- 親記事No.3325スレッドの返信投稿
- board4 - No.3364
Re3361:「主観的観察」に基づいた横レス
- 投稿者:冒険風ライダー
- 2002年12月17日(火) 03時29分
横からすいませんが、ロード・レオンさんに少し質問があります。
<たとえば、どんな客観性に乏しい主観だけに基づく意見であっても確かに「他者の人権を著しく侵害しない限り、言論そのものは自由」でしょう。ただそれは、皆さんが批判している田中氏の恣意的で根拠のはっきりしない(とされる)「社会評論」と似たようなものです。他人を批判するくらいであれば、その批判する当人にはより一層の自律性が求められるのではないでしょうか?>
と仰られるのであれば、あなたご自身がこのスレッドで一番最初に投稿したNo.3335で主張されていた、
<ちなみに創竜伝の政治・社会批評の存在自体が小説としての面白さを損なっている、というご意見には一理あると思いますが、それはあくまでも個々人が判断することであり、客観的に正否・善悪を決めることは不可能だと思います(もちろん個人の意見として主張する分にはかまわないのですが)。そして、作者自身が面白さを犠牲にする危険を犯してでもそれが必要だと思っているのであれば、あくまでも表現方法は作者の裁量の内にあり(明らかに違法な場合を除く)、第三者が『小説中に「個人的な趣味」にすぎない評論を挿入する悪癖を止めるべき』というのは、さすがに言い過ぎでしょうね(「やめた方がいい」ならまだしも、ですが)。>
↑についてはどのように考えておられるのでしょうか?
「他人を批判するくらいであれば、その批判する当人にはより一層の自律性が求められる」というのであれば、これと同じ主張をまず創竜伝と田中芳樹に対してこそ適用するべきなのではないのでしょうか? アレに書かれているノンフィクションの社会評論に「より一層の自律性」など存在しないことや、主張内容そのものが間違いだらけであることは、これまでに何度もタナウツで議論されてきたことであり、あなたもそれに関しては全面的な賛同とまではいかなくとも否定はしていませんでしたよね?
そうであるのならば、田中芳樹が自らのフィクション小説中でノンフィクションの評論を展開することを、
「面白さを犠牲にする危険を犯してでもそれが必要だと思っているのであれば、あくまでも表現方法は作者の裁量の内にあり(明らかに違法な場合を除く)」
として「主観でのみ意見を述べること」を「免罪」しておきながら、一方で読者側が「作家や他の読者に不快感を抱かせる危険を犯してでも批判が必要だ」と「主観的に」考えた上で展開している「自分の裁量の内にある表現方法(明らかに違法な場合を除く)」については、
「第三者が『小説中に「個人的な趣味」にすぎない評論を挿入する悪癖を止めるべき』というのは、さすがに言い過ぎでしょうね(「やめた方がいい」ならまだしも、ですが)。」
と述べ、さらにはNo.3349のように、
<果たして「こんな商品を作るな」という言葉は「批評」の範疇に入るんでしょうか?(それこそ完全否定ですよね)。IKさんのご意見を読む限り、意見は主観のみで十分であり、客観性については全く考慮する必要はない、というように読めます。しかし、客観性を全く顧みることのない意見が「批評」の名に値するのでしょうか? それこそ単なる自己満足の意見に過ぎないのではありませんか?>
↑といったような否定的な意見を「読者側に対してのみ」開陳するのは矛盾しているのではないでしょうか? あなたの言うように、作家である田中芳樹側に「面白さを犠牲にする危険を犯してでもそれが必要だと思っているのであれば、あくまでも表現方法は作者の裁量の内にあり(明らかに違法な場合を除く)」という「主観でのみ発言する」言論の自由があるのであれば、読者側にもまた「作家や他の読者に不快感を抱かせる危険を犯してでも批判が必要だ思っているのであれば、あくまでも表現方法は自分の裁量の内にあり(明らかに違法な場合を除く)」という「主観でのみ発言する」言論の自由「自体」は当然認められて然るべきなのではないのですか? 田中芳樹にさえ認められる「言論の自由」が、読者側には全く認められないなどという「作家側にのみ都合の良いエゴイズム」など容認できるはずがないでしょう。
ロード・レオンさんの一連の投稿を読んでいくと、「読者はいついかなる時でも客観的な意見を主張しなければならないが、作家側は自らの主観で必要と判断しさえすれば、法に触れない限りどんな支離滅裂なストーリーや社会評論を展開してもかまわない」という考え方を持っているようにしか思えないのです。実際、私もそのように解釈しましたし、S.Kさんもまた、あなたの主張にこういう矛盾が存在すると考えたからこそ、No.3357で、
