、評価する立場の再確認になるのかも知れません。
私は『下手な小説というぶさいくな娘を、政治評論というドレスで飾り立てて喜んでいる』だと思います。
確か作者自身、創竜伝は大学ノートの落書きが元だと言ってましたから、もともと小説を書こうという気はあったんだろうと。
そして1巻の展開を考えるに、続けるかどうかは明確に考えてなかったのではないかと。
ラスボスと思われていた船津老人がいきなり居なくなるわけですから、これで終わりといえばそう出来るし、続けようと思えば竜堂兄弟の出生の秘密で話を展開すればよい。
そういう曖昧さが、後付の無理な展開に繋がったのではないかと。
ストーリー矛盾や政治批評は、1巻は明らかに少ないですから。
結局、最後をどうするかを考えないまま、人気に引きずられて続けたことが、創竜伝を迷走させたのではないかと、私は推測しているのですが。
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- board2 - No.471
アル戦10巻に触れていない事について
- 投稿者:本ページ管理人
- 2000年01月03日(月) 16時34分
こんにちは。はじめまして。
さて、アル戦の10巻ですが、正直に言うとまだ読んでいません。
あとがきでの危機感の欠如を見て絶対に買ってはいけない、と思ったのですが、文庫ですから図書館は不確実だし、立ち読みするほど暇はない(1時間くらいで読める量なら頑張りますが、どうなんでしょう?)。古本屋は在庫の有無が賭になってしまう……
しかしながら、こういうサイトを開いている以上は税金だと思って新刊を買うべきなのかも知れませんね。
私のように買ってないが故に(買うことが結果的に田中芳樹を増長させると考えている人は結構多いと思います)議論にならないという面があるのではないかと思います。
とりあえず、近々私自身はかの本を読んでみることにします。その上で、感想や議論に耐えうるかなどの判断を明らかにしたいと思います。
- 親記事No.468スレッドの返信投稿
- board2 - No.472
一応の返答など
- 投稿者:本ページ管理人
- 2000年01月03日(月) 17時01分
こんにちは。はじめまして。
>過去ログは未見ですが。
ということですので、ご感想は私のコンテンツに対してのものだと思います。
>「田中の政治認識は浅い」という批判と田中の価値判断への批判、さらにそれが作品に(作者の独白として)混入していることへの批判。これらはそれぞれ独立した問題ではないでしょうか。
これに関しては、一応分けて提示したつもりです。また、社会評論がダメだから作家としてダメだ、とは書かないようにしてあるつもりです。
余談ながら、私自身としては、「サヨク」を罵倒のレッテル貼り的に使う最近の風潮には少々疑問をもっています(ゴー宣も含む)。左翼的論説の内容を批判するのはいいのですが、単なる罵倒語になっている面が見られますからね。
>まるで「アカの手先」やヒトラー呼ばわりまでされているのを見ると非常に気分が重いです。
ヒトラー呼ばわりに関しては、「ヒトラーの行動を批判しているアンタの行動がヒトラーそっくりじゃないか」という点が、彼の矛盾撞着の非常にわかりやすい点であるということであり、別にヒトラーに引きつけて田中芳樹を批判しよう、というわけではありません。
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- board2 - No.474
新春閑ネタ企画「漢文風ヤン伝」。
- 投稿者:新Q太郎
- 2000年01月06日(木) 19時09分
あけましておめでとうごさいます。
さて、目出度い内から批判というのもなんなので(って、後でするけど)、年末にFDを整理していたら旧パソコンで書いて移植しなかったデータが結構あったんです。
そこに、下のパロディ(パスティッシュ?)があったので、まあ隠し芸大会のノリで投稿します。
*********************
中国の「史記」風に書いた
楊 文里 伝
(これは、作者の田中氏が決めた公式漢字名です)
ヤンは夫れ自由惑星同盟の商家に生す。父、才有り、財を成す。又古物を愛し、万金を以て陶器を購い、これを遺産とす。然れども、これ全て贋物なり。故にヤン、野において学を修めるを得ず。十六にして軍学校に進みて戦史を学ぶを志す。武芸に長ぜず、思索を以て師の言を聴く時を過ごすのみ。アッテンボローは校弟なり。ラップは同期なり。後年、議会にて名を成すジェシカは校長の娘なり。
二十一にて中尉を拝す。その後、エル・ファシル星に赴く。帝国、此の地を侵す時、ここに於いてヤン、兵と民を退かすを図る。されど将、兵と民を捨てて独り走る。民、ヤンを責めるも、彼動ぜずして曰く。「されば、我らも行かん。敵は将を追いて、我らを追わず。装わざれば則ち虚を衝く可し。」帝国、艦数の甚だしきによりて流星と見なし、これを追わず。この功を以て准将となる。
