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- board2 - No.498
銀英伝における謀略否定論。
- 投稿者:ふみさとけいた
- 2000年01月17日(月) 15時14分
はじめまして。いつも楽しく見させてもらってますが、なんとか僕でもカキコが出来そうな話題なので書き越した次第です。
「『オーベルシュタインの論理』にヤンやラインハルトは反論できないし、田中氏自身も逃げた」
と言う話ですが、ユリアンが一応それに対する回答らしきことを言ってます。(以下抜粋)
納得できないということ。まさしく、それが問題なのだ。仮にオーベルシュタイン元帥の策謀が成功し、共和主義が独立した勢力として存続し得なくなったとき、何が宇宙に残されるのか。平和と統一? 表面的にはまさしくそうだが、その底流には憎悪と怨恨が残る。それは火山脈のように、岩盤の圧力下に呻吟しながら、いつかは爆発して、地上を溶岩で焼き尽くすだろう。岩盤の圧力が大きいほど、噴火の惨禍もまた大きいはずである。・・・・・・・・
(銀英伝10巻より)
これは、少なくとも田中氏の考えではあるだろうと思います。
また、ヤンに関してもこう言った考え自体はあったのでないかと考えてます。論理だてて述べる、というところまでにはいかないにしても。
皆様はどうお考えでしょうか?
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- board2 - No.499
Re: 面白いですね
- 投稿者:不沈戦艦
- 2000年01月17日(月) 16時21分
ふみさとけいたさんは書きました
> はじめまして。いつも楽しく見させてもらってますが、なんとか僕でもカキコが出来そうな話題なので書き越した次第です。
> 「『オーベルシュタインの論理』にヤンやラインハルトは反論できないし、田中氏自身も逃げた」
> と言う話ですが、ユリアンが一応それに対する回答らしきことを言ってます。(以下抜粋)
>
> 納得できないということ。まさしく、それが問題なのだ。仮にオーベルシュタイン元帥の策謀が成功し、共和主義が独立した勢力として存続し得なくなったとき、何が宇宙に残されるのか。平和と統一? 表面的にはまさしくそうだが、その底流には憎悪と怨恨が残る。それは火山脈のように、岩盤の圧力下に呻吟しながら、いつかは爆発して、地上を溶岩で焼き尽くすだろう。岩盤の圧力が大きいほど、噴火の惨禍もまた大きいはずである。・・・・・・・・
> (銀英伝10巻より)
>
> これは、少なくとも田中氏の考えではあるだろうと思います。
> また、ヤンに関してもこう言った考え自体はあったのでないかと考えてます。論理だてて述べる、というところまでにはいかないにしても。
> 皆様はどうお考えでしょうか?
>
「流血によって納得が得られる」これ、まさに戦争の意義にもなっています。何もすることなく他勢力に屈服するのは感情的に納得し難いが、全力で戦い多量の血を流し敗退した後なら、屈服もやむを得ず、ってところでしょうか。
でも、ラインハルトが仕掛けた「回廊の戦い」はそうでしょうかね?単なる軍事的ロマン主義のような気が。「強い相手(ヤン)と戦って、戦術的に勝ちたい」っていうだけの。戦略的にはとっくに勝っているのに。国家の指導者にそういうレベルで戦いを起こされては、迷惑な気はしますよ。
それに、イゼルローンを制圧する必要が本当にあるのかどうか。回廊の両側に2個艦隊ずつ貼り付けて封鎖しておけば、ヤンはイゼルローンに逼塞しているだけで何も出来んでしょう。その間に、新帝国はフェザーンに遷都して発展する訳ですし。彼我の勢力差は増大するばかりで、なおかつ回廊が封鎖されているので、新帝国内の地下民主勢力との連絡も不可能。時間が経てば経つほど新帝国に有利になり、そのうち「イゼルローン共和国」は自己崩壊するような気がしますけど。せっかくヤンの軍事カリスマに依存しているのに、肝心の戦闘が発生しないのでは、志気の維持が困難でしょう。イゼルローン側から仕掛けた場合は、帝国軍の方が戦力が多い上に回廊の出口での戦いになるから、単なる消耗戦になってイゼルローン側圧倒的不利と見ますけど。
それと、私はラインハルトの「軍事ロマン主義」は支離滅裂だと思いますわ。5巻の18ページでは、「敵の姿を見てその場で戦わないのは卑怯だ、などと考える近視眼の低脳が、どこにもいるからな」などと「同盟軍の架空の敵将」を嘲笑しているクセに、バーミリオンではラインハルト自身がその「近視眼の低脳」になっていますから。はっきり言ってバーミリオン会戦は、ラインハルト側が勝つ為には必要ない戦いですからね。やるにしても、張り切って攻勢かける必要はないんですし。持久戦に持ち込めば勝ちだし、戦術的に負けても、ヤン艦隊を消耗させてラインハルトが逃げ出して生存していれば勝ちです。いっその事、ブリュンヒルトを囮にするような戦法考えてもいいくらいだと思いますし。
-
- board2 - No.500
「運命」について報告。
- 投稿者:新Q太郎
- 2000年01月17日(月) 16時38分
前に報告しようと思って忘れていたので、今ここで。
田中氏が卒論(博士論文?)に取り上げ、また近年、少年向けに改作した幸田露伴作「運命」ですが、今年1月に発売された(2月号?)雑誌・文学界に「幸田露伴と支那」という評論・歴史エッセイが掲載されてます。
作者は、高島俊男。
「本が好き、悪口言うのはもっと好き」(文春文庫)で日本エッセイストクラブ賞を受賞し、現在言語にこだわった学問随筆「お言葉ですが…」を週刊文春に好評連載している中国文学者です。
で、この評論文のコンセプトが「『運命』で幸田露伴が、シナのどの史書のどの部分を引用したか。またどこを創作したか。そしてそれは史実とどのように異同があるのか」を論じるという、田中氏の論文とほぼ同じもの(笑)。
