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投稿ログ210 (No.3581 - No.3586)

board4 - No.3581

イゼルローン要塞におけるヤン

投稿者:パンツァー
2003年02月05日(水) 14時24分

No3468関連のレスですが、
「移動要塞」自体との関連が薄いこともあって、新規投稿とします。

> >パンツァーさん
>  はじめまして。

ずいぶん遅れましたが、初レスになります。
こちらこそ、はじめまして。

>  まずは、どちらかと言えば私の移動要塞説には反対意見の方がタナウツ掲示板で圧倒的多勢を占める中、私の論の方に賛意を示してくださり、ありがとうございます。

賛成意見が少ないのは、私も妙な気がしていました。
もっとも、賛成の場合はレスを返す必要性がなく、しかも自分が新規な意見を提示できるわけでないとなると、投稿する内容がない、ためかもしれません。

それから、タナウツって、「田中芳樹を撃つ」のことなんですね。しばらく(他の掲示板のことかと勘違いして)理解しておりませんでした。日本では四音節の省略形が多く、外国人が戸惑う(辞書等に記載されないから)らしいですね。

>  議論に限らず、一対多数で勝負するというのは結構きついものがありましてね (-_-;;)。

それはそうでしょう。銀英伝考察3の後半部など、大変な精神力を発揮されたものと思います。

☆移動要塞の無補給に関して

私としては、「無補給」という状態を、ワープエンジン等SFでおなじみのレベルにまで引き落として説明できるのではないか、という先入観があって、論を展開したのですが、却って「小説中の世界観を援用するならば、」という当初の記載を混乱させることになったでしょうか。

確かに、No3517の不沈戦艦さんの指摘
<「剣と魔法のファンタジー作品と同類である」、とお考えになってみてはいかがですか。>
というほどの峻別までは、自分にはできてなかったようですね。
「常識」の拘束は、恐ろしいものですね。

☆「6.イゼルローン要塞の構造的な独裁権力者、ヤン・ウェンリー」に関して

<私個人は別に最初から意図していたわけでもないのですが、1~3までの銀英伝考察シリーズには、多かれ少なかれ「ヤンは民主主義の擁護者どころか破壊者である」というテーマがありましてね。これも、その一環として作った議題であるわけです。>

全般の趣旨とはしては、まったく同意します。

No906
<バーミリオン会戦後におけるヤンのシビリアン・コントロールの逸脱行為(政府の命令と同盟の国内法に背いてまで、独断でメルカッツ提督と自軍の一部戦力を隠蔽した事)>

この指摘はまったく見事ですね。
(少なくとも私はまったく意識しませんでしたので)

1.同盟政府の命令に従って、バーミリオン会戦でラインハルトに止めを刺さない。2.同盟政府の命令なく(無視して)、戦力を隠蔽する。

1のみを考慮すると、確かに、客観的に主張しうる「民主国家における軍人のあるべき姿」に則っているかのように見えます。
しかし、2は「将来に対する備え」であるにせよ、「亡命者への人情」であるにせよ、「個人的な判断」であって、「民主国家における軍人のあるべき姿」から外れています。戦略上意味があるとしても。

つまり、ヤンがしたがっている原則は、作中で公言されているような「民主国家における軍人のあるべき姿」(客観的に認められる原則)ではなく、極めて個人的な原則、であると考えられます。

このようにヤンが、「個人的な原則」にしたがって動いているとするならば(大抵の人間はそうだが)、「民主国家における軍人のあるべき姿」そのものは、無視してしまっている、という結論が導き出されます。

1に関しても、ヤン自身が、「民主政体」と「専制政体」とを天秤に掛けて考え見たり、ラインハルトの政治的判断に好意を寄せている部分を考慮すると、

「ラインハルトを殺したくなかった」ところに、「同盟政府の停戦命令」が来たので、大義名分をもってそれに乗ってしまった、かのように見えます。

どうもヤンには、同盟を防衛するための積極的な覚悟が見られないですね。


ただ、
イゼルローン赴任時のヤンに関して、ヤンの地位そのものを指して、ヤンをとがめるべき点があるかというと、疑問符を持ってしまうのです。

A.イゼルローン要塞は、一行政単位として扱いうるか。

No. 1726-1727
<これっておかしくありませんか? イゼルローン要塞の軍事面における最高責任者に過ぎないはずのヤンが、500万人もの人口を擁する「大都市イゼルローン」の最高責任者をも兼ねているのです。これは「大都市イゼルローン」の地方行政が、中央から派遣された一軍人によって、住民の自由意思とは無関係に運営されていることを意味します。つまり「大都市イゼルローン」は、たかだか一軍人に過ぎないヤンが都市行政の最高責任者として事実上の政治・行政権力を合法的に掌握しているため、民主主義の基礎である「地方自治の原則」が一切機能していないことになるのです。>
前回はあまり考えず安易に投稿したので見落としておりましたが、この点(イゼルローン要塞が一行政単位なのか)が疑問です。人口規模から言えば確かに大都市相当(500万人)ではありますが。

