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- board4 - No.1189
対談本「イギリス病のすすめ」についての一考察・中編(1)
- 投稿者:冒険風ライダー
- 2001年11月28日(水) 13時46分
ところで前回から論評している対談本「イギリス病のすすめ」は、前回の論評でも述べたように田中芳樹関連の著書の中でも記録的に売れなかった本だと言われているのですけど、このことを初めて聞いたとき、私は過去にタナウツ掲示板で行われていた「ファンの人達は創竜伝のどこが面白いと考えるのか?」関連の議論(ザ・ベスト「私は創竜伝をこう読んだ・その4」参照)をふと思い出しました。
あれ関連の議論では、田中芳樹ファン側、特に女性ファンの方々から「創竜伝を面白いと考える理由は評論を読みたいと考えるからではありません、私は評論なんかどうでも良いのです」と述べていた人達が多かったのに驚きつつも何となく納得してしまったことがあり、これまたザ・ベストに収録されている「トンデモ小説が売れる責任の所在・その9」における議論ではそれに基づいた推論を唱えてみたこともあるのですが、対談本「イギリス病のすすめ」の売れ筋は、この手のファン心理を実地で忠実にシミュレートしてみた興味深い結果であるように思えてならないんですよね。何しろ「イギリス病のすすめ」というのは、創竜伝からストーリー部分を削除し、社会評論部分だけを取り出して構成されたような本なのですから、評論以外の要素を求めている田中芳樹ファンにこの本が全く受けないのは当然であるというわけです。この事実はファン心理を分析するためのひとつの有力な手がかりとなりえるのではないでしょうか。
とまあ、こんな簡単な感想を挨拶代わりにして、「対談本『イギリス病のすすめ』についての一考察・中編」の論評を始めることに致しましょう。
イギリス病のすすめ・文庫版 P186~P187
<土屋:
ぼくね、イギリスに五年間いたときに、日本から首相が来るたびに毎回変わってて覚えられないんだよね。「いったい今の首相って誰なんだろう」って。一番ひどかったのは、宇野さんのときね。イギリス人もあの時ばかりはみんな、驚いてたよね。
――:
ああいう原因でやめるような人が首相になった、ということは考えられないでしょうね。
土屋:
考えられない。イギリスだったら国民みんな自殺してますね。(笑)「こんなおそまつな国にいたくない」ってみんな恥じます。
田中:
日本では一方で「ああいうことをマスコミにしゃべった女がけしからん、たかがあの程度のことで有能な政治家がやめさせられるのは日本の損失だ」というような声があったものね。あれがいちばんおかしい意見だった。そういうことを言うような人には、「愛人問題ひとつきちんと解決できないようなやつのどこが有能なんだ」って言ってやるしかない。(笑)元首相の秘書が、「政治家は悪党に限る」というような本を出したりして、要するに「悪いことのひとつもできないようなやつは無能だ」というような意見が幅をきかせているわけでしょ? それが日本の政治評論のレベルの低さを表していると思うんだけど。そういう相手には「自分の腐敗ぶりを隠すこともできないようなやつこそ無能じゃないか」という言い方が一番の反論になると思う。……言ってて情けないんだけどね。こっちも。(笑)>
この2人は本当に政治家に対して無用なまでに「清貧」だの「清廉潔白」だのといった価値観を求めてきますね~(>_<)。「政治責任は結果が全て」というマキャベリズム的発想法など、この2人にはおそらく永遠に理解することもできないのでしょうな。だいたい政治家の女性問題など、本来国の命運を左右するような性質の問題ではないでしょうに。