といっても田中氏のほうは我々見ていない(誰か学習院の人いないか!取ってきて、ネットでサワリでも公表しろ!!)ので残念ながら二つを比較はできないのだが、高島氏の文章だけでも十分興味深い。
――日本では英雄不死伝説は多いが、中国では少なくこれくらいのものだ。
――もともと、中国でも一部の歴史家は事実と主張してきた。実は露伴も、話の面白さでフィクションとして創ったのではなく史書の選定ミス?で事実だと信じていたのではないか。
――「坊主になって脱出」というのは、初代皇帝が元僧侶だったことを踏まえている。
――「恵帝」という称号は中国史上、大体気が弱くてパっとした業績を残せなかった、線の細い皇帝に贈られる事が多い。
などなど、縦横に論じていて飽きさせない(自称「中国無差別軽量級」の人だから。ちなみに重量級は宮崎市定だそう(笑)、)し、旧字であることが苦にならないほど文章のリズムが小気味良い。
―――――――――――――――――
これを読むと、やっぱり田中氏の「運命」論と比べたくなる。私が編集者だったら対談をセットしたいね。意気投合するか、灰皿ぶつけ合う激論になるか(笑)。
実はこの人、まあ乱雑に二分法にすれば保守派で「中国の大盗賊」では毛沢東の行動原理が基本的に中国伝統の盗賊団と同じだったことを李自成、陳勝などと比較して論じているし、表題に有る通り「支那」が差別語でないことを最も積極的、論理的に弁ずる人の一人でもある。
そういうわけで、閑があったら書店の隅にあるかもしれない「文学界」の一読を。
---------------
オーベルシュタイン謀略論はしばらくお待ちを。
ほんとならもう、とっくに寝てなきゃいけないので…
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- board2 - No.501
Re498:ユリアンの謀略否定論とは
- 投稿者:冒険風ライダー
- 2000年01月17日(月) 18時51分
ふみさとけいたさん、始めまして。
いや~、やはりユリアンのあの文章に目をつける人が表れましたか。実は私、これが出てくるのを手くずね引いて待っていたのですよ(^^)。あの文章を知った上て、私はあえてヤンの謀略否定論を批判してみせたのです。言うまでもなく、ユリアンの主張は私にとっては単なる感情論でしかありません。
あのユリアンの主張の全文を引用した上で反論してみましょう。
銀英伝10巻 P100上段~P101上段
<人間の生涯と、その無数の集積によって練りあげられた人類の歴史とが、二律背反の螺旋を、永劫の過去と未来に伸ばしている。平和を歴史上でどのように評価し、位置づけるか、その解答を求めて伸びる、永遠の螺旋。
オーベルシュタイン元帥のような手段を用いなくては、平和と統一と秩序は確立しえないのであろうか。そう結論づけるのは、ユリアンにとっては耐えがたかった。もしそうであるとすれば、皇帝ラインハルトとヤン・ウェンリーとは、なぜ流血をくり返さなくてはならなかったのだろう。ことに、ヤン・ウェンリーは、戦争を嫌い、流血が歴史を建設的な方向へむけることがありうるか、深刻な疑問をかさねつつ、不本意に、手を汚しつづけざるをえなかった。オーベルシュタインのやりかたは、ヤンの苦悩や懐疑を超克するものだというのだろうか。そんなはずはない。そんなことがあってはならない。ユリアンはそんなことを認めるわけにはいかなかった。
もっとも卑劣に感じられる手段が、もっとも有効に流血の量を減じえるとしたら、人はどうやって正道を求めて苦しむのか。オーベルシュタインの策謀は、成功しても、それによって人々を、すくなくとも旧同盟の市民たちを納得させることはできないだろう。
納得できないということ。まさしく、それが問題なのだ。仮にオーベルシュタイン元帥の策謀が成功し、共和主義が独立した勢力として存続し得なくなったとき、何が宇宙に残されるのか。平和と統一? 表面的にはまさしくそうだが、その底流には憎悪と怨恨が残る。それは火山脈のように、岩盤の圧力下に呻吟しながら、いつかは爆発して、地上を溶岩で焼き尽くすだろう。岩盤の圧力が大きいほど、噴火の惨禍もまた大きいはずである。そのような結果を生じてはならず、そのためにはオーベルシュタインの策謀を排さなくてはならなかった。
ユリアンは甘いのだろうか。甘いのかもしれない。だが、オーベルシュタイン流の辛さを受容しようとは、ユリアンは思わなかった。>
この主張のどこがおかしいのか、要所要所を挙げて説明しましょう。
<オーベルシュタイン元帥のような手段を用いなくては、平和と統一と秩序は確立しえないのであろうか。そう結論づけるのは、ユリアンにとっては耐えがたかった。>
ユリアンの嘆きとは全く逆に、歴史的に言っても、まさにオーベルシュタインのような手段を用いる事こそが、「平和と統一と秩序」を確立する一番有効な道であると断言できます。私がよく問題にする南宋の秦檜などはその典型ですし、また徳川幕府250年の平和も、豊臣家をあらゆる謀略の手段を使って陥れ、滅亡に追いやった事によって完成したのです。銀英伝だって、オーベルシュタインの策がなかったら、全銀河の統一はかなり遅れ、その間に無用な戦争による犠牲者が増大していたのですし、アルスラーン戦記でも、軍師ナルサスの策謀力がなかったら、ルシタニアからパルス全土を奪回する事などできなかったに違いありません。すくなくとも戦争を惰性的にやっているだけでは平和が訪れる事はまずないと言っても良いでしょう。それは帝国と同盟が100年以上も慢性的に戦争をしていた事でも証明されています。
歴史を少しでも知っていれば、謀略もまた「平和と統一と秩序」に必要不可欠であることはすぐに分かるはずです。だからこそ、ユリアンの謀略否定論は感情論でしかないと言わざるをえません。
<もっとも卑劣に感じられる手段が、もっとも有効に流血の量を減じえるとしたら、人はどうやって正道を求めて苦しむのか。>