アスターテに於いて、ヤンは帝国上級大将ラインハルトと干戈を交える。後の皇帝なり。ヤンの策容れられず大敗せり。この時、同盟の将傷つき、彼をして兵馬を指揮せしむ。彼、兵に告げて曰く、
「我が命に従うは夫れ生を得る。今我ら不利なるも、要るは只最後の勝利のみ。いずくんぞ負ける事あらんや。」魚鱗の陣にて進む敵に逆らわず、二手に別れて後背に回る。兵を損すること極めて少なし。ラインハルトこれを賞し、ヤンを讃える文を送るも、彼答えず。後年両雄和を結ぶ時、皇帝笑いて返礼無きを咎む。ヤン恐縮せり。
ヤン、少将を拝し、一三艦隊の長として、イゼルローン要塞を陥すを命ぜらる。
然れども、是れ他の隊の半数を数えるのみ。要塞は砲を備え、甚だ固し。一夫関に当たれば万夫も開くなし。
少将、大佐シェーンコップをこの戦に望む。
シェーンコップは薔薇騎士連帯の長なり、白兵に長ず。
されど、この隊の者は夫れ帝国を去りし者にて、敵に通ずる兵嘗て多し。大佐、少将に問う「汝の策、良しと雖も、我矛を逆さにすれば汝如何せん。」少将曰く「只窮すのみ。汝、信ずる能はずといえど、信ぜざれば、此の策を用いるべからず。故に信ず。」大佐更に問いて
「汝、この征にて何を欲するや。」
「我、不惑に十数年も満たずして、閣下と称さるる。豈ロウを得て蜀を望まんや。此の城を得れば、帝国の同盟を侵す道無し。是れを以て賢なる者あらば、和を結ぶこと難からず。夫れ太平は永えならず数十年のみと雖も、数年の戦に若かず。我に一子あり、彼を戦場に送るを忍びず。」
子とは養子なり、名をユリアンという。後の後継者なり。
大佐「汝直なるか、それとも縦横の徒なるか。されば我も又、永遠に非ざる和の為に身を労せん。」と答う。薔薇連隊、帝国の使者に擬し、司令を虜にす。少将の艦はその後に入り、敵を追って外に出し敵艦隊に砲を浴びせ、敵を滅す。ここに於いて同盟は、要塞と回廊を得る。人、この功を聞きて「魔術師」と彼を称す。
同盟はイゼルローンを得ると雖も、兵を休ませる無し。政を司る者、選挙近くして、民心を得る事を欲す。一参謀有り、フォークと言う。兵法を学びて首席なり。此の男、策を私にて献ず。これを可とす。廟堂にて異を唱う者三名のみ。ヤンは中将と成りて、異を唱うも能はず。三千万の将兵、帝国領に進む。守将はラインハルトなり。戦わずして兵を退き、糧と共に去る。ここに於いて、帝国の民、同盟軍に食を頼む。同盟は義戦を称する故に、民を飢えさせる能はず。されど自らをなお満たすべからず、安くんぞ民をみたす可けんや。フォークは是れを見て即ち狂す。帝国、大兵を以て反攻し、アムリッツァにて戦う。同盟敗れ、あまたの将兵を失うも、中将の軍はこの期に及びても乱れること無し、敵を討ちてのち初めて退く。この敗戦によりて、宰相につきし者はトリューニヒトなり。征に異を唱えし三名の一人なり。他はレベロ、ホアンという。されど二人は常に戦を好まず。
宰相は常においては戦を好み、義を説くも、この征のみは異とし、他の失脚の中で残りし者なり。ヤン、この男を好まず。民を兵とし、自らは城に隠すものという。
---------------------
*やれやれ、これでまだ1巻の終わりだけしか来てない。彼の生涯全てを書こうと思ったが、これが限界。
*あくまでも「史記」もどきなので間違いを発見してもあたたかく見守ろうじゃないか、みんな。
しかしこうやって見ると、ホントにどっかの学園の理事長みたいな、中途半端の漢文知識(笑)。
- 親記事No.474スレッドの返信投稿
- board2 - No.475
Re: 新春閑ネタ企画「漢文風ヤン伝」。
- 投稿者:小村損三郎
- 2000年01月07日(金) 17時52分
新Q太郎さんは書きました
> *********************
> 中国の「史記」風に書いた
> 楊 文里 伝
> (これは、作者の田中氏が決めた公式漢字名です)
>
最高でーす!!(笑)。
同パターンで、
『獅子帝本紀』とか、『酉海胆仁世家』とかも是非。
- 親記事No.474スレッドの返信投稿
- board2 - No.476
ロイエンタールのモデルは
- 投稿者:平成の一軍人
- 2000年01月09日(日) 13時38分
きっと、面堂終太郎である。根拠は以下の
通り。
1 女好きで節操がない。
2 その割には、ろくでも無い女が身辺につ
きまとう。(ロイエンタールにはエルフリー
デ、面堂には了子)
3 自己陶酔癖がある。
4 家が金持ち
面堂をヘリコプター「オクトパス」から戦
艦トリスタンに乗せかえれば、きっと誰も分
らないだろう。いよっ、帝国軍の面堂終太郎!