というのもイゼルローン要塞の場合は、軍隊の駐屯地があって、その駐屯地に軍属としての軍人の家族が同居している、という構図ですよね。
そもそも住民がいて、その住民の居住区に軍隊が駐屯している、という構図とは、意味が異なると思うのです。

在日米軍基地との比較が銀英伝考察3中にありましたが、この対比は興味深いですね。というのも、在日米軍基地の敷地は、日本の治外法権地帯であっても、アメリカの領土ではなく、アメリカ人の居住地域ではありません。したがって、この敷地内の居住者による自治体が存在するとは思えないからです。自治が行われうる政体ではありえないでしょうから。軍による行政は存在するでしょう。

普通、住民票の所在地で、地方行政の代議士の選挙権(および被選挙権)が獲得できるものでしょうが、例えば、在日米軍基地にいる軍人の家族は、どこの住民票を持っているのでしょうか。

もっとも私は、例えば沖縄の米軍基地の実際がどうなのか知りませんので、私の推測は事実に反しているかもしれません。

B.交戦状態における前線での戒厳の可能性

前回述べたのは、この可能性です。
同盟の法体系に戒厳令が存在するなら(わが国のような特例を除けば)、もっとも敵の攻撃を受けるであろうイゼルローン要塞は、全住民が軍の管理下におかれたとしても不思議はありません。これは、地方自治が行われている場合において、の可能性である。したがって、軍の施設と考えられるイゼルローン要塞に限らず、どこかの星であっても同じです。


>  まあイゼルローン要塞にヤンが赴任したのは、同盟の場合にせよ、エル・ファシル独立政府の場合にせよ、政府の命令によって行われているわけですから法的には何ら問題は生じないでしょうが、やはり「ヤンがその気になればいつでも独裁者になれる基本的構造」(これは作中でも言及されています)と「イゼルローン要塞およびヤン麾下の艦隊戦力が持つ潜在的脅威」を考慮すれば、ヤンが政府から独立を宣言してしまう可能性や、ヤンがその強大な武力を背景にルドルフ・フォン・ゴールデンバウム的な独裁者と化してしまう可能性も(ヤンの主観的要素を排除して客観的に見れば)充分に考えられる事態ではあるわけなのですから、民主主義の理念や同盟の安全保障の観点から言って危険であったことはほぼ間違いないのではないかと。

これに関しては、そういう危険があろうとも、それは同盟のシステム上の問題であって、ヤン個人に問われる問題ではないかと思います。

つまり、イゼルローン要塞におけるヤン自体に関しては、
「ヤンは民主主義の擁護者どころか破壊者である」
とまでは言い得ないのではないか、といったところでしょうか。

board4 - No.3582

ザ・ベストについてのお知らせ

投稿者:本ページ管理人
2003年02月05日(水) 15時42分

今回、ザ・ベストに登録した、ある投稿者の方より誠意のある
お願いを受け、ザ・ベストの一部を改変いたしました(内容・文意は変えていません)。
おかげさまで、このサイトも発足以来既に4年以上もの月日が経過し、投稿者の方の立場も書き込んだ当時と異なる、と言うことがあってもおかしくなくなりました。
言論の責任との秤には細心の注意を払わなければなりませんが、できうる限り諸事情は考慮させていただきたいと思います。
以上、報告までにお知らせいたします。

親記事No.3468スレッドの返信投稿
board4 - No.3583

Re:素朴な疑問

投稿者:Ken
2003年02月05日(水) 15時51分

IKさん、こんばんは。

しばらくぶりに、お名前をおみかけして、安心しました。

>否定派の方々は「ラインハルトは天才である」という前提を擁護するために、
>「そのために」議論を展開されているように思われます。何もここで党派根
>性をむき出しにするつもりはないのですが(^^)、天才=全能と捉えるのが間
>違いではないでしょうか。