「正道を求める」など、ヤンの「信念否定論」からすれば全面否定の対象でしかないではありませんか。「正道を求める」などという「信念」によって、一体どれだけの血が流れると思っているのでしょうか。ヤンの「信念否定論」は、まさに「信念」を持つ事によって争いが起こることを否定しているのですから、ヤンは自らの主張である「信念否定論」から言っても、謀略を肯定すべきだったのです。
政治を行う際に「正道を求める」という「ポーズを取る」ことは政略的な観点から言っても重要ですが、「正道を求める」などということを本当にバカ正直にやっていては、いたずらに味方の犠牲を増やすばかりで、百害あって一利なしです。ラインハルトがその良い例でしょう。政治家というものは多かれ少なかれ「政治的課題を最小限の犠牲で克服するために」謀略をめぐらすものであり、ヤンやラインハルトのような「謀略否定論的な考え方」の方が異常なのです。
<オーベルシュタインの策謀は、成功しても、それによって人々を、すくなくとも旧同盟の市民たちを納得させることはできないだろう。>
同盟の市民がオーベルシュタインの謀略に納得しようがしまいが、そんなものは謀略とは全く関係のないことです。そもそも「万民に納得できる謀略」なるものが存在するのでしょうか? 秦檜の和平論だって、徳川家康の謀略だって、誰もが卑劣であり、納得のいくものではないと思ったことでしょう。しかし彼らは自分達が憎まれる事と引き換えに、平和をもたらす事に成功しましたし、その功績を否定することは誰にもできません。そもそも憎まれる覚悟がなければ、誰かを陥れる謀略など展開できないでしょう。
政治責任は結果が全てなのであって、「卑劣な手段を使った過程」など全く問題ではないのです。ここにユリアンの感情論が入る余地は全くありません。
それに「オーベルシュタインの草刈り」における人質の政治犯とは、旧同盟やエル・ファシル独立政府の要人であって、市井の庶民ではありません。しかも彼らの政体はあまり旧同盟市民に支持されてはいませんでした。旧同盟市民は、民主主義の希望をヤンに期待していたのであって、彼らはヤンの足を引っ張っていただけではありませんか。彼らが人質にされたところで、同盟市民がそれほど同情するとも思えないのですがね。
<ユリアンは甘いのだろうか。甘いのかもしれない。だが、オーベルシュタイン流の辛さを受容しようとは、ユリアンは思わなかった。>
これこそまさに「逃げ」でしょう。いくらユリアンが「オーベルシュタイン流の辛さ」を否定したところで、オーベルシュタインの謀略がどうにかなるわけではないのです。オーベルシュタインの謀略に対抗しなければならないのに、倫理観の優越などを論じて一体どうしようというのでしょうか? はっきり言ってこれは、ユリアンのオーベルシュタインに対する全面屈服宣言と言っても過言ではないでしょう。政治的責任に対する自覚という点において、ユリアンはオーベルシュタインの足元にも及ばない、という事を自ら証明してくれたわけですから。
ユリアンが考えるべきだったのは「オーベルシュタインの謀略にどう対抗するか」であって、謀略否定論をぶつことではなかったのです。
以上の事から、ユリアンのオーベルシュタイン的謀略論に対する「反論」は、オーベルシュタインの謀略論に対抗するには極めて不充分であるといわなければなりません。そもそもユリアンの謀略否定論は「市井の倫理観」に立脚したものでしかなく、現実の政治には何の役にも立たないシロモノなのです。
しかも、この考え方を最も醜悪に実行しているのが、何度も言うように創竜伝の竜堂兄弟と紅塵の秦檜評価論なのですから、政治的にいかにいかがわしいか分かろうというものです。
- 親記事No.482スレッドの返信投稿
- board2 - No.502
Re: 悪役の矛盾と謀略否定論について
- 投稿者:あしだ
- 2000年01月18日(火) 05時18分
レスありがとうございます。
冒険風ライダーさんは書きました
> そもそもラインハルトが戦争好きの気質を持っているからと言って、ヤンがそれにつきあわなければならない理由はありません。
というよりも、むしろ積極的に、ヤンは一番くみしやすい戦争相手としてラインハルトを選んだのでは、と私は考えました。確かにヤンは「戦略レベルにおける劣勢を、戦術レベルで挽回する」という考え方は侮蔑していましたが、そのような反則的勝利の実績があるのも事実。ラインハルトが馬鹿正直に (コトバが悪いですね。一本気に、といってもいいですが) 挑発に乗ってくれることに、ヤンとしては一縷の勝機 (戦略目標の達成という意味で) を見出していたのでは?例えば、下手にラインハルトを戦死せしめたとして、それで帝国が一気に全面崩壊してしまう訳ではないですよね。ラインハルト亡き後、ロイエンタールあたりが皇帝を継ぎ、それをオーベルシュタインが補佐して謀略主義が採られたら、それこそヤンとしては対処のしようが無くなるのでは。
...と考えれば、冒険風ライダーさんがおっしゃっている
> それにしても、「個人的な感情」に基づいてバーミリオン会戦の挑発に応じたり、イゼルローン遠征を開始したりしているラインハルトを、なぜヤンは批判しようとしないのでしょうか? ヤンの戦争否定の思想からしても、これはおかしいと思うのですが。
にも解答が出るのでは。つまり、自分の掌で踊ってくれちゃってるラインハルトに対し、批判するどころか、感謝して花束の一つも贈りたいと。もちろん、この場合でも現実の帝国軍の強さは別問題で、回廊の戦いでイゼルローン軍が全滅の憂き目に遭いかけ、皇帝不予によって九死に一生を得たのも事実。ヤンの見込みの甘さは責められ得るかと思います。しかし、もしも回廊の戦いでオーベルシュタインの献策が容れられ、ハイネセンの市民および政治家を人質に取られてイゼルローンの開城を迫られたら対処のしようがなかったはずです (どこかにそんな記述がありましたよね)。