となると、シェーンコップは同盟のトンちゃ
んか?
1 貴族の生まれ
2 身内にトラウマの少女がいる。
3 女に囲まれた日常生活
4 ライバルとは良い勝負(対ポプラン)
-
- board2 - No.477
アル戦10巻の疑問(ネタバレ?)
- 投稿者:NNG
- 2000年01月10日(月) 17時55分
今回レイラという新キャラが出てきました。
今本が手元にないので、正確な表現を出来ませんが、全く別の名前でレイラが表されていました。
レイラはタハミーネの実の子かもしれないと、匂わせてあるのですが、もしかして気付かずに
本名を出してしまったのでしょうか?
- 親記事No.474スレッドの返信投稿
- board2 - No.478
わはは
- 投稿者:石井由助
- 2000年01月11日(火) 05時28分
> きっと、面堂終太郎である。根拠は以下の
> 通り。
> 1 女好きで節操がない。
> 2 その割には、ろくでも無い女が身辺につ
> きまとう。(ロイエンタールにはエルフリー
> デ、面堂には了子)
> 3 自己陶酔癖がある。
> 4 家が金持ち
> 面堂をヘリコプター「オクトパス」から戦
> 艦トリスタンに乗せかえれば、きっと誰も分
> らないだろう。いよっ、帝国軍の面堂終太郎!
確かに言われればその通りなんですけど、しかし、なんかヤな想像だな~、コレ(^^;)
実際にはみのもんたと久米宏が同質と指摘しているようなものかも知れないですけどねぇ。
そういえば、余談ながら私的にロイエンタールってなんかホモのイメージがあります(オイオイ)。変な同人誌の影響でしょうね。
このあたりでは、同人誌に激怒する田中氏に共感ですな。
- 親記事No.474スレッドの返信投稿
- board2 - No.479
Re: ロイエンタールのモデルは
- 投稿者:粕谷真人
- 2000年01月11日(火) 14時42分
思いだしモードですいみません。
昔、ファンロード(何号の何ページかは忘れました)という雑誌で、田中芳樹氏が
うる星やつらのファンで、なりたい登場人物が諸星あたると書いてあった。
- 親記事No.469スレッドの返信投稿
- board2 - No.480
Re: アル戦10巻の疑問(ネタバレ?)
- 投稿者:小村損三郎
- 2000年01月13日(木) 08時33分
ネタバレです。
NNGさんは書きました
> 今回レイラという新キャラが出てきました。
> 今本が手元にないので、正確な表現を出来ませんが、全く別の名前でレイラが表されていました。
> レイラはタハミーネの実の子かもしれないと、匂わせてあるのですが、もしかして気付かずに
> 本名を出してしまったのでしょうか?
「エレナヴァーク」とかいう名前が所々に…(^^;;)。
恐らく、始めはこの名前で書いていたのを、後になって「レイラ」に書き直したのではないでしょうか。ところが、一部直し忘れていて、そのまんま印刷されてしまったと…。
最近、急いで出版されたものとかに、たまにこういうのがあるんですよね。
佐藤大輔のとかも。
『死戦の太平洋』なんて、小見出しがダブってる所があったし、藤堂明と守と進がしょっちゅうごっちゃになっていたり…。
で、名前変えた理由として考えられるのは、
①ひびきが庶民っぽくないので変えた。
② ストーリー上意味がある(本名とか)
③ 実は男の名前だった(笑)。
③ のようなことはたまにあります。『宇宙戦艦ヤマト』にサーシャという名の女性が登場しますが、これ実は男性の愛称だそうで。
松本零士がロシアを旅行した時、海兵隊出身のゴツイ野郎から
「サーシャと呼んでくれ」
と言われてブッとんだそうです。
- 親記事No.469スレッドの返信投稿
- board2 - No.481
編集者はチェックしなかったのだろうか?
- 投稿者:NNG
- 2000年01月13日(木) 14時56分
どうもありがとうございました。
①&③か②かは続きを読めば分かりますね。
何時になるかは分かりませんが。
③を見て、Zガンダムのカミーユを思い出しました。「なんだ女か?エレナヴァークというから男だと思った」なんてことをザラーヴァントの異母兄弟(名前忘れた)が言って、レイラともめているシーンが浮かびました。
ところで最初のネタバレの文章は許される範囲だったのでしょうか?