そもそもあの2人がやたらとこき下ろしている宇野宗佑元総理の女性問題は、元々1989年6月6日に当時の週刊誌「サンデー毎日」が最初に取り上げたのですが、これを首相辞任にまで問題を大きくした最大の原因は、この「サンデー毎日」の記事にアメリカを代表する有力新聞のひとつ「ワシントン・ポスト」が飛びついて大々的に掲載し、それに当時バブル景気で湧いていた日本に嫉妬していた西側ジャーナリズムが飛びついて我先に首相の女性問題をネタにして騒ぎ立て、さらにそれに追随する形で、日本の新聞・テレビ等の主要マスメディアが積極的な扇情報道を行ったことにあります。
実はそれ以前にも政治家にまつわる女性問題というのが全くなかったわけではありません。いやそれどころか、当時も今も、何らかの女性問題を多かれ少なかれ全く抱えていない男性政治家などほとんどいないと言っても過言ではないでしょう。最近有名になった首相の女性問題としては、中国政府の公安部に所属していた女性との親密交際が指摘された橋本龍太郎元総理の愛人スパイ疑惑があります。これなどは単に一個人としての女性問題のみに留まらず、国家の安全保障や機密保持にもかかわる「政治的にも非常に重大な問題」であり、国会で質疑応答を受け、オピニオン誌でもかなり騒がれたことがあったのですが、だからと言って彼が直ちに日本の主要マスメディアからの総攻撃を受け、辞任に追い込まれたなどということはありませんでした。では橋本元総理は政治家としても有能だったと評価することができるのでしょうか? 政治的に見ると、橋本元総理の下で行われた「消費税5%引き上げ」「特別減税の打ち切り」「国民医療費の引き上げ」といった経済政策の失敗およびそれに伴う株価の下落が、バブル崩壊以来続いている日本の不況をさらに悪化させた原因のひとつとも言われているのですけど。
また、すくなくとも宇野元総理が登場するまでは、週刊誌系はともかく、国民世論に大きな影響力を持つ主要マスメディアは政治家の女性問題をあえて不問にしてきていました。当時の主要マスメディアには「政治家の女性問題をいちいち取り上げていたらきりがない」という「節度と常識」があったからです。そしてそれは当時の政治家にとっても「常識」であり、まさかそのような問題がクローズアップされて一国の首相が辞任に追いやられることになろうとは、当時の政治家は誰も考えられなかったというのが実情でしょう。これらの事情から考えると、宇野元総理の女性スキャンダル問題は、「ワシントン・ポスト」に代表される外国の新聞が騒がなければ、それほど問題になることもなく「サンデー毎日の芸能記事」というだけの形で終わっていた可能性が極めて高いのです。
宇野元総理の女性問題は、本来それほど取り立てて騒がれるほどの大問題などではなく、外国のマスメディアによるネガティブ・キャンペーンと、それに触発された日本の主要マスメディアによる過剰なまでの扇情報道こそが首相を政治的に追い詰めたと言えるのです。あの女性問題は政治家の力量が全く及ばないところで勝手に問題が発展していったのですけど、それでも当時の宇野元総理は「女性問題が収拾できなかったから無能だった」などと評価されなければならないのですか?
それから田中芳樹が何やら有頂天になりながら吠え立てている「自分の腐敗ぶりを隠すこともできないようなやつこそ無能じゃないか」という主張についてですけど、私に言わせればこの類の戯言こそが、田中芳樹が語る社会評論の低レベルぶりをよく表していて笑止な限りでしかないんですよね(笑)。
そもそも田中芳樹にひとつ質問したいのですけど、田中芳樹がやたらと絶賛している民主主義という政治形態は、まさに政治家が「自分の腐敗ぶりを隠すこともできない」からこそ賞賛に値するのではないのですか? 言論の自由が認められていない独裁政治では、政治家が自分の無能や醜聞を隠すことなど朝飯前ですし、秘密を暴いた者を社会的に抹殺することも容易にできます。アドルフ・ヒトラーやスターリン・毛沢東、それに北朝鮮の金親子などは、まさに自分の腐敗ぶりを容易に隠すことができた政治家であり、それによって国民から圧倒的な支持を得たのですが、ではそんな彼