それから、これは質問なのですが、
> 自らの目的達成のためにも、また自らの思想や感情と整合性をつけるためにも、ヤンは謀略の効用を直視すべきであったと思うのですが。
ヤン (もしくはイゼルローン勢力) があの時期に謀略主義を採るとして、どのような策が妥当だと思われますか?お考えをお聞かせ願えれば幸いです。
(追伸。久しぶりにヤンとかラインハルトとかタイプしているだけでトリハダが立つ思いでおります。)
- 親記事No.482スレッドの返信投稿
- board2 - No.503
解決策としては・・・
- 投稿者:北村 賢志
- 2000年01月18日(火) 09時24分
冒険風ライダーさんは書きました
>竜堂兄弟の敵対陣営のマヌケぶりの最もたるも
>のは、四人姉妹の機密であるはずの「染血の
>夢」を、わざわざ竜堂兄弟一派に教えてやった
>事でしょうな。黙っていれば竜堂兄弟は何もし
>てこないだろうに、それこそガソリンスタンド
>に爆弾を投げ込むような愚行を、わざわざ自分
>からやらなければならない理由がどこにあると
>言うのでしょうか?
この矛盾点は結構簡単に「解決する方法はあった」のです。
ズバリ「一連の竜堂兄弟への干渉や『鮮血の夢』計画はすべて牛種が竜堂兄弟を利用するためにばら撒いたエサである」としてしまうことです。
ですが破壊しか能のない竜堂兄弟を利用し、しかも「鮮血の夢」より大掛かりなものになると、目的はもう「人類滅亡」しかありません(無論、逆にスケールを小さくしてもいいのですが、それでは小説としての盛り上がりに欠けます)。
ところがすでに「牛種の世界支配は巧妙だ」といったことを作中言わせている以上、その連中の目的を「人類滅亡」にしてしまったら自家撞着としか言いようがありません。
この手法を取るにはすでに手遅れでしょう。
純粋に娯楽小説として見ても「鮮血の夢」の情報は、「普通の人間」が何とかつかんで情報収集能力のない竜堂兄弟に伝えるなり、計画の一部だけをちらほらと出しつつ、しばらく引っ張るなり手は色々とあったと思うのですが、このあたりはもう失敗としか言いようがありません。
>第一、「主人公と敵が関わるに至る明確な理
>由」がなかったら、相手を「悪」とみなして完
>膚なきまで>に叩き潰す、という事自体、全く
>正当化できないで>はありませんか。勧善懲悪
>に必要不可欠であるはずの設定さえまともに
>できていないと言うのでは、創竜伝は「子供向
>け小説」としてさえ失格であると思うのですが。
全くの私見ですが、ひょっとすると田中氏は現在の世界秩序や日本の実情を本音は支持しているのではないでしょうか。
創竜伝に出てくる「既存の秩序を代表する存在」が非常に矮小に描かれているのはいまさら繰り返すまでもありませんが、逆を言えば田中氏はそういう手法以外に、既存の秩序を「悪」とするに足る説得力ある描き方を見出せないようにも見えます。
-
- board2 - No.504
初めまして
- 投稿者:鷹聖詩命
- 2000年01月18日(火) 13時05分
初めまして、この掲示板の皆様方。
そして、石井由助さん、日本茶では
お世話になりました。
随分前から拝見させて頂いておりましたが、
それだけでは、失礼だと思いましたので、
書き込みに参りました。
それにしても、皆様方の高度な議論は大変
参考になります。
僕はまだまだ勉強不足なので議論に参加は
出来ませんが、ときどき質問などくることが
ありますので、その時は宜しくお願い致します
それでは失礼します。
- 親記事No.482スレッドの返信投稿
- board2 - No.505
Re: Re484/485 謀略否定論の弊害とオーベルシュタインについて
- 投稿者:ランチ曹長
- 2000年01月18日(火) 13時13分
平静の一軍人さんは山県有朋を、冒険風ライダーさんは秦檜を、「史実のオーベルシュタイン」と誉めておられますが、ちょっと私見を述べたいと思います。
オーベルシュタインというキャラは、銀英伝中、最も無謬に近いところにいる人物だと思います。ヤンやラインハルトさえ、よく指摘されるように「感情」で動く人間として描かれているため、意地を張って失敗する事があるのに、オーベルシュタインは「感情が無い」かのような描かれ方ですから。
まあそんなわけで、オーベルシュタインは「通好み」の人気キャラですが、史実の謀略型人間をオーベルシュタインに重ねるのはちょっと無理があるかな、とも思うのです。
作中でも何度も語られていますが、オーベルシュタインはイヤな奴で人徳が有りません。その数多い正論を帳消しにするほどに。
・・・というような事は今さら私が言うまでもありませんが、重要なポイントが一つ。
オーベルシュタインがイヤな奴であり、人徳が無いのに一目置かれる存在である理由として「私心が無い」という点も重要だと思います。確かビッテンフェルトに「私心が無い事すら利用しているのが許せん」みたいな事言われていますが。
物欲、虚栄心などを全く持ち合わせていない、というのは大きな理由ですし、回廊の戦い直前の「自分が死間になってもヤンをおびき寄せる」発言など、自分の生命にさえ執着しない、という態度も、オーベルシュタイン評価の際の重要なポイントじゃないか、と思うのです。
個人的には、秦檜にしろ山県有朋にしろ、「功績ある謀略型人間」だとしても、私心が有りすぎる人物なので、「史実のオーベルシュタイン」のようにベタ褒めするのはどうかな、と思うのです。
と言うよりむしろ、オーベルシュタインという人物は、ラインハルト以上の「現実には絶対表れない、フィクションだからこその完璧キャラ」として書かれている気がするので、歴史上のどの人物もオーベルシュタインに比べる事はできない、と思います。
- 親記事No.482スレッドの返信投稿
- board2 - No.506
感情論と言い切るのも難しいのでは?