「否定派」が誰を指すのか具体的に書いておられませんが、この数日は、「質」はともかく「量」の面では私の発言が多いので、「一応」私のことであると仮定して回答をさせていただきます。

はじめに、「ラインハルトとヤン・ウェンリーの英雄としての名声を守りたい」という感情が私の中にあり、それが私に議論を続ける気力を与えていることは否定しません。この点、私に関してはIKさんが言われるとおりです。

ただ、否定派の背後にあるのは「それだけ」と言われるのであれば、その部分は訂正をお願いしたく思います。

簡単に言いますと、私はここの掲示板は「シンポジウム」的な性格が非常に強いと思っています。もちろん、その時々に議論されるテーマによりますが、移動要塞の現実性を論じる今回の議論は、私の認識ではまさしくシンポジウムです。

そして、「移動要塞の高い実現性を忘れた二人の銀河英雄は、実は愚か者である」という提言をされた冒険風ライダーさんは、いわばシンポジウムでの発表者です。これに対して、私はそのセッションで発表を聞いている参加者の一人です。

そして、シンポジウムの参加者には、発表内容を厳しく冷酷に吟味し、僅かな瑕瑾があれば容赦なくそこを攻める「責任」があります。これに対して発表者には、どんな批判や疑問にも、自説が答えうることを証明する責任があります。議論は「厳しく」「冷たく」そしてなによりも「しつこく」あるべきで、そうでなければシンポジウムとはいえません。

私は、このような認識のもとに議論をおこなっています。前述のように、ヤンやラインハルトを弁護したい「感情」はありますが、議論の中には、「彼らは英雄だから、批判をひかえるべきだ」などという要素を混入させたつもりはありません。

なお、言うまでもありませんが、シンポジウムでの発表者として今回の主張を掲げられた冒険風ライダーさんは、「一般参加者」である私などよりも、はるかに「たいした仕事」をされています。

親記事No.3468スレッドの返信投稿
board4 - No.3584

ひょっとしたら・・・

投稿者:Ken
2003年02月05日(水) 17時32分

ふと、思いついたのですが。

ひょっとしたら、冒険風ライダーさんと私とでは、「証明する」という言葉に異なる定義をしているのではないでしょうか?

例えば、ライダーさんが、

>ガイエスブルク移動要塞に関しても燃費の問題が全く提示されていないという
>「作中事実」がすでに証拠として提示されている

と、言われるのが、私にはなんとしても理解できません。「なぜそのことが、普遍的な法則として、要塞に燃費問題がないという結論に直結するのだろう?」と、ずっと頭をひねってきたのです。そして、ある仮説にいたりました。

冒険風ライダーさんにとって、ある事象を証明するとは、「それに反する事実を見つけられない」ということと同義なのではないでしょうか?

もしもそうなら、それは私の中の「証明」とは、定義が異なります。私にとって「証明」とは、既に観測された事実だけではなく、「将来にわたっても、それに反する事実が現れない」ことの保証を意味するからです。

分かりやすい(と思われる)例を挙げてみます。私たちは、「ピタゴラスの定理」を教わったはずです。

「直角三角形の直角を挾む二辺の二乗和は、斜辺の二乗と等しい」

このことを「証明せよ」と言われたとき、冒険風ライダーさんは、いろいろな直角三角形を持ってきて、それらのすべてに上記の事実が成立することを示し、もって「証明」とされるのではありませんか?

私にとっては、これは「証明」ではありません。この定理の「証明」は、2000年以上前にピタゴラスが行ったように、三角形の三辺のそれぞれを一辺とする正方形を描き、それぞれの正方形を三角形に分割して面積を計算し、直角を挾む二辺が作る正方形の面積の和が、斜辺が作る正方形の面積と等しいことをもって行われるものです。

ピタゴラスの定理の「証明」を、ライダーさんのように行えば、学校のテストでは零点です。「科学」の世界でも同様です。

しかし、我々が生活する世界は、そこまできれいなものではありません。むしろ冒険風ライダーさんがやっておられるような形で動いているものが多くあります。

であれば、今回の論争は、いくら続けても結論にはいたらないのではないか、という気がしますが、どうでしょうか?あるいは、続けるにせよ、まず、

「証明」するとは、何を意味するのか

という定義に関して合意をする必要があるように思います。

親記事No.3468スレッドの返信投稿
board4 - No.3585

Re3576/3579/3584:立証責任と移動要塞

投稿者:冒険風ライダー
2003年02月06日(木) 12時45分

>Kenさん
<冒険風ライダーさんは、作中に書かれていない設定を持ち出すこと自体に異を唱えておられるのではなく、作者がそれを行った結果、作品世界の設定が崩れることを問題にされているのだと考えてよろしいでしょうか?最初に書かれていない設定の追加でも、書かれている内容と矛盾しなければよいのだと?>