<いい加減クドくて申し訳ないんですが、それでロードレオンさんは娯楽小説である事をアリバイに不当評価とレッテル貼りを行う作家の主張を全面的に認めて、そうした執筆姿勢や主張を好まない・見たくないとする批判的主張を「狭量な言論弾圧」扱いする御自身の主張を「客観的」にどう見ておられるのですか。>
↑と質問されたのだと思います。それに対してロード・レオンさんはNo.3359で、
<僕は「不当評価とレッテル貼りを行う作家の主張を全面的に認め」るようなことはしてませんけど。執筆姿勢や主張内容についての妥当性のある批判については尊重したいと思っています。そして、僕がIKさんさんとの対話の中で繰り返し言っていることは、可能な限り客観性を尊重した方が良くはありませんか?ということです。批判的主張に客観的な根拠があるのであれば、尊重しますよ。>
↑と返答されておられますが、前述のように読者側に対してのみ「常に客観的な意見を表明し続けなければならない」という態度でいる限り、ロード・レオンさんが「主観的に」どのように考えていようと、周囲からは「不当評価とレッテル貼りを行う作家の主張を全面的に認めているも同然だ」と解釈されても文句は言えないでしょう。そしてIKさんもまた、その辺りの矛盾を特に強調してこられたのではないでしょうか。
そしてその上でIKさんは、あなたの意見に対して「読者側もまた『主観的に作家に対して意見を述べること【自体】』は『言論の自由の範囲内』にある」(これがIKさんのいう「原則の問題」でしょう)とした上で、作家側・読者側共に「自分の発言には責任を取らなければならないし、意見の開陳によって自分が他者から反論されたり、場合によっては断罪されたりすることもまた当然である」と述べていたわけです。従って、
<一読者であるから許されるとおっしゃるかも知れませんが、もしそうであるなら、それはフィクションを隠れ蓑にしている(ということで批判されている)田中氏とどれだけの違いがあるんでしょう? 他人を批判する割には、自分もその批判の対象と似たようなことをしている。そういう点で、僕はIKさんのお考えには矛盾があると思うし、ダブルスタンダードだとも感じるのです。>
↑というIKさんに対する批判も全く見当ハズレなものでしょう。最初に「面白さを犠牲にする危険を犯してでもそれが必要だと(作家が主観的に)思っているのであれば、あくまでも表現方法は作者の裁量の内にあり(明らかに違法な場合を除く)」と作家側のみを一方的に「免罪」するダブルスタンダード的な発言を行ったのはロード・レオンさんの方であって、IKさんはそれに対して今まで反論していたわけなのですから。
ロード・レオンさんのIKさんに対する反論は、No.3335の投稿におけるテーマから離れて、いつのまにやら「当サイトにおける批判の客観性云々」へとスライドしてしまっているようなのですが、今までの投稿内容から推察するに、それに関してはIKさんも特に異論はないように思われますので、これ以上議論を続けるのであれば、ここはひとつ原点に立ち返り、No.3335から始まる一連の主張の整合性を考慮し直した上で発言していくべきではないでしょうか。
- 親記事No.3325スレッドの返信投稿
- board4 - No.3365
客観的な意見ねぇ
- 投稿者:石井由助
- 2002年12月17日(火) 15時55分
どうも「違法でなければ何やっても良い」というちっちゃい、こぢんまりした議論をなされているようですが…
私としては、芸として面白ければ、どれだけ違法だろうと人権侵害だろうとOKだと思いますけれども(それこそ「横紙破りだったらよかったのに」と昔から言ってますし)所詮人権や法など、人間が秩序を維持するために定めた決まり事の一つに過ぎないのですからね。こんな物は真理でもなんでもないのですよね。
ならば、「芸」の為に必要と思えば、違法や人権侵害の重さを背負って、精一杯「芸」をすればよろしい。法や人権などと言うモノサシで人間のすべてを測れるわけがありませんから、たとえそのモノサシに反しても、それは別のモノサシで価値があります。
その「芸」も「覚悟」も「責任」もなく愚痴の域を出ない「批判」を垂れ流し、自分では「発禁」の可能性すらある「芸」のつもりを持っているプロ意識が、批判される本質だと思いますけれど。
(とうぜん、自分が批判している対象をを別のモノサシで評価する人がいる事実を認めるのにはやぶさかではないですよ。その論理を肯うかどうかは別ですが)