- 投稿者:ランチ曹長
- 2000年01月18日(火) 13時40分
しばらく興味深くこのツリーに注目していました。ちょっと私見を。
このツリーでは、オーベルシュタインの評価が高いようですが、現実的に考えると、ヤンやユリアン、ラインハルトがしばしば陥る「感情論」も、そう冷たく切り捨てる事はできないのでは、と思います。
オーベルシュタインの謀略(と言えるでしょう)の一つに「ヴェスターラントの虐殺」があります。それを誰もが「結果として内線が早く終わり、犠牲者も減ったし」と数字で割り切れるものじゃないと思うのですよ。そして、そういう「納得いかない」って感情は、簡単に無視できないものなんじゃないか、と思います。
オーベルシュタインに対するミッターマイヤーの反論に「義によってこそ国は立つ」という言葉がありますが、現実に国家を動かす者が言うには「青臭い」のは事実ですが、一概に切り捨てるもんでもないんじゃないかと。
銀英伝において「ルドルフ的」と言われる論法を完全否定するのは難しいです。しかし、「謀略最高!」ってのも、それはちょっと違うんじゃないか?とも思うのです。
あと、「ヤンの思想的矛盾」と言っても、ヤンについては作中しつこいくらい「矛盾の人」って書かれている事ですし、叩けばホコリはいくらでもでるので、叩きすぎるのも可哀想じゃないか、と思いますよ。
全然まとまりませんが、ヤンやユリアン、ラインハルトの「理想論と隣り合わせの感情論」に対する批判もわからないではないのですが、人間の「感情」ってものを完全に仮定から切り捨てた「現実論」もまた非現実的になってしまうのではないか、とか思ったわけです。
-
- board2 - No.507
ちょっとした息抜き(特に小村損三郎さんへ)
- 投稿者:本ページ管理人
- 2000年01月18日(火) 15時16分
銀英伝の実写化キャスト投票アンケートを見つけました。
ttp://snog.squares.net/vote/vote.cgi?detail=%83%84%83%93%81i%93%e0%91%ba%8c%f5%97%c7%81j&room=11337
書き込みがないと消滅するCGIなので、あるのはここ2、3日だけでしょうけど、見てみたらいかがでしょうか?
ちなみに現在トップは
ヤン(内村光良)
わはははは!
- 親記事No.507スレッドの返信投稿
- board2 - No.508
そういえば
- 投稿者:heinkel
- 2000年01月18日(火) 15時58分
> 銀英伝の実写化キャスト投票アンケートを見つけました。
そのサイトにも書いてある昔の「ウリナリ」の
ラインハルト:内村光良
キルヒアイス:東野幸治
というキャスティングでのコント、タイトル画面だけみて「ウリナリ」で銀英伝ネタ?と、めちゃ期待させといて、内容は全くダメダメ。
もとネタともまったく関係なしで、ただ扮装だけがパロディという、なんだか分からないしろものでした。
やりようによっては、笑えるものができそうだったんだけど。
ちなみに東野が「ヒガシノイス」だったような・・・。
- 親記事No.482スレッドの返信投稿
- board2 - No.509
Re: Re498:ユリアンの謀略否定論とは
- 投稿者:ふみさとけいた
- 2000年01月18日(火) 16時07分
軽い気持ちで議論に参加したことを後悔しながら、読み、考えさせていただきました。
残念ながら今の僕では、冒険風ライダーさんの意見に対して効果的な反論は出来そうにありません。
謀略の必要性については彼のおっしゃる通りだと僕も認めざるをえないと考えます。
>同盟の市民がオーベルシュタインの謀略に納得しようがしまいが、そんなものは謀略とは全く関係のないことです。
という部分に関しては「民意」というものを無視するのもどうかと考えましたが、やったのはオーベルシュタインであり、ラインハルトはむしろ反対していたことを考えると、オーベルシュタインに反発するあまり皇帝の評価が上がり、結果的に新帝国の体制は強固になるのでは、という結論にたどり着き、オーベルシュタインのすごさを再確認するだけに終わってしまいました。結局「民意」としてもそれを受容するだけの下地があるからこそ謀略が成功するのでは?と今は考えています。というかそう考えたいです。
そんなわけで民衆が納得してしまうのならば、この議論は最初から成り立たないという結論にたどり着きました。少し悔しい気もしますが…。
ただ、冒険風ライダーさんの意見に納得できない点もあったので、それについても書かせていただきます。
> 「正道を求める」など、ヤンの「信念否定論」からすれば全面否定の対象でしかないではありませんか。「正道を求める」などという「信念」によって、一体どれだけの血が流れると思っているのでしょうか。ヤンの「信念否定論」は、まさに「信念」を持つ事によって争いが起こることを否定しているのですから、ヤンは自らの主張である「信念否定論」から言っても、謀略を肯定すべきだったのです。