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- board2 - No.482
銀英伝考察 ~ヤン・ウェンリーの思想的矛盾~
- 投稿者:冒険風ライダー
- 2000年01月14日(金) 14時57分
今回は創竜伝から少し離れて、銀英伝を論じてみたいと思います。
あまりにも創竜伝批判のネタが多すぎ(笑)、なかなか銀英伝にまで手が回らなかったのですが、思想的に銀英伝にはかなり大きな疑問点があります。特にヤン・ウェンリーのしそうに関してなのですが、どう考えても説明できない思想を開陳したり、自らの思想信条と相反するような行動を取ったりしているために、どうしてもヤンの思想に対する疑問を消す事ができず、思想的にはあまり感情移入できるキャラではありません。性格的にはかなり好きなキャラなのですが。
銀英伝全体を通じて見ると、ヤンは基本的に民主主義者以前に理想主義者ですね。政治におけるマキャベリズム的発想をかなり嫌っているふしがあります。このことが、ヤンが政治を語る際に思想的矛盾となって現れてきています。
その思想的矛盾とは次の3つに大別されます。
1. 国家的謀略に対する認識
2. 信念否定論
3. シビリアン・コントロールの矛盾
他にも「ヤンの国家に対する認識」というものがありますが、これは以前にも語られた事なので省略しましょう。
私がヤンの3つの矛盾に注目したのは、これが全く最悪の形で創竜伝に受け継がれており、しかも創竜伝のストーリー破綻にも少なからず影響していると考えるからです。まあヤンと竜堂兄弟に思想的共通項があるのは当然といえば当然なのですが。
ではその思想的矛盾とは何か、それを検証していく事にしましょう。
1. 国家的謀略に対する認識
ヤンの思想のひとつに「戦争否定論」があります。「戦争は多くの流血を伴う空しいものであり、だから否定されるべきだ」というシロモノで、一部例外はあるものの、ヤンの基本思想として貫かれています。まあこれ自体は特に間違った思想というわけでもなく、むしろ普遍的な思想といえるものでしょう。
しかしヤンの考え方で全く理解できないのは、「より多くの流血を避ける事ができる謀略」という考え方を、「多くの流血を伴う戦争」以上に否定した事です。それが最もよく表れているのが、下の文章です。
銀英伝4巻 P180下段
<ヤンは明らかに謀略家としての才能を有していたが、才能だけが資質のすべてではなかった。性格や志向もさることながら、彼は謀略が成功すること自体に、意義を見出していなかったのである。彼にとって最高の価値観が、戦争と謀略による国家的利益の追求になかったことも明白であり、職業軍人、しかも若くして高い地位を得た軍人としては尋常ではなかった。>
しかし、ただ「謀略否定論」だけが問題であるのならば、ヤンに限らずラインハルトも似たような思想信条を持っていますし、オーベルシュタインを除く帝国軍の将軍達のほとんど全てが、政治的謀略に対しては否定的な態度を取っています。したがって表面的には、ヤンの謀略に対する否定的態度はそれほど奇異なものには見えないかもしれません。
しかしラインハルトや帝国の将軍達の場合、その謀略否定の態度の理由として、「謀略家であるオーベルシュタインに対する反感」「ラインハルトの潔癖な性格」「常勝不敗の帝国軍としての矜持」などと明確に説明できるのに対し、ヤンの謀略否定の態度は理解不能であると言わざるをえません。ヤンは「多くの流血を伴う戦争」を否定していたはずなのですから、それを回避する手段としての謀略に価値を見出す事はそれほど異常な事ではありません。それに感情の問題にしても、そもそも同盟は戦争をやっているのであり、毎年戦場で多くの人間が死んでいくのですから、それを防ぐために謀略をめぐらすという事は、むしろヤンの思想から言っても人道にかなう事であるはずです。さらにヤンは自分を「常勝不敗の名将」などと規定してもいなかったのですから、そもそもヤンには理論的に謀略を否定しなければならない理由がないのです。
むしろ戦争を否定するのならば、その分謀略を肯定し、積極的に謀略を張り巡らすぐらいでなければならないはずです。それこそが、ヤンの嫌う「戦争による流血」を防ぐ最善の手段だったでしょうに。それともヤンは、戦争における死を直視する事はできても、謀略による死というものは直視できないというのでしょうか? どちらも同じ「人の死」ですし、数の上で言えば圧倒的に謀略の方が、すくなくとも味方の犠牲を少なくすることができるはずですがね。
そもそも謀略の目的とは何か? それは最小限の犠牲で政治的課題を克服することです。ヤンは常に戦争を嫌い、そして戦争を遂行する立場にある自分自身を嫌悪していました。そうであるならばなおのこと、ヤンにとって、謀略というものは肯定して然るべきものだったのではないでしょうか? 謀略を使えば、南宋における秦檜のように、たった一人の人間を無実の罪に陥れるだけで、平和と経済的繁栄を享受する事だってできるのです。歴史をよく知っているであろうヤンの事ですから、この秦檜の事例を知らないはずもなく、ヤンには謀略家としての才覚も充分にあったのですから、「流血を回避するため」という一事のために、謀略家の道を歩む事だってできたはずではありませんか。別に「国家のためである」と考える必要はないのです。
銀英伝でも、ヤンの死後になりますが、「オーベルシュタインの草刈り」が行われる過程で、オーベルシュタインが次のように主張しています。
銀英伝10巻 P78下段
<「軍事的浪漫主義者の血なまぐさい夢想は、このさい無益だ。一〇〇万の将兵の生命をあらたに害なうより、一万たらずの政治犯を無血開城の具にするほうが、いくらかでもましな選択と信じる次第である」>
また、ミュラーの反論に対してこうも言っています。
銀英伝10巻 P79下段~P80上段