 何も考えず、ただ単に「法の抜け穴を探す」がごとく「未記載部分の穴埋め」をしさえすれば良いというものではありません。他にも「作者が描く作品の世界観や、作品世界における常識などについても考え、それらの存在とも矛盾することなく完璧に合致する」とか「その裏設定を使って何らかのシミュレートを行っても、ストーリーやキャラクターの言動や行動、それに作品テーマなどの全てに全く矛盾が発生しない」とかいった要素も必要不可欠です。作品擁護論というものは、すくなくともKenさんが「弁護士の理論」などで軽く考えておられるほど簡単なものでは決してないことだけは確かですよ。
 本来ならば、作品擁護論もまた、作品批判論と同じようにひたすら記述を使って「この記述からこのような結論が導き出せる」といった形で論を構築していくことが望ましいくらいなのです。そうしなければ、たとえその論の内容自体がどれほどまでに完璧なものであったとしても、作品世界にどれくらい合致するのかを「客観的に」示すことができませんから、せっかくの論も結局は「個人の解釈」レベルで終わってしまうだけです。これでは個人的な考えとして満足するだけならともかく、他人を納得させるだけの「客観的な」説得力を持たせることは不可能でしょう。
 また、「書かれていないこと」を推察するに際しても、「作品世界の世界観や常識」を常に意識し、それと合致した推論を作り上げ、さらに論自体の作品世界における整合性なども問われなければなりません。その辺りのことを考えずに「書かれていないことについてはどのような設定を追加してもかまわないだろう」ではあまりにも乱暴なやり方ですし、それこそ「あらゆる反論を封殺するための愚劣な作品擁護論」に堕する可能性をすら秘めていると言わざるをえないでしょう。作品擁護論では、裏設定自体の説得力よりも、それがいかに作品内容と合致し、何の違和感もなく作品の中に綺麗にはめ込められるかが一番重要なことなのです。
 その意味では、Kenさんが移動要塞論関連で展開なされている「書かれていないことからの推測」のみに基づいた作品擁護手法はあまり感心できたものではないですね。あれは下手をするとただの「あげ足取り」の類にしかなりませんし、「文明衰退論」を除いては作品設定や作中記述の裏付けが全く存在しない「Kenさん個人のでっち上げ推論」でしかないのですから。その「Kenさん個人のでっち上げ推論」を「客観的な説得力を持つ作品擁護論」へとランクアップさせるためには、やはり「作品設定や作中記述に基づいた自説の正当性の立証」が必要不可欠となるのではないでしょうか。
 私自身、批判・擁護を問わず、作品論を展開する際には、できるだけ記述を引用して、「この記述からはこういう話が導き出せるのではないか」といった論法で記述や設定の補完をしていくよう、常に心がけているのですよ。議論を不毛な上げ足取り合戦などにもつれ込ませることなく、建設的な議論と作品擁護を行いたいのであれば、Kenさんもまた、私と同じやり方を通して自説の正当性を論じる必要性が絶対にあるのではないと思うのですが。


<作者と批判者の強弱については、ご指摘のような有利さが、作者側にあるというのは分かります。しかし、批判者の方にも作者にない有利な点があるのではないでしょうか?私などには、むしろこちらの方が、フェアな対局を不可能にするほど重大なもののように思われます。
一つは、批判は常に作品よりも後から出てくることです。批判者は、必要に応じて作品を俯瞰することも、細部を綿密に検証することも自由にでき、作者の論点を完全に理解した上で、いくらでも時間をかけて「弱点」を探せるでしょう。しかし、作者の側は、予めすべての批判を予測して防御策を講ずるのは不可能です。
もう一つ、作者と批判者は、例外を除いて、常に一対多の関係にあることも、指摘したいと思います。この点では、一人で多数を相手にするのは非常に疲れることだということを、(私の記憶が正しければ)冒険風ライダーさんご自身が、どこかで発言されていたように思いますが、私の記憶違いでしょうか?
以上の理由で、作者が批判者よりも常に「強者」であるとは限らない、というのが私の考えなのですが。>