管理人として言えば、このサイトが「公正」を心がけているのは、それが強力な武器になることがわかっているからであって、それが正義や真理であるからではありません。ちなみに何度か言っていますが、本当に全否定したければこんなサイトを作ったりはしません。それだったら田中氏を刺しに行きますんで。
別にどんなことを書こうと言おうと勝手だけど、もしそれが間違っていると思ったりくだらんと思ったり、小説に邪魔だと思ったら批判するぜ、忠告するぜ、というのが私の方針ですね。
それに対する批判は当然あるでしょうから、それは甘んじて受け、その上でその妥当性を議論するべきだと思います。
-
- board4 - No.3366
こちらの管理人様は頭の良い方ですね
- 投稿者:七海
- 2002年12月18日(水) 11時33分
こちらの管理人様はすごく頭の良い方ですね!感心してしまいました。私が創竜伝を読んで疑問に思っていたことが管理人様の言説で氷解しました。これからも応援しています。
- 親記事No.3325スレッドの返信投稿
- board4 - No.3367
Re:覚悟の上、ですか・・・
- 投稿者:ロード・レオン
- 2002年12月18日(水) 12時25分
IKさん、僕も完全な客観が存在し得ないことは承知してますよ。
> 私も自分の意見は自分なりに客観であると思っていますが、貴殿はそれを主観と認識されている訳ですよね。
> 例えば貴殿が「書くな」ということについて幾つかの説明を加えて客観的でないと主張されていますが(事実、私もそれには同意しますが)、その主張の根底も理屈化された主観であるのかも知れないですよ。
「自分の意見は自分なりに客観であると思っています」「客観的でないと主張されていますが(事実、私もそれには同意しますが)」??? IKさんは、ご自分の意見を客観的だと思っているんですか? それとも客観的ではないと思っているんですか?
> 私の言っていることは、主観を断罪する客観というのは経験則に基づいた主観であるのだから、それを限界がある中で客観化するべきだと思うが、主観であることをもってしてその意見そのものを封殺するのは異論を封じることにつながるということです。
僕の言いたいのは、他人を批判する以上、批判しているのと同じようなことはしない方がイイのではありませんか?ということです。同様の行為について、自分の行為は容認するが、他人の行為は批判する。僕は、それをダブルスタンダードと言っています。
> 田中芳樹さんの著作の一部に私は痛烈に反発していますし、そういうのは止めてもらいたいと思っているのも事実です。しかし彼の執筆権そのものは擁護します。
> 「書くな」と言ったところで何の強制力もないですね。その限りにおいて私はこれは実質的に命令ではないし、ただの意見に過ぎないと考えています。ゆえにそう発言する権利そのものは擁護するのです。
「書くな」と言っていながら、「彼の執筆権そのものは擁護します」ですか? 「書くな」という言葉が、執筆権の否定を表明する表現であることが分からないのでしょうか? たとえ強制力がないとしても、IKさんは自分の意見として、紛れもなく田中氏の執筆権を否定しているのです。
> 妥当性のあるという判断も主観ではないですか、と言っているのですが、そうですね、これ以上続けても堂々巡りになるだけですからご異存がなければこれで終了としましょう。
主観であるとしても、僕は自分の意見については、その根拠を可能な限り説明しており、客観性について配慮しているつもりです(反論・質問があればえんりょなくどうぞ)。そして、IKさんが「書くな」という意見の妥当性をキチンと説明できれば、僕が反論する余地もないんですけどね。
> 少々、疲れましたし(笑)
書き込みの内容がいささか混乱しているところを見るとホントにお疲れのようですね。どうもお疲れ様でした。
- 親記事No.3325スレッドの返信投稿
- board4 - No.3368
Re:「主観的観察」に基づいた横レス
- 投稿者:ロード・レオン
- 2002年12月18日(水) 13時01分
冒険風ライダーさん、こんにちは。
> 「他人を批判するくらいであれば、その批判する当人にはより一層の自律性が求められる」というのであれば、これと同じ主張をまず創竜伝と田中芳樹に対してこそ適用するべきなのではないのでしょうか? アレに書かれているノンフィクションの社会評論に「より一層の自律性」など存在しないことや、主張内容そのものが間違いだらけであることは、これまでに何度もタナウツで議論されてきたことであり、あなたもそれに関しては全面的な賛同とまではいかなくとも否定はしていませんでしたよね?