<「軍務尚書はご自信をお持ちのようだが、人質を盾に開城をせまるような手段を、誇り高い皇帝がご承知になるでしょうか。吾らに艦隊をひきいさせ、この地まで派遣なさったからには、皇帝の御意は堂々たる正面決戦にあること、明らかではありませんか。軍務尚書は、あえてそれを無視なさると?」
「その皇帝の誇りが、イゼルローン回廊に数百万将兵の白骨を朽ちさせる結果を生んだ」
「……!」
「一昨年、ヤン・ウェンリーがハイネセンを脱してイゼルローンに拠ったとき、この策を用いれば、数百万の人命が害なわれずにすんだのだ。帝国は皇帝の私物ではなく、帝国軍は皇帝の私兵ではない。皇帝が個人的な誇りのために、将兵を無為に死なせてよいという法がどこにある。それでは、ゴールデンバウム王朝の時代と、何ら異ならぬではないか」>
ここにおけるオーベルシュタインの主張ほど、謀略の存在意義を見事に表現した部分はないでしょう。そして、オーベルシュタインのラインハルト批判は、ほぼそのまま、戦争以上に謀略を否定したヤンにも当てはまります。もちろん、オーベルシュタインの謀略重視の姿勢は、市井の倫理観から言えば全く誉められたものではないでしょうが、政治・軍事に携わるものとしては当然すぎる態度です。むしろ感情だの倫理観だので政治を行えばロクでもない結果を導くことは歴史が証明していますし、銀英伝でもアムリッツァとラインハルトのイゼルローン遠征という2つの事例があるではありませんか。歴史に詳しいヤンが、この事を知らないはずがありません。
もちろん、謀略によって犠牲になる人が全くのゼロというわけにはいかないでしょうし、謀略が失敗して却ってひどい目に遭うという例もないわけではありませんが、それは戦争の駆け引きにしても同じ事ですし、すくなくとも戦争よりもはるかに少ない犠牲者で事が収まることは確実でしょう。ヤンには謀略の才覚と、先見の明があったのですから、ヤンが本気になって謀略の分野に辣腕をふるえば、戦争による犠牲者を大幅に減らし、ひいては民主主義を守る戦いもはるかに容易になっただろうに、なぜ「流血を回避できる謀略の利点」を顧みる事がなかったのか。
ヤンの戦争否定の思想から言っても、私にはそれが不思議でならないのです。
2. 信念否定論
私が田中芳樹作品を読んでいく過程で一番最初に疑問を抱いたもの。それがヤン・ウェンリーの「信念否定論」です。
ヤンの信念についての考え方は、下の文章に代表されるようなものです。
銀英伝2巻 P178上段~P179上段
<「人間は誰でも身の安全をはかるものだ。この私だって、もっと責任の軽い立場にいれば、形勢の有利なほうに味方しよう、と思ったかもしれない。まして他人なら、なおさらのことさ」
歴史を見ても、動乱時代の人間というものはそういうものだ。それでなくては生きていけないし、状況判断と柔軟性という表現をすれば、非難することもない。むしろ、不動の信念などというしろもののほうが、往々にして他人や社会に害を与えることが多いのである。
民主共和制を廃して銀河帝国皇帝となり、専制政治に反対する人民四〇億人を殺したルドルフ・フォン・ゴールデンバウムなど、信念の強さでは誰もおよばない。現にいま、ハイネセンを占拠しているクーデター派の連中も、信念によって行動しているはずだ。
人間の歴史に、「絶対善と絶対悪の戦い」などなかった。あるのは、主観的な善と主観的な善との争いであり、正義の信念と正義の信念との相克である。一方的な侵略戦争の場合ですら、侵略する側は自分こそ正義だと信じているものだ。戦争が絶えないのはそれゆえである。人間が神と正義を信じているかぎり、争いはなくなるはずがない。
信念といえば、ヤンは、「必勝の信念」などという台詞をきくと、鳥肌がたつのである。
「信念で勝てるのなら、これほど楽なことはない。誰だって勝ちたいんだから」
ヤンはそう思っている。彼に言わせれば、信念とは願望の強力なものにすぎず、なんら客観的な根拠を持つものではない。それが強まれば強まるほど、視野はせまくなり、正確な判断や洞察が不可能になる。だいたい信念などというのは恥ずかしい言葉で、辞書にのってさえいればよく、口にだして言うものではない。>
この「信念否定論」ほど、ヤンの思想的矛盾が最もよく表れているところはないと言っても良いでしょう。銀英伝全編におけるヤンの行動が、「信念否定論」と全く合致しないのですから。
まず、上記のように信念を完全否定しているはずのヤン自身が「民主主義は理想的な政治形態」であるという「信念」を持ち、それに基づいて帝国と戦争を行っているというのがあります。ヤンのこの「信念」に基づいて、一体どれほど多くの人が敵味方を問わず殺された事でしょう。ヤンの主張に従えば、ヤンの行動は「民主主義形態を守る」という「強力な願望による根拠のない信念」に盲従したものでしかなく、無益かつ無駄な戦いでしかないのだから、「信念」など投げ捨ててさっさと帝国に降伏した方が良かったという事になるではありませんか。
また、ヤンはラインハルトを非常に高く評価していましたが、そもそもラインハルトの行動は「ゴールデンバウム王朝を滅ぼし、公正な政治を実現させる」とか「全銀河を統一する」といった「信念」に基づいたものなのではないでしょうか? そしてこのラインハルトの「信念」のためにどれほど多くの人が殺されたか分からないし、銀英伝8巻のイゼルローンの遠征などでは「全銀河を統一する」などという「余計な信念」のもとに、無益な戦いで無為無用に大量の戦死者を出すに至りましたが、ヤンがこれを批判した形跡がどこにもありません。自分の否定的思想が目の前で実行されたにもかかわらずです。
さらに、ヤンがあそこまで「信念」を否定するということは、逆にいえば「信念のない人間は理想的である」という事になりますが、それではその「信念のない人間」というものをヤンがどのように評価したのか?