 その論法でいくならば、この一連の議論で「予めすべての批判を予測して防御策を講ずるのは不可能」であるはずの私に対して「いくらでも時間をかけて「弱点」を探」した批判を「後から出」してきた挙句、「常に一対多の関係」を強いてきた人達のひとりであるKenさんは、当然のことながら私よりもはるかに強い「強者」ということになってしまいますね。その力関係ではなおのこと、圧倒的格差を是正するためにも、Kenさんには当然私よりも多くの立証責任が課されなければならないということになるでしょう。
 ……って自分で書いていて気がつきませんでしたか? Kenさんが述べている「批判者の強み」が他でもない自分自身に当てはまることに。第一、この議題は「作品批判論と作品擁護論の力関係」がテーマなのであって、「新規設定をいつでも勝手にでっち上げられる」という点において作者も作品擁護派も全く同じ扱いなのですけど。なぜ同じような境遇にある私と作者とで力関係に変化が生じなければならないのですか?
 そもそも、この手の「作者側の不利」などというものは、「作者が作品を発表した責任上、必然的に発生する、多かれ少なかれ背負わなければならないリスク」というものなのであって、別に特別な「不利」と呼べるようなシロモノなどではないでしょう。確かに私自身も同じような目に遭っていますので「疲れるものだ」とは思いますけど、だからといってそれは「弱者の証」などと言われるようなものでは決してありません。
 田中芳樹自身、銀英伝をはじめとする田中作品を世に発刊して以来、自分の元に多くのファンレターや手紙が届いたことでしょう。その中には応援や励ましの手紙もあれば、寸鉄釘を刺す批判もあったでしょうし、もっとひどいものになると、単なる誹謗中傷や「銀英伝を題材にしたヤオイ系同人誌を作りましたので読んでみて下さ~い」とかいった「確信犯的な嫌がらせ」の類などもあったかもしれません。しかし、それ「自体」は田中芳樹が自分の作品を世に発刊した責任として、全て受け止めなければならないリスクというものでしょう。その反響に賛成したり、反論したり、無視したりといったリアクションに関しては、田中芳樹自身が自らの責任において決めれば良いでしょうが、そのリスク「自体」を背負うのがイヤなのであれば、そもそも作品そのものを発表しなければ良いのであって、これが作品論における作者側の強大さを否定することにはなりえないのです。
 以前の「発言権論争」ではありませんが、発表された作品に対して、読者が(その内容はともかく)作品批判を述べること「自体」は自由なのですから、その後どのような対応を取るにせよ、作者は自らに批判が集中するリスク「自体」は引き受けなければならないし、それは当然のことでしかないと思うのですが、どうでしょうか。


<それは、作品批判自体も公の場で発表された一つの「作品」ではないか、という点です。今回の場合、いわばライダーさんは「ラインハルトたちは、移動要塞を継続的に使用できることを知りながら、迂闊にも忘れたのである」という仮説をシンポジウムの場で発表されたのだと思います。それ自体は大変にすばらしいことで、私などは「やれ」と言われてもできません。
しかし、シンポジウムで仮説を発表すれば、批判が寄せられます。批判者たちは、発表者(この場合は、冒険風ライダーさん)が提示した仮説に「穴」を見つけようとし、発表者は自分の仮説の正しさを証明する責任を、原則として一人で負わねばなりません。田中氏の作品に対するとき、ライダーさんは「批判者」です。しかし、田中氏の作品を題材にした批判であっても、ひとたび自分の意見を発表すれば、ライダーさんの立場は「批判者」から「作者」に変わり、「銀英伝批判論」という自己の「作品」の正しさを証明する責任を、原則として一人で背負うことになると思うのです。説明足らずであったことは、何重にもお詫びいたしますが、私が、ライダーさんに証明責任がある、と書いたのには、このような考えもあったのです。>