僕の主張は、他人を批判するような意見を表明する場合には客観性を尊重すべきである、ということと、批判する側が批判される側と同じようなことをしているのはおかしい、ということです。
まず、創竜伝はあくまでもフィクションであり、問題の「評論」の部分は、必ずしも田中氏の意見そのものとは言い切れません。それに対してIKさんの発言は紛れもなく自分の意見の主張ですよね。それともフィクションだったのでしょうか?
また、もし田中氏が「フィクション小説中でノンフィクション(風)の評論(のように見えるもの)を展開してはいけない」というようなことを主張しているのであれば、僕も田中氏の表現方法自体を批判するにやぶさかではありません。しかし、そうでない限り、表現方法に限って言えば作者の自由とするしかないと思っています(間違った内容などについて批判するのは当然のことですけど)。
> ロード・レオンさんの一連の投稿を読んでいくと、「読者はいついかなる時でも客観的な意見を主張しなければならないが、作家側は自らの主観で必要と判断しさえすれば、法に触れない限りどんな支離滅裂なストーリーや社会評論を展開してもかまわない」という考え方を持っているようにしか思えないのです。
意見の主張(特に他人を批判するようなもの)であるなら(どんな立場の人であっても)客観性を尊重すべしだし、フィクションであるなら表現方法に関しての制約は存在しない、と考えています。ただし内容についてであれば、出来るだけ破綻のないものを目指すのは当然のことです。
> 前述のように読者側に対してのみ「常に客観的な意見を表明し続けなければならない」という態度でいる限り、ロード・レオンさんが「主観的に」どのように考えていようと、周囲からは「不当評価とレッテル貼りを行う作家の主張を全面的に認めているも同然だ」と解釈されても文句は言えないでしょう。そしてIKさんもまた、その辺りの矛盾を特に強調してこられたのではないでしょうか。
> 作家側のみを一方的に「免罪」するダブルスタンダード的な発言を行ったのはロード・レオンさんの方であって、IKさんはそれに対して今まで反論していたわけなのですから。
冒険風ライダーさんは(そして、もしかしたらIKさんも?)、フィクションと意見の主張とを混同しているのではありませんか?
- 親記事No.3325スレッドの返信投稿
- board4 - No.3369
Re:覚悟の上、ですか・・・
- 投稿者:Ken
- 2002年12月18日(水) 17時01分
ロード・レオン様、
いずれIKさんご自身から回答があるかもしれませんが、「疲れた」といっておられますので、せめて元気を回復されるまでの間だけでも、私見をはさんでみたいと思います。
はじめに、私がこの掲示板を知ってから半年ほどになりますが、IKさんが、田中芳樹氏に向けて「執筆をやめよ」といったり、「私は客観的な視点を持つことには関心がないね」などと言われたことは、一度もないかと思います。また、IKさんのこれまでの発言内容から推測する限り、この後にもそのような発言をされるとは、すくなくとも私には想像できません。(もちろんIKさんの発言に責任を持つのは、IKさんだけですから、何の保証をすることも、私にはできませんが。)
ただ、IKさんは「あることをしないこと」と「それをする権利を放棄すること」の二つを、厳密に区別しておられるだけではないでしょうか?