という点について、「正道」というのは一体なんなのでしょうか?僕は「市井の倫理」であると考えます。僕は、ヤンという人を「公人になりきれなかった人」であると考えています。なまじ自分なりの考えを持ってしまったために、軍という組織の中でもそれを捨てきることが出来ず、「市井の倫理」を捨てきることが出来なかったために謀略に関することをはじめとした多くの行動が矛盾してしまったのではないでしょうか。また、私人に徹し、物事を作り上げるには信念に対する嫌悪感が強すぎた(これに関しては冒険風ライダーさんのおっしゃる通りだと思います)。それゆえにヤンの後継者であるユリアンもそれを受け継いでしまったのではないでしょうか。
ここニ三日で自分の考えが二転三転し、最初の発言とは全く意見を異にしてしまい我ながら情けないですが、これが今の僕の考えです。
乱文で失礼しました。
- 親記事No.507スレッドの返信投稿
- board2 - No.510
URLちょっと間違い
- 投稿者:本ページ管理人
- 2000年01月18日(火) 16時53分
ttp://snog.squares.net/vote/vote.cgi?room=11337
投票結果はこちらですね
- 親記事No.482スレッドの返信投稿
- board2 - No.511
Re502:反銀英伝・謀略構想私案
- 投稿者:冒険風ライダー
- 2000年01月18日(火) 18時20分
<むしろ積極的に、ヤンは一番くみしやすい戦争相手としてラインハルトを選んだのでは、と私は考えました。確かにヤンは「戦略レベルにおける劣勢を、戦術レベルで挽回する」という考え方は侮蔑していましたが、そのような反則的勝利の実績があるのも事実。ラインハルトが馬鹿正直に (コトバが悪いですね。一本気に、といってもいいですが) 挑発に乗ってくれることに、ヤンとしては一縷の勝機 (戦略目標の達成という意味で) を見出していたのでは?>
この場合「ヤンがラインハルトにこだわる事によって、どのようにして自らの戦略目標を達成するか」という構想が必要になります。しかし銀英伝全編を通じて、ヤンにそのような具体的な構想がありましたっけ? 確かにヤンはラインハルトの感情なり気質なりに一縷の望みを託していたように見えますが、これは実のところヤンが嫌う「戦略レベルにおける劣勢を、戦術レベルで挽回する」よりもはるかに否定すべき考え方である「希望的観測」ないしは「精神論」に似た思想なのではないでしょうか(もちろんヤンはこれらの考え方をさらに嫌っています)。
それに、仮にこの方法でラインハルトが民主主義の存続を認めたとしても、それは結局のところ「自己の力(軍事力とか国力とか)」に基づいたものではありませんから、ラインハルトの気が変わったり、ラインハルトの後継者なり帝国政府が「そんなものは認めない」などと公言したりしたら、その場で倒れてしまうような極めて脆いシロモノでしかありません。厳しいようですが、それが国家関係の現実というものです。これについては、以前に不沈戦艦さんが主張していた「バーラト自治州の脆さ」が一番説明できているでしょう。
そもそもヤンの民主主義思想から言っても「皇帝の慈悲なり寛容さによって民主主義を存続させる」などという考え方自体、否定されるべき考え方なのではないでしょうか? その観点から見ると「バーラト自治州」というものについても、どうしても何か皮肉なものを感じてしまうのですが。
<例えば、下手にラインハルトを戦死せしめたとして、それで帝国が一気に全面崩壊してしまう訳ではないですよね。ラインハルト亡き後、ロイエンタールあたりが皇帝を継ぎ、それをオーベルシュタインが補佐して謀略主義が採られたら、それこそヤンとしては対処のしようが無くなるのでは。>
オーベルシュタインとロイエンタールとが手を組む、というのは、あの二人の対立ぶりを見ても絶対にありえないことだと思いますが(^_^;)、それはさておき、上記の考え方に従うと、ヤンはラインハルトと戦場で戦う事に一体何の希望を見出していたのでしょうか? 戦場でラインハルトを殺す事すら許されないのでしょう? ヤンの選択肢はさらに狭まってしまうのではないかと思うのですが。
<つまり、自分の掌で踊ってくれちゃってるラインハルトに対し、批判するどころか、感謝して花束の一つも贈りたいと。>
これはまず考えられませんね。「ヤンほどラインハルトを非常に高く評価している人間はいなかった」という描写があちこちにありますし、「自分やユリアンでさえ、ラインハルトに及ばない」という描写もありますから。もしヤンがラインハルトをそのように見ているのならば、自分と比較するような事をするでしょうか?