 ちょっと待って下さい、これは私をバカにしているのですか? あなたにいちいち言われるまでもなく、私はとっくの昔から自説の立証責任をひとりで背負ってきましたよ。特に以前に行われた移動要塞関連の議論などでは、私は終盤近くまで文字通りずっと「一人」で多くの相手と議論を重ねてきたのですけど。あなたが面倒臭がって最後まで読もうともしなかったログを全て閲覧してみれば、こんなことはすぐにでも理解できることであるはずでしょうに。
 だいたい、あなたは作品批判論にとって作品擁護論がどれほどまでに恐ろしいものなのか、口先だけでなくて本当に分かっているのですか? 私が自説をいくら完璧に整え、万人を納得させる説得力を付加させたところで、それは所詮「田中作品から派生した二次作品」すなわち「田中作品という『釈迦の掌の上で踊る孫悟空』」に過ぎません。忠実に作品設定に沿った作品批判論を展開しなければならない中で、肝心の作品内容が勝手に改竄されるという事態は、論自体の知識ミスや記述ミスなどの類と違って、自己責任の及ぶところでは全くないのですよ。作品批判論というのは、二次作品の中でも特に一次作品に強く「寄生」しているところのあるジャンルなわけですから、田中作品のような「それ自体が独立している一次作品」とは、力関係において単純な比較ができるはずもないでしょう。
 というわけで、作品批判論には「刑事裁判」における行政権のごとき圧倒的な力格差が存在しない以上、立証責任をすくなくとも5~7割以上、裏設定の「客観的な」正当性と妥当性に関する立証責任に至っては100%全て、作品擁護側こそが背負うべきである、という私の意見には賛同して頂けますね? それが、両者が「単なるあげ足取りの記述抜け穴合戦」などに陥ることなく建設的な議論を行うことができる、唯一の道なのですから。


 で、本編の移動要塞論に入るわけですが、こちらも言うべきことはほとんど述べ尽くしてしまいましたし、「文明衰退論」を除くと、Kenさんの主張のほとんどは「書かれていない」「否定も肯定もされていない」ことを良いことに「現代世界の物理法則」に依存したものばかりでしかありませんので、正直、私としてはあまり好意的になれないんですよね。まさに「書かれていないことについてはどのような設定を追加してもかまわないだろう」という論法で反論を封殺する、作品擁護論の持つ最悪の側面を具現化していますし。
 「書かれていないこと」「否定も肯定もされていない」にひたすら依存するのではなく、少しは「書かれていること」をベースとした論を構築してみてはどうでしょうか? そうでないと、あなたの主張は私の論に対する「あげ足取り」としてしか見られないのではないかと思うのですが。


1-(1):イオン・ファゼカスの質量
<アーレ・ハイネセンたちの立場に立って考えてみましょう。エンジンの出力が無限でない以上、船体強度が許容する限りイオン・ファゼカスを軽くしようとするのではないでしょうか?イオン・ファゼカスが行うべき航行にはいろいろな種類があってひととおりではありません。私に考え付くだけでも、(a)アルタイル7の重力圏離脱、(b)宇宙空間での通常航行の加・減速、(c)(できた、という明確な記述はないが)ワープ航行、(d)帝国軍を発見したときの回避行動、(e)同じく、危険な自然現象(異常な重力場とか)を発見したときの回避行動または「慎重な前進」、等が考えられます。これら予想しうること、あるいは予想できないことにできるだけ対処するには、イオン・ファゼカスは身軽でなければなりません。それには、設備や人員の搭載に必要な分以上に「くりぬく」のが一番です。>

 ハイネセン達がそう考えたという記述も保証もどこにもありませんから、これが正しいとは限りませんよ。そもそも原作の記述には「動力部や居住部からの熱を遮断させることさえできれば、かなりの長期間にわたって飛行が可能である」とありますから、熱対策のためにドライアイスの掘削をあえて必要最低限のみに絞ったことも考えられますし、そもそも制限時間がたったの3ヶ月しかなく、しかも帝国の監視下に置かれていたあの奴隷階級の面々に、そんな余計なことをしている時間的余裕はないと思うのですが。
 そんなことをするくらいならば、そもそも最初から長さ122㎞、幅40㎞、高さ30㎞などという超巨大なドライアイスの塊をそのまま使うのではなく、いっそ10分の1ぐらいに小さく「切り分けた」上で掘削作業に入った方がはるかに効率が良く、Kenさんの主張にも合致するのでは?


1-(2):イオン・ファゼカスの航行距離
<いうまでもなく、ハイネセンたちは、バーラト星系までイオン・ファゼカスに乗っていったのではありません。アルタイル星系を出て、「無名の一惑星」に降り立ったのです。そこまでの距離が千光年なのか、十光年なのか、それとも半光年なのか、具体的な記述がないので、例えば、1~2光年という短距離だった、と解釈しても矛盾は生じないはずです。>
1-(3):文明の衰退
<そして、なんといっても大きいのはこれです。なにしろ人口が3000億から250億まで減るくらいですから、科学技術もどんどん衰退してゆく、まるで「ナウシカ」のような世界であった、という解釈が可能です。この点は、むしろ、そのように考えない方が、銀英伝の作品世界との乖離が大きいように、私には思われます。>