銀英伝における「信念の全くない人間の代表格」と言えば、私は真っ先にヨブ・トリューニヒトを挙げます。この御仁はその場その場の状況でコロコロと主張を変えます。ある時は好戦主義者的な主張をし、またある時は反戦主義者に転向する。民主主義を崇拝していたかと思えば、同盟降伏後はさっさと帝国に仕官し、そこで権力を握ろうとする。さらにバーミリオン会戦時には、「余計な信念」を全く発揮することなくさっさと降伏を申し出て、惑星ハイネセンの10億の民衆を帝国軍の手から救いました。まさにヤンが理想とするであろう「信念の全くない人間」であると言えます。
その「ヤンの信念否定の思想からすれば理想的な人間」であるはずのトリューニヒトを、ヤンは徹底的に嫌いぬきました。しかもその理由はというと「あいつはいつも主張をコロコロ変えるから」とか「徹底的なエゴイストだから」と言った、まさに「信念欠如の行動原理」が原因だというのですから、ヤンの人物評価は、自らの主張であるはずの「信念否定論」を全く厳守していないと言わざるをえません。
ルドルフを批判するための手段として「信念否定論」を展開しておきながら、それを自分自身に対して適用できないというのでは、ダブルスタンダードのそしりは免れないでしょう。いくらルドルフを否定したいからといって、これではルドルフが気の毒なのではないでしょうかね。
ヤンの「信念否定論」というのは、実はここまでヤンの行動や人物評価と乖離しているのですが、ではなぜ、このような矛盾が発生するのか? おそらく理由は2つでしょう。
ひとつは、ルドルフの行動が信念に基づくものであるという「固定観念」があったがために、信念の内容に全く言及することなく「信念を持つ事それ自体が悪」と規定してしまった事。
確かにルドルフの弱者撲滅政策や自己神格化などは「自分の考えは絶対に正しい」という信念に基づいて行われた事でしょう。しかしルドルフの考えの致命的な間違いは、「強固な信念」を持っていた事それ自体にあるのではなく、自らの「信念」が絶対的に正しいと思いこみ、他者を顧みる事も、自らの思想の検証も全くやらなかった事にあるのですし、民衆の圧倒的な支持によって独裁者となることで強大な権力を握り、反対者を徹底的に弾圧する事ができる立場にあったことで、議会やマスメディアのチェック機能が全く働かず、それによっていっそうルドルフの暴走を加速させたというのが、ルドルフがあそこまで「悪」となった真相なのではないでしょうか。
そもそもヤンの「信念」に対する定義「願望の強力なものにすぎす、なんら客観的な根拠を持つものではない」というのは、それこそ「信念の一断面」のみを見ただけのものでしかないし、「何ら客観的な根拠をもつものではない」のです。「信念」というのは確かに「強力な願望」という一面もありますが、それと同時に「行動指針」「行動方針の最終目標」という一面もあるのです。これは特に政治を行うときには重要なものです。これがないと、そもそも何をすれば良いのかさえ分からないのですから。
ラインハルトの「信念」などはその好例でしょう。彼の「ゴールデンバウム王朝の打倒と全銀河の統一」という「信念」がなかったら、銀河帝国は衰退の一途をたどったあげく、多くの小国家に分裂していた事でしょう。帝国と同盟の100年以上にわたる戦争を終結させ、ローエングラム王朝が成立したのは、ラインハルトの「信念」が常にその方向を指し示し続け、ラインハルトがひたすらそこを目指す事によって見事に成就したからではありませんか。