分かりやすい(と思われる)例を、挙げてみます。
私たちは、法が支配する社会の市民として、他者を訴える権利を保障されています。そして、例えばある訴訟は、もしも勝訴したら、相手を破産に追い込むほどの賠償金をとることになるものかもしれません。
さらにいえば、そのような訴訟の係争相手は、ひょっとして自分の親兄弟や配偶者かもしれないのです。
もちろん個別の事情はあるでしょうが、一般論としては、家族の絆を信頼して、身内で問題を解決しようとせず、親や配偶者を訴え、破産に追い込むようなことをする人物がもしもいたら、私はその人を尊敬はできないでしょう。そういう人がもしもいるなら、いなくなってほしいと、私は思います。
しかし、それでは、家族を相手の訴訟を非合法化すればよい、という意見を支持できるか、といえば、できません。なぜなら、どのような親子関係・夫婦関係を構築するかは、当事者の問題であって、他人が干渉するものではないからです。
同様に、田中氏に向かって「執筆をするな」という人がいるとしても、(暴力的な形をとらない限りは)それは、その人と田中氏の問題で、第三者が、「そのような発言をするな」と口を挟む性質のものではありません。言い換えれば、田中氏に向けて「書くな」というのは、親兄弟を訴えるのと同様に、「やりたくはないし、やるつもりもないが、それを決める権利は自分だけのもので、誰にも侵害させない」、ということではないでしょうか。
繰り返しますが、IKさんは、田中芳樹氏に「執筆をやめよ」と言っているわけではありません。「そのような発言をする、しないを決める権利は、自分だけにある」と、言っておられるのです。
少し話が変わりますが、銀英伝が執筆されていた頃(20年近く前)は、まだ冷戦の只中でした。
その頃、アメリカのTV局が企画して、米ソ市民の直接対話という番組があったのを、今でも記憶しています。その中で、特に私の興味を惹いたのは、アメリカ人が、
「あなた方には、自国の指導者を批判する自由がありますか」
と尋ねたのに対して、ソ連側が、
「我々は、我々の指導者を支持しているので、批判の自由があるかどうかには、関心がない」
と、答えたことでした。これは、「法」が支配する社会と、「人」が支配する社会の違いを、実に端的に表現しており、おそらくは、双方とも率直な見解を述べたのでしょう。ソ連の人にとっては、指導者が良い「人」かどうかが最大の問題でした。アメリカ人にとっては、それも確かに大切ですが、それよりもっと大切なのは、自分たちが指導者を選ぶという「法」が機能しているかどうかだったのです。
再び、田中氏への批評に話を戻しますと、「書くな」と言うか言わないかを論ずるのは、政治指導者が良いか悪いかを論ずるのと、同質の問題であると思います。これに対して、「書くなという権利」があるかないかを論ずるのは、指導者を選ぶ権利が民衆にあるかないかを論じるのと同じです。
こう考えれば、ロード・レオンさんとIKさんの間に、決定的な意見の相違があるわけでもないのでは?
- 親記事No.3325スレッドの返信投稿
- board4 - No.3370
お騒がせしております(^^)
- 投稿者:IK
- 2002年12月19日(木) 00時02分
疲れたなどと泣き言を言っている間に皆さんがそれぞれのご意見を述べられ、また、ロード・レオンさんが再びレスをして下さったので、老骨に鞭打って書き込みます(中年ですけど)。
まず冒険者風ライダーさん、Kenさん錯綜しがちな私の文章の論点をまとめていただき有難うございました。私自身、その通り! とひざを叩きました(駄目な奴ですね)。
管理人さん、ほぼ私も貴殿の見解に同意します。作家はベストの作品を仕上げるのが第一義であると考えます。物書きが善人になろうなど厚かましいのだ(と思います)。
さて、ロード・レオンさん。
私の見解はほぼすべて申しました。冒険者風ライダーさんと Ken さんがまとめて下さった通りでもあります。貴殿と問題にしているところがどうも異なるようですね。私としてはあれ以上の返答は押しても引いても出てきそうにありません。その上でこれ以上は徒労なような気もしますが、どうも貴殿は意識的に誤読しているようなので、この上は揚げ足取りに終始するようにも思われます。もちろん、いくら短気な私とは言え、まだ多少は忍耐力が残っておりますから貴殿のしばしば礼を失した文章にもお付き合いできると思いますが、基本的には同じことの繰り返しであると思っていることは表明しておきます。
>> 私も自分の意見は自分なりに客観であると思っていますが、貴殿はそれを主観と認識されている訳ですよね。
>> 例えば貴殿が「書くな」ということについて幾つかの説明を加えて客観的でないと主張されていますが(事実、私もそれには同意しますが)、その主張の根底も理屈化された主観であるのかも知れないですよ。
>「自分の意見は自分なりに客観であると思っています」「客観的でないと主張されていますが(事実、私もそれには同意しますが)」??? IKさんは、ご自分の意見を客観的だと思っているんですか? それとも客観的ではないと思っているんですか?
自分では客観的であると思っている、と言明しております。失礼ですが誤読のしようがない部分だと思いますが。ただ、私がそう思うことが直ちに60億人類にとって普遍的真理とは考えません。そこがおそらく貴殿と私の違うところです。私の意見はもちろん私にとって「意味がある」ことですが、誰にとってもそうとは限らないことは事実として知っております。
だからこそ一方の主観で他方の主観を抹殺してはならないと申し上げているのですが、これはそんなに難しい内容ですか?
いえ、少し分からないでもありません。おそらくきっと貴殿は「書くな」ということこそ「抹殺」ではないかと仰りたいのではないでしょうか(違っていたら訂正して下さい)。これについてもこれは何ら物理的強制力を持たないので抹殺には当たらないとの見解を私は示しています。全否定うんぬんはそれぞれの心の中のことですから、討議するに値しません。田中さんは無視すればいいだけのことですよ。
ある対象を全否定することの危険性は別の問題でしょう。しかし、その種の全否定を全否定されている。まるで冗談のようなこの事実をどうお考えなのでしょうか。
>僕の言いたいのは、他人を批判する以上、批判しているのと同じようなことはしない方がイイのではありませんか?ということです。同様の行為について、自分の行為は容認するが、他人の行為は批判する。僕は、それをダブルスタンダードと言っています。
これについても私は「~した方が良い」と「~しなければならない」は違うとの見解を示しております。ええ、思ったとおり堂々巡りになっているようですね。貴殿のおっしゃることはややお節介、まあ、この言い方が悪ければパターナリズムのきらいがありますが、私はもっと個人の自由というものを評価しておりますので、その人がどのような手法を言論に際して取ろうとも、それは自由であると考えています。ただしきっちりと批判は致しますよということです。
ついでに言えば「~した方が良い」というのは貴殿個人の主観なのですから何も他人がひれ伏す義務もないのです。ひれ伏さなければ気がすまないということの方が「偉そう」ではないですか。
私の考えでは、私に出来るのは私個人の基準で批判することまでであり、その上で他人がどういう選択をなそうが、私のあずかり知らぬことです。神様でもないし専制君主でもないんですからね。
>「書くな」と言っていながら、「彼の執筆権そのものは擁護します」ですか? 「書くな」という言葉が、執筆権の否定を表明する表現であることが分からないのでしょうか? たとえ強制力がないとしても、IKさんは自分の意見として、紛れもなく田中氏の執筆権を否定しているのです。
また原則の問題と私個人の見解をごっちゃにしてますね。冒険者風ライダーさんがあれほど平易に説明してくださったのにまだ分からないんでしょうか。まあ、いいでしょう。「書くな」と私が言ったとしましょう。それでもいいですよ。私が執筆権を言葉で否定しようが、選択するのは田中芳樹さん個人です。いいですか、私は田中芳樹さんの選択権を擁護するときちんと言っておりますよ。その上でどういう選択を成すかは彼個人の権利であり、責任です。「がんばってくださいね」という言葉で彼が筆を折るかも知れません。そんなことまで誰が責任を取れますか。取れるというならば思い上がりも甚だしい。田中芳樹さんという一個の人格に対して失礼です。
ひとつの人格がひとつの作家としての個人を全否定した。そこに何の問題があるでしょう。人はみな違うのです。人それぞれなのですよ。田中芳樹さんは問題が多い作家ではありますが、文章を書く上でそこまで自立していない人だとはまったく思えません。未成年者に言っているのではないのですよ。書くことによって生計を立てているプロフェッショナルに対して言っているのです。
敢えて忠告をさせていただければ、貴殿はプロフェッショナルに対してもっと敬意を払うべきだと思いますね。
>主観であるとしても、僕は自分の意見については、その根拠を可能な限り説明しており、客観性について配慮しているつもりです(反論・質問があればえんりょなくどうぞ)。そして、IKさんが「書くな」という意見の妥当性をキチンと説明できれば、僕が反論する余地もないんですけどね。
「書くな」という意見は何度も申していますが私個人の意見ではないので、その妥当性を示すことは出来ません。ただしそういうことを言う人は、過去にも何人かおりましたし、彼らなりの「妥当性」を示しています。同じことを見て、「書くな」という意見をもったとしても仕方がないことでしょう。貴殿はそれについて「書かない方が良い」と言った方が良いと主張されている訳ですが、主観ということにおいては少なくとも私にとっては大して違いがあることではないですね。
- 親記事No.3325スレッドの返信投稿
- board4 - No.3371
Re3368:「客観的事実」に基づいた「フィクションという免罪符」の問題
- 投稿者:冒険風ライダー
- 2002年12月19日(木) 10時41分
<僕の主張は、他人を批判するような意見を表明する場合には客観性を尊重すべきである、ということと、批判する側が批判される側と同じようなことをしているのはおかしい、ということです。
まず、創竜伝はあくまでもフィクションであり、問題の「評論」の部分は、必ずしも田中氏の意見そのものとは言い切れません。それに対してIKさんの発言は紛れもなく自分の意見の主張ですよね。それともフィクションだったのでしょうか?
また、もし田中氏が「フィクション小説中でノンフィクション(風)の評論(のように見えるもの)を展開してはいけない」というようなことを主張しているのであれば、僕も田中氏の表現方法自体を批判するにやぶさかではありません。しかし、そうでない限り、表現方法に限って言えば作者の自由とするしかないと思っています(間違った内容などについて批判するのは当然のことですけど)。>
言っている事が矛盾しているのではありませんか? その「間違った内容などについて批判する」当然の行為を創竜伝に対して行ったら、内容の如何を問わず「これはフィクション小説であり、その主張は必ずしも田中氏の意見そのものとは言い切れません」といった「赤錆のついた反論」の類を田中芳樹側が返すことが「構造的に見て」可能であるからこそ、「フィクション小説中にノンフィクション評論を挿入する『表現方法』」が、小説中の評論に対して「『フィクションだから許されるという免罪符』を【構造的に】与える【客観的事実が存在する】から問題である」として非難されるのですけど。
これこそが「フィクション小説中にノンフィクション評論を挿入する『表現方法』」が抱える「客観的事実に基づいた構造的問題」なのですから、「そのような問題を抱える表現方法はやめるべきである」という批判は充分に「客観的根拠」を伴っているでしょう。田中芳樹が「主観的に」どう考えていようが、この「客観的事実に基づいた構造的問題」は完全に成立するわけなのですから、何でこの「客観的事実に基づいた構造的問題」というテーマに対して、特に関係があるとも思えない「田中芳樹個人の主観」などをベースにして議論しなければならないのでしょうかね?
はからずもロード・レオンさんのNo.3368での私に対する反論自体が、この「客観的事実に基づいた構造的問題」を非常に分かりやすく目に見える形で浮き彫りにしているではありませんか。自分で書いていて気づきませんでしたか?
それとですね、「田中作品中に挿入されている社会・政治評論の類」が小説中のストーリー&作品設定とは何ら関わることなく展開されているばかりか、むしろそれらを崩壊させる弊害すら生じさせていることは、それこそ今までタナウツで何度も繰り返し議論されていますし、また田中芳樹関連の対談本やエッセイ本などを見ると、そこには田中芳樹自身がそれらの評論を「自らの主観的意見と判断に基づいた現実世界に対する批判」として書いていることを自ら告白している箇所や、小説中の評論と同趣旨ないしは同じ内容で述べられている主張内容が少なからず存在しています。
これらの「客観的事実」を無視して「創竜伝はフィクション小説であり、作中の評論は必ずしも田中氏の意見そのものとは言い切れません」などと述べたところで、そんなものはロード・レオンさんお好みの「客観性を尊重した主張」とは到底言えたものではないでしょうね。あなたの主張を成立させるためには、すくなくとも私が挙げた「客観的事実」を覆すだけの理論的根拠と説得力を持つ「別の客観的事実」を出す必要があるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
それからついでに言いますけど、あなたの主張する「他人を批判するような意見を表明する場合には客観性を尊重すべきである」に関しては、「田中芳樹を撃つ!FAQ」の設問9&12に同趣旨の回答が存在しますし、「批判する側が批判される側と同じようなことをしているのはおかしい」という疑問についても、趣旨は少し違うかもしれませんが、同FAQの設問10によく似た質問に対する回答が存在します。そして、これも繰り返し主張しますが、今までのIKさんの投稿内容を見る限りでは、IKさんはあなたのそのような主張に対して、特に大きく隔たった異論は存在しないように私には見えるのですけどね。
ロード・レオンさんは「田中芳樹を撃つ!FAQ」の設問5をベースに議論しているようですが、そればかりでなく、「田中芳樹を撃つ!FAQ」に設置されている設問全部、および設問中にリンクされている「管理人からのメッセージ」の諸ページなども参照してみるべきなのではないでしょうか。すくなくともそれらには、あなたが期待する一定の回答が書かれているように思われるのですが。
- 親記事No.3325スレッドの返信投稿
- board4 - No.3372
Re:覚悟の上、ですか・・・
- 投稿者:ロード・レオン
- 2002年12月19日(木) 14時30分
> ロード・レオン様、
>
> いずれIKさんご自身から回答があるかもしれませんが、「疲れた」といっておられますので、せめて元気を回復されるまでの間だけでも、私見をはさんでみたいと思います。
>
> はじめに、私がこの掲示板を知ってから半年ほどになりますが、IKさんが、田中芳樹氏に向けて「執筆をやめよ」といったり、「私は客観的な視点を持つことには関心がないね」などと言われたことは、一度もないかと思います。また、IKさんのこれまでの発言内容から推測する限り、この後にもそのような発言をされるとは、すくなくとも私には想像できません。(もちろんIKさんの発言に責任を持つのは、IKさんだけですから、何の保証をすることも、私にはできませんが。)
>
> ただ、IKさんは「あることをしないこと」と「それをする権利を放棄すること」の二つを、厳密に区別しておられるだけではないでしょうか?
>
> 分かりやすい(と思われる)例を、挙げてみます。
>
> 私たちは、法が支配する社会の市民として、他者を訴える権利を保障されています。そして、例えばある訴訟は、もしも勝訴したら、相手を破産に追い込むほどの賠償金をとることになるものかもしれません。
>
> さらにいえば、そのような訴訟の係争相手は、ひょっとして自分の親兄弟や配偶者かもしれないのです。
>
> もちろん個別の事情はあるでしょうが、一般論としては、家族の絆を信頼して、身内で問題を解決しようとせず、親や配偶者を訴え、破産に追い込むようなことをする人物がもしもいたら、私はその人を尊敬はできないでしょう。そういう人がもしもいるなら、いなくなってほしいと、私は思います。
>
> しかし、それでは、家族を相手の訴訟を非合法化すればよい、という意見を支持できるか、といえば、できません。なぜなら、どのような親子関係・夫婦関係を構築するかは、当事者の問題であって、他人が干渉するものではないからです。
>
> 同様に、田中氏に向かって「執筆をするな」という人がいるとしても、(暴力的な形をとらない限りは)それは、その人と田中氏の問題で、第三者が、「そのような発言をするな」と口を挟む性質のものではありません。言い換えれば、田中氏に向けて「書くな」というのは、親兄弟を訴えるのと同様に、「やりたくはないし、やるつもりもないが、それを決める権利は自分だけのもので、誰にも侵害させない」、ということではないでしょうか。
>
> 繰り返しますが、IKさんは、田中芳樹氏に「執筆をやめよ」と言っているわけではありません。「そのような発言をする、しないを決める権利は、自分だけにある」と、言っておられるのです。
>
> 少し話が変わりますが、銀英伝が執筆されていた頃(20年近く前)は、まだ冷戦の只中でした。
>
> その頃、アメリカのTV局が企画して、米ソ市民の直接対話という番組があったのを、今でも記憶しています。その中で、特に私の興味を惹いたのは、アメリカ人が、
>
> 「あなた方には、自国の指導者を批判する自由がありますか」
>
> と尋ねたのに対して、ソ連側が、
>
> 「我々は、我々の指導者を支持しているので、批判の自由があるかどうかには、関心がない」
>
> と、答えたことでした。これは、「法」が支配する社会と、「人」が支配する社会の違いを、実に端的に表現しており、おそらくは、双方とも率直な見解を述べたのでしょう。ソ連の人にとっては、指導者が良い「人」かどうかが最大の問題でした。アメリカ人にとっては、それも確かに大切ですが、それよりもっと大切なのは、自分たちが指導者を選ぶという「法」が機能しているかどうかだったのです。
>
> 再び、田中氏への批評に話を戻しますと、「書くな」と言うか言わないかを論ずるのは、政治指導者が良いか悪いかを論ずるのと、同質の問題であると思います。これに対して、「書くなという権利」があるかないかを論ずるのは、指導者を選ぶ権利が民衆にあるかないかを論じるのと同じです。
>
> こう考えれば、ロード・レオンさんとIKさんの間に、決定的な意見の相違があるわけでもないのでは?
>
- 親記事No.3325スレッドの返信投稿
- board4 - No.3373
Re:覚悟の上、ですか・・・
- 投稿者:ロード・レオン
- 2002年12月19日(木) 14時34分
Kenさん、こんにちは。なかなか面白い例を挙げて下さいましたね。
せっかくですから、この事例に当てはめてみますと、IKさんの意見は、たとえ「親や配偶者を訴え、破産に追い込むようなこと」であっても法的な権利を行使することについては無条件で賛成する、というものです。
それに対して僕の意見は、法的な権利を行使することは自由には違いありませんけど、本当に手放しで賛成していい内容ですか? 賛成するのであれば、妥当性の根拠を説明して下さい。もし説明できないのであれば、せめて賛否の判断を保留した方がイイのではありませんか?ということです。
僕も、発言の権利自体を否定する訳ではありません。ただ、その発言の客観性・妥当性について疑わしいものがあれば、反論・質問することも自由だと考えています。
ps. 3372は投稿ミスです。どうも失礼いたしました。