 それでも「燃料が全く調達できない状態」かつ「無補給」という最悪の条件を抱えながら、あのような超巨大物体がとにもかくにも航行できたという「作中事実」は極めて重大ですよ。これは銀英伝世界において「現代世界の物理法則」が必ずしも適用できないことを意味するのですから。
 文明衰退論に関しても、たとえば銀英伝2巻に出てきた「惑星成層圏という『超近距離』からしか惑星の様子を観測できない観測システム」などに関しては私も当てはまると思うのですが、「艦船の燃料無補給」に関しては昔と変わらず成立しているのですから、必ずしも当てはまるようには思えないのですけどね~。


>移動要塞の燃費問題
 で、私とKenさんの議論における一番の争点となっているこの問題についてですけど、これはKenさんの「現代世界の物理法則」を前提とした論の方が明らかにおかしいのですよ。「科学的に」ではなく「作品論的に」。
 そもそも、私が「移動要塞は無限の自給自足システムによって最強の戦略が展開できる」という論を作ったのに対して、Kenさんが「現代世界の物理法則の観点から」不可能であるという反論をし、それに対して私は「銀英伝世界における艦船には燃費の問題が存在しない」という再反論を行ったわけです。この時点で、私はKenさんの反論に対する第一の立証責任をすでに果たしています。
 それに対してKenさんが本来やらなければならなかった反論は、艦船が燃料無補給だからといって要塞が燃料無補給とはなりえないという「作中事実」を、作品設定や作中記述を使って立証するか、あるいはKenさんが依存している「現代世界の物理法則に基づいた要塞の燃費問題」が「銀英伝世界に『100%』当てはまること」を、これまた作品設定や作中記述を使って証明することであったはずです。そのような反論であれば、Kenさんが「勝手に作品の外から」持ち出してきた要塞の燃費問題の正当性と妥当性を立証する責任は果たされ、Kenさんの論はすくなくとも一定の説得力をもって私の前に立ちはだかったことでしょう。
 しかしKenさんはそのどちらも全く立証することなく、「できるかもしれないし、できないかもしれない」などという極めて曖昧な仮定に基づいて、相も変わらず「現代世界の物理法則に基づいた要塞の燃費問題」を掲げ続けているのです。「勝手に作品の外から」設定を作り出しているにもかかわらず、それが「100%銀英伝世界に当てはまる」という証明を行っていないわけです。
 これはないでしょう。作品の外から「現代世界の物理法則に基づいた要塞の燃費問題」を持ち出してきたのであれば、その正当性や妥当性の立証責任は100%「持ち出してきた側」にあるのです。そしてその証明が「できるかもしれないし、できないかもしれない」で良いはずがないではありませんか。仮にも議論をするのであれば「できる」か「できない」かの二者択一しかありえませんよ。「できるかもしれないし、できないかもしれない」などというのは、「できる」「できない」の議論を見ているROMが、個人個人でそれぞれ勝手に判断すれば良いことです。
 こんな論法が通用するのであれば、私もKenさんに対して「あなたの論は成立するかもしれませんし、しないかもしれませんね。でも100%ではない以上、私は『成立しない』という方を選ばせていただきます」とでも述べて議論をお終いにしますよ。これは議論相手に対しても大変失礼な話ですし、そのような論で相手の論を否定しようとする自分自身をも貶めることになりかねないではありませんか。
 もしあくまでも「現代世界の物理法則に基づいた要塞の燃費問題」が正しいと主張するのであれば、それが「100%」銀英伝の世界で成立しえることを、作品設定や作中記述に基づいた「作中事実」を使って、そちらが先に立証してからにして下さい。「現代世界の物理法則」だけでは、それが100%銀英伝世界に当てはまるという保証がないため、何ら根拠として機能しません。
 もしこれが全く立証できないにもかかわらず、あくまで私の主張に対してひたすら細かい根拠を求めるような投稿を続けた場合、私はKenさんが議論を混乱させるための「あげ足取り投稿」を意図的かつ確信犯的に行っているものとみなし、議論を一方的に打ち切らせていただきます。

 それと、移動要塞におけるラインハルトの無反応に関しては、

「アレほどまでに『艦船の燃料問題』が話題にならない銀英伝世界で『移動要塞の燃費問題』が突然浮上するのであれば、そのこと【自体】が一種の『非常識』であり、絶対に作品中で問題として取り上げられなければならない」