ラインハルトの例とトリューニヒトの例を比較してみれば、人間が政治を行う場合、多かれ少なかれ「信念」を持って政治をしなければならないという結論に達するでしょう。何らかの理念を持ち、国民を説得しなければ政治はできませんし、「惰性」や「その場の雰囲気」や「人気取り」などで政治をやられては国民はたまったものではありません。したがって、政治を行う際に「信念」を持つ事それ自体は決して悪い事ではないし、むしろ推奨すべき事なのです。
もうひとつは、「では信念がない人間というものがいかに醜悪であるか」という点に対する考察が全く欠けていた事。
これはトリューニヒトのあの「厚顔無恥な転向ぶり」を見ていればすぐに分かると思うのですけどね。トリューニヒトだけでなく、トリューニヒトの取り巻きの政治家を見ても、汚職と保身にふける彼らに「確乎たる信念」というものがかけらでも見出せたでしょうか? 彼らはむしろ、ヤンの主張とは逆に「信念」というものがなかったがために、政治の方向性を見出す事ができず、腐敗していたのではないでしょうか。ただひとり、銀英伝5巻におけるアイランズ国防委員長のみは「民主国家を守る」という使命に突如目覚め、末期の同盟を引っ張る姿勢を見せましたが、これこそ「信念に基づいた行動」以外の何物でもありません。
また、帝国と同盟は100年以上にもわたって惰性的な戦争を行っていましたが、この期間の間に「戦争を止めなければ」という「確乎たる信念」を戦争指導者達が持っていれば、双方が停戦するという形で戦争を止める事ができたかもしれません。これなどはヤンの考え方とは全く逆の現象ですね。現実には、原理主義者や主戦論者が幅をきかせていたためにダメだったようですが。
さらに、これは現実世界の話になりますが、現在、リベラル・平和主義の代表格と言われる朝日新聞は、戦前はそれこそ「右翼の軍国主義」的な言動ばかり繰り返して日本を戦争に導いたあげく、敗戦を迎えるや、自らの言動の総括や反省を何ら行わず(←これが重要)に現在の路線に「転向」するという、まるでトリューニヒトのような行動をやってのけたのですが、これが果たして誉められた行為なのでしょうか? まあ処世術に長けていると言われれば全くその通りなのですが(笑)。
このように「信念が全くない」というのも「信念が強すぎる」と同程度、あるいはそれ以上に問題があると言わざるをえません。そもそもヤンにはトリューニヒトという「信念の全くない人間」とも言うべき人物が目の前にいたのですから、すこしは自分の「信念否定論」がいかにおかしいのか、気づく余地は充分にあったと思うのですがね。
ただ、私はヤンの「信念否定論」にも一定の理はあったと思うのです。「強すぎる信念、自らの考えを絶対のものであると盲信する信念」というものは確かに害を及ぼします。しかし一方では「信念」という概念も必要不可欠である。
だから私は、「信念」を頭ごなしに否定するのではなく、「信念」が「絶対的な信仰」に陥る事がないように常にチェックするという事こそが、重要であると思うのですが。
3. シビリアン・コントロールの矛盾
銀英伝5巻、バーミリオン会戦において、ヤンはラインハルトを射程に収めながら、トリューニヒトの停戦命令を受けいれました。これが「ヤンはシビリアン・コントロールに忠実であったからこそ停戦したのだ」と評価されています。しかしヤンの行動は、本当にシビリアン・コントロールの原則にかなったものだったのでしょうか?