ヤンもユリアンも、「民主主義を脅かす存在としてのラインハルト」というものについては敵対し批判もしましたが、「ラインハルト個人」というものについて何ら批判的言動を行った形跡がありません。「ラインハルト個人」にも少なからずの欠陥(バーミリオンやイゼルローン遠征に見られる感情的な行動原理など)があり、しかもそれに自分達が巻きこまれている(特に8巻・10巻のイゼルローン遠征)にもかかわらずです。だからこそ不可解でならないのですよ。
<もしも回廊の戦いでオーベルシュタインの献策が容れられ、ハイネセンの市民および政治家を人質に取られてイゼルローンの開城を迫られたら対処のしようがなかったはずです (どこかにそんな記述がありましたよね)。>
<ヤン (もしくはイゼルローン勢力) があの時期に謀略主義を採るとして、どのような策が妥当だと思われますか?お考えをお聞かせ願えれば幸いです。>
これはとりあえず、
1. 銀英伝7巻、イゼルローン奪取後の謀略
2. 「オーベルシュタインの草刈り」の対処法
の2つに分けて、私なりに論じてみましょう。
1. 銀英伝7巻、イゼルローン奪取後の謀略
まずあの時点でヤンがやるべきだったのは、イゼルローン要塞と自らの武力を背景にして、帝国に「話し合い」を提言する事です。さしあたっては「イゼルローン要塞と帝国の覇権の承認と引き換えに、エル・ファシル独立政府を承認し、民主主義を存続させてほしい」とでも言って。ラインハルトはともかく、帝国政府と帝国軍はヤンの用兵に恐れを抱いていますし、帝国が自由惑星同盟を併合した後ならば、「平和がやってきた。もう戦いたくない」という兵士の延戦気分にも期待できるでしょう。ヒルダやマリーンドルフ伯、カール・ブラッケといった「帝国の穏健派」たちも、これ以上の犠牲を防ぐためにも話し合いに賛成するのではないでしょうか。ヤンが思っている以上にヤンの名声とイゼルローン要塞の戦略的意義は大きいのですよ。
もちろん、これがそのままうまく行けば儲けものですが、まずそう簡単にはいかないでしょう。しかしそれで良いのです。というのも、これの第一目標は「時間稼ぎ」ですから、これでヤンは自らの勢力の基盤を整え、謀略をめぐらす時間を稼ぐ事ができます。あの時にヤンに一番必要だったのは「時間」だったのです。したがって、交渉はできるだけ長引かせる必要があります。
次に行うべき手段は「自己勢力の基盤の強化」および「帝国内部の切り崩し」です。
前者は宣伝工作と懐柔政策を中心に展開します。
まず、同盟国内において「エル・ファシル独立政府は自由惑星同盟に代わる民主主義の後継者である」と盛んにアピールします。ヤンがエル・ファシル独立政府に身を投じた、というオマケでもつけておけばさらに効果的です。そしてここが重要なのですが、帝国を刺激しないように「我々は帝国と敵対しようとは考えていない。我々は平和を望んでいるのだ」とも宣伝し、自分達が平和主義者であることをアピールするのです。これによって帝国軍兵士の延戦気分を煽る事もできますし、それでもラインハルトが戦争という手段に訴えようとするならば、全銀河の同情を一心に集める事もできます。ラインハルトの方針に対する疑問や批判も発生する事でしょう。こういうことが以外に後々政治的に有利に働くのです。
また、ラインハルトの支配体制に不満を抱くフェザーン商人との連携をはかって経済力を充実させるという手も使えます。彼らに一定の特権を与えることを条件に自分達に投資させれば、政治的にも経済的にも軍事的にも、帝国から自立する力を得ることができます。経済力というものは政治の根幹を成す重要なものですから、これは非常に重要な事です。これについては、確かヤンも同じような主張をしていましたね。
そして後者は「当面の帝国軍の軍事行動を制約する」「帝国政府に和平派を台頭させる」に重点をおきます。
「当面の帝国軍の軍事行動を制約する」で一番効果的なのは、銀英伝10巻冒頭にあるような「経済流通システムを混乱させる事」でしょう。これが実行されれば、帝国は当面その対処に追われて「大規模な軍事行動を行う」どころではなくなります。これでさらに時間を稼ぐ事ができますし、最初で提言した和平交渉をまとめる好材料となり得るでしょう。もっと悪辣な手段としては、地球教徒を煽って帝国に様々なテロ行為を行わせ、帝国政府と帝国軍の怒りをそちらに向けさせるという方法も使えますね。何しろ彼らは銀英伝10巻でオーベルシュタインの挑発に簡単に乗ったほど単純な思考しか持っていませんから、地球教徒について詳しい情報を握っているヤン達が地球教徒を煽るのはとても簡単な事です。もちろん、最終的に「帝国を混乱させた全責任」は全て彼らにかぶってもらいます。
「帝国政府に和平派を台頭させる」の方は以外に簡単かもしれません。極端な事を言えば、帝国政府と帝国軍内でラインハルト以外の人間が、すくなくともイゼルローン遠征に関しては全て穏健派なのですから、その中でも特にラインハルトに批判的な人物に和平による理と利益を説き、味方にすれば良いのです。候補としては前述のカール・ブラッケとマリーンドルフ親子が最適でしょう。帝国軍内部でも、ミッターマイヤー辺りならば和平を支持するかもしれません。帝国内部から和平の話が持ち上がり、それが多くの穏健派に支持されれば、いくら戦争好きなラインハルトでも聞かざるをえないでしょう。そもそもイゼルローン遠征自体に何の国益もないということは、本当はラインハルト自身も分かっている事なのですから。
この謀略戦略で一番重要な事は、ヤンの名声を徹底的に利用した上で「ヤンと戦う事は帝国にとって不利益である」と帝国上層部に思いこませることです。ヤンにとっては非常に不愉快な事でしょうが、あの状況下で一番有効に使える武器というのはそれしかないのですから、ヤンは個人的な感情をねじ伏せてでも「自分を利用した謀略」を展開すべきだったのです。「ただラインハルトの来襲を待っているだけ」では、彼我の戦力差で叩き潰されるだけであるということが、ヤンには全く見えなかったのでしょうか。
また、それと合わせて、この謀略戦略はヤンの存在によって成り立っているようなものですから、ヤンの身辺警護については何重にも考えられていなければなりません。ヤンがいなくなれば全てが終わる、ということは、謀略と全く無縁なミッターマイヤーですら考えた事なのですから。
2.「オーベルシュタインの草刈り」の対処法