 ↑これが答えとなります。
 「宇宙艦船における燃料無補給」ということが常識となっている人間にとって、「移動要塞には燃費の問題が存在し、慢性的に補給を受け続けなければならない」という問題は一種の「非常識」であり、それは「アレほどまでに補給を重んじる」ラインハルトなどにとっては「エンジン同期の問題」と同等程度、あるいはそれ以上に決して無視してはならない問題であるはずです。宇宙艦船にある「あの常識」がまかり通っているのであれば、この問題は銀英伝世界にとって、今まで全く存在しなかったはずの「特異な」問題となりえるのですから当然のことです。それが作中でも全く言及されていないということは、結局のところ「宇宙艦船における燃料無補給」が移動要塞にもまた適用できることを作中人物達が知っていたという「事実」の、極めて有力な証拠のひとつになりえるのです。
 これは銀英伝世界の作品設定や補給のテーマ、それに銀英伝世界における一般常識などにも関わってくる問題ですし、「移動要塞の燃費問題説」を完璧に立証したいのであれば、やはり「作品設定や作中記述を使って」証明する必要があるでしょう。「移動要塞の燃費問題説」は、その一方に「宇宙艦船における燃料無補給」が「常識」として存在し、移動要塞運用に関してもその「常識」を覆す異変を示す描写が特に何も存在しない以上、その常識が引き続き移動要塞にも適用されると見るのが自然なのです。Kenさんの主張と「書かれていない」という証拠だけでは、作中キャラクターの言動や常識、それに補給重視思考の作品テーマと整合性が取れないのではありませんか?
 某北朝鮮のミサイル射程距離云々の話に至っては、例によって例のごとく「現代世界の物理法則」を前提としたものでしかなく、それ自体が銀英伝世界に完全に適応できるか否かという判定自体が極めて曖昧なものでしかない以上、証拠能力は全く皆無なシロモノと言わざるをえません。
 仮にも「宇宙艦船における燃料無補給」がまかり通っている世界で「移動要塞の燃費問題」が存在すること「自体」の異常性を、もう少し考えてほしいものなのですが。



P.S.
 八木さんとパンツァーさんへのレスは、また後日とさせて頂きます。

親記事No.3468スレッドの返信投稿
board4 - No.3586

Re:再度整理しました

投稿者:パンツァー
2003年02月06日(木) 12時52分

> 1.イオン・ファゼカスの前例がある

イオン・ファゼカスの前例は決定的だと思われるので、この点に関して述べてみます。

> 1-(1):イオン・ファゼカスの質量
> この場合、ドライアイス本体の質量は、当初の塊の2.3%--約5兆トン半になるかと思います。外壁の厚さが50mなら(これでも過大であるように私には思えますが)、さらに1兆トンほど軽くなります。

これは、建築に関する構造強度の点から言ってありえません(我々の知っている物理学を適用すれば)。
40mのウルトラマンを支える足を、人間の足と同じ組成では構成できないのと同じことです。もっと分かりやすい例では、豆腐を1mも積むことができるかどうか、考えてみてもらえればよいでしょう。

1-(2):イオン・ファゼカスの航行距離
> いうまでもなく、ハイネセンたちは、バーラト星系までイオン・ファゼカスに乗っていったのではありません。アルタイル星系を出て、「無名の一惑星」に降り立ったのです。
手元に銀英伝の小説がないので、これに関しては、私はなんとも申し上げられません。
ただ、これは「無補給」の否定証明になっているのでしょうか。Kenさんの主張される論理がよく分かりません。

> 1-(3):文明の衰退
> そして、なんといっても大きいのはこれです。なにしろ人口が3000億から250億まで減るくらいですから、科学技術もどんどん衰退してゆく、まるで「ナウシカ」のような世界であった、という解釈が可能です。

対象とすべきは、イオン・ファゼカス号による脱出の時期から、ヤン達のいる同盟の時代でしょう。この間に、技術的衰退があったとまじめに主張する人が多いのに驚かされます(こんなことまで根拠にしないと論が維持できないためでしょうか)。
もし、この間に、技術的衰退があったとすれば、数多くの星からなる「同盟」の成立そのものが危うくなりませんか。
大体、帝国との間に長期にわたる戦争状態もあるわけで、通例、歴史の教えるところでは、戦時においてこそ、技術は革新するものです。
これの反例がありましたら、どうか教えていただきたいものです。

少なくとも1(1)と1(3)に関しては、無茶な反論ですよ。

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