これが問題になるのは、停戦を受けいれた後のヤンの行動です。
まず彼は、いずれ帝国に引き渡さなくてはならないからという理由でメルカッツ提督を逃しました。そしてそれにともない、何隻かの戦艦およびそれに伴う燃料・食糧・人員を持たせ、そのことを戦場で失われたということにして偽装報告を行いました。
ヤンのこれらの行動は、政治的には正しいものであったかもしれません。しかしシビリアン・コントロールの観点から見れば、実にとんでもない話であるといわなければなりません。
そもそもヤンは、政府の命令ないしは許可を得ていないにもかかわらず上記のような行動を行っているのです。それどころか、この場合の同盟政府(正確には同盟元首トリューニヒト)の命令は「無条件停戦命令」です。つまりこの命令を受けたヤンは、ラインハルトに対する攻撃を停止しなければならないだけでなく、全ての軍事行動を止めなければならないのです。
その状況下でメルカッツ提督を、ある程度の戦力を伴わせて逃がすという事は何を意味するのか? それは一定の軍事力を隠蔽するという事であり、その部隊に戦闘を継続させるということです。しかもヤンはそんな命令を同盟から受けたわけではないのですから、これは明らかに「無条件停戦命令違反」でしょう。しかも戦艦や人員などを「政府の命令なしに無断で」隠蔽し、それを「戦場で失われた」などと報告する事は、同盟の国防軍基本法における職権濫用にあたり、また背任横領罪と公文書偽装の罪にもあたります(銀英伝6巻 P132)。
シビリアン・コントロールの原則を守るということは、政治家の命令を忠実に守るというだけでなく、法を忠実に守るという事もその中に含まれるのです。停戦受けいれ後のヤンの行動は、このシビリアン・コントロールの原則から大きく逸脱していると言わざるをえません。帝国に降伏してまでシビリアン・コントロールを厳守したかったのならば、同盟軍を全面武装解除した上で、メルカッツ提督を帝国に引き渡して「自分は同盟元首の命令に忠実である」ということを示すべきだったのです。そこまでの覚悟がないのならば、さっさとラインハルトを砲撃で吹き飛ばしてしまうべきでした。これでは一体何のためにヤンは帝国に降伏したというのでしょうか。
さらに奇怪なのは、これほどまでにヤンの思想を覆しかねないであろう重大な事実に、ヤンを含めた銀英伝のキャラクターの誰ひとりとして気がつかなかったという点です。上記のような「違反行為」を列挙していけば、銀英伝6巻にてレンネンカンプないしレベロは、ヤンを合法的に逮捕する事ができたのです。しかもその「罪状」には「シビリアン・コントロールの逸脱」というオマケまでつきます。ヤンの民主主義思想に対する大ダメージとなったことは疑いの余地がないでしょう。同盟市民にも、ヤンの民主主義思想が全くの偽りであるという印象が与えられたかもしれません。何も「反和平活動防止法」などという「事後法」を使わずとも、この方がはるかに効果的ではありませんか。完全に事実なのですし、法的にも万全なのですからヤンもさぞかし困る事でしょう。まあ証拠集めに少々てこずるかもしれませんが、公文書偽装の線から攻めていけば、これも楽勝でしょう。全く証拠が挙げられない、という訳ではないのですから。
民主主義とシビリアン・コントロールの概念は銀英伝の重要なテーマのひとつだったはずですし、それからいくと「法の問題」というのは避けて通れない場所であるはずです。それなのに、なぜこれほどまでに肝心なところが抜けてしまっているのでしょうか?
ヤンの思想と行動原理がこれほどまでに乖離しているのは、結局のところ、ヤンに「自らの思想に殉じる覚悟」が欠如していたからなのではないでしょうか。民主主義の理想を唱えつつ、「敵味方を徹底的に利用し、目的を果たす」というところまで冷酷になる事ができない。それこそがヤンの思想的矛盾の根本にあるのではないかと思います。
このヤンの思想的矛盾の最も最悪な部分を最悪な形で受け継いだのが、創竜伝の竜堂兄弟でしょう。連中の「感情に基づく行動原理」の起源が、ヤンの理想主義的な甘さにあるのではないかと考えるのは私だけでしょうか?
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- board2 - No.483
あとがき 再開篇(の醜悪なるパロディ)
- 投稿者:冒険風ライダー
- 2000年01月14日(金) 15時05分
さまざまな事情があって、半月ほど「眠り姫」状態がつづいていた私の田中芳樹作品に対する批評ですが、このたびようやく(2000年1月のうちに)起床の運びとなりました。長いこと忍耐の美徳をしめしつづけてくださったROMの皆様に、心からおわびとお礼を申しあげます。
私としても宿題をかたづけてひと安心―――とはなかなかいきません。なるべく早くつぎの宿題を、と思っておりますが、生産力の低さと不定期な連載で定評のある私のこと(そんなことで定評を得てどうする)、今後ともなにとぞ気長におつきあいくださいますよう。
さて、今回、内容的には予定どおりの銀英伝の批評ではありますが、田中芳樹作品の批評がはじまって以来もっとも作品に敬意をはらった批評となりました。「(笑)」が2個ていどですんで、まことにめでたい気もいたしますが、これをもって「平和篇」と呼ぶのは、あつかましいかぎりですね。
批評開始以来、一方的になぎ倒される運命にある竜堂兄弟をはじめとする創竜伝のキャラクターと社会評論も、今回は小休止。他の作品といっしょに本棚でお留守番とあいなりました。次の「私の創竜伝考察シリーズ」での反動がこわい。完膚なきまでに叩き潰されるであろう犠牲者たちに、あらかじめお悔やみ申しあげておくことにいたします。
今回ひさしぶりに創竜伝という腐臭を放つ下水道からぬけだして、銀英伝の大地を吹きぬける風に身と心をさらし、なつかしく、蘇生するような感覚をおぼえました。この感覚をROMの皆様にも共有していただけたなら、投稿者としては無上の喜びです。
PS
う~ん、わざと醜悪に書いたとはいえ、我ながらひどい文章だ(笑)。
それにしても、アルスラーン戦記10巻のあとがきを見る限り、田中芳樹に全く反省の色が見えませんね。読者の田中芳樹に対する信頼が年を経るごとにどんどん下がっているという事実が、あの御仁には分からないのでしょうか?