これについては以外に簡単に結論が出ました。オーベルシュタインがヤンやラインハルトの思想的矛盾を突いたように、オーベルシュタインの立場的な矛盾を突けば良いのです。
そもそもオーベルシュタインがハイネセンに派遣されてきたのは「ラインハルトの全権代理」としてです。「オーベルシュタインの草刈り」も、それに基づいて行われました。そうであるのならば、ユリアンは次のように質問を「全銀河に向けて」発信すれば良かったのです。
「政治犯を収容して無血開城を迫る、という卑怯卑劣な行為は、皇帝ラインハルトの意思に基づいて行われたものなのでしょうか?」
もちろん「オーベルシュタインの草刈り」は、完全にオーベルシュタインの独断によって行われた事です。だから返答はNOとなりますが、しかしそう返答することは何を意味するか? オーベルシュタインがラインハルトの命令に逆らって独自の行動をとったという事を、自ら公言するという事になるのです。オーベルシュタインの組織論から言ってもこれは非常にまずいことですし、また命令の正当性も失われる事になります。
ではYESと言えばどうなるか? それはオーベルシュタインの命令における最終責任を、ラインハルトが取らなければならないという事を意味します。そのような不名誉な事を、異常なまでに誇り高いラインハルトが認めるはずがありません。その結果として、彼はオーベルシュタインから権限を取り上げ、「オーベルシュタインの草刈り」を撤回させなければならなくなります。ユリアン達が手を出すまでもなく「オーベルシュタインの草刈り」は帝国自らの手で消滅せざるを得ません。
なにも返答しなかったらどうか? その場合でも「オーベルシュタインには何か後ろめたい事があるのだろう」という印象を与えることができますし、さらに返答を促すことによって時間稼ぎをする事ができます。そしてそうこうやっている内に、やはりラインハルトはオーベルシュタインに干渉して「オーベルシュタインの草刈り」を撤回させる事になるでしょう。ラインハルトの性格から言っても、立場的な責任論から言っても、ラインハルトは自発的にそうせざるをえないのです。
「オーベルシュタインの草刈り」の最大の弱点は、ラインハルトとオーベルシュタインの意思疎通が全くできていない事にあるのです。だからユリアンはオーベルシュタインではなく、ラインハルトをこそ謀略対象の相手にすべきだったのです。こういう時こそラインハルトの性格を利用しないでどうするというのでしょうか。
これが私なりの謀略私案ですが、もちろん現実にはここまでうまくいくとは限りません。特にオーベルシュタイン辺りがそれなりの手をうってくる事は充分に考えられるのですから、その他の要素も絡んでさらに複雑になるかもしれません。
しかし政治を行い、自らの利益を守るというのならば、あらゆる謀略を振るい、敵の目を欺いたり、誰かを陥れなければならないこともあるのは当然の事ではありませんか。この事を直視せずして、どうして最終的な政治的勝利を達成する事ができるというのでしょうか。
イゼルローン勢力が最終的に「バーラト自治州」を獲得したのは、結局のところ彼らが相当に運が良かったからであるにすぎません。「自らの命運を運に頼る」など、それこそヤンの思想から言えば全否定されるべき事ではありませんか。民主主義勢力が自らの足で立つためにも、ヤンは謀略を積極的に使うべきだったのです。
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- board2 - No.512
Re503:田中芳樹の本音とは
- 投稿者:冒険風ライダー
- 2000年01月18日(火) 18時22分
>染血の夢
何でも「染血の夢」には「牛種の真の目的」なるものがあったそうですが、それが何であるか提示される事なしに、「染血の夢」は創竜伝10巻で自然消滅してしまいました。アレは結局何が言いたかったのか私にはさっぱり分かりません。ストーリー破綻のために存在したとしか思えないのですが。
それにしても、今時の小説なりゲームなりで、あそこまでストーリーの基本設定が破綻しまくっているものは私が知る限り他に見た事がありません。あそこまでいくと、「ひどい」を通り越して逆に賞賛に値するのではないでしょうか(笑)。
<全くの私見ですが、ひょっとすると田中氏は現在の世界秩序や日本の実情を本音は支持しているのではないでしょうか。
創竜伝に出てくる「既存の秩序を代表する存在」が非常に矮小に描かれているのはいまさら繰り返すまでもありませんが、逆を言えば田中氏はそういう手法以外に、既存の秩序を「悪」とするに足る説得力ある描き方を見出せないようにも見えます。>
小説のストーリーのみに限定できるのならば、確かにそのような解釈も成立しえるかもしれません。しかし対談やあとがきでまで似たようなことを主張をするというのは一体どういう事なのでしょうか?
創竜伝は言うまでもないでしょうが、アルスラーン戦記5巻のあとがきにも次のような主張があります。
アルスラーン戦記5巻 P250
<*この文章をゲラを見ているときに、手塚治虫先生の訃報がもたらされました。つつしんで御冥福をお祈りさせていただきます。ほんとうに、ひとつの時代が終わってしまいました。それにしても、この戦後最大の創造家のトータルの業績に何ひとつ公的に報いることのなかった日本という国は、ほんとうに文化国家といえるのでしょうか。もっとも、今の政府から勲章なんかもらっても、手塚先生が喜ぶとは思えませんけど……。>
故人の冥福を祈るということ自体は結構な事なのですが、その故人をダシにして必要も必然性もないのに日本を貶め、さらに故人を代弁するというスタンスを取った上で、「今の政府から勲章なんかもらっても、手塚先生が喜ぶとは思えませんけど」などという自分勝手な思いこみを主張する行為が、田中芳樹にとっては「つつしんで御冥福をお祈りさせていただきます」ということなのでしょうか。むしろ故人に対する冒涜なのではないかと私は思いますけど。
これは「小説のあとがき」であって、別にストーリーの必要上盛り込まれたわけではありません。創竜伝のような主張が「ストーリー構成上やむをえずやっている」というのであれば、創竜伝文庫本における対談や上記のあとがきのような主張は一体何なのでしょうか? 田中芳樹は読者を欺いているのでしょうか?
もっとも、田中芳樹の本音はどうであれ、田中芳樹には自らの好き勝手な言動に対して責任を取ってもらわなければならないでしょう。それこそが田中芳樹の大好きな「言論の自由」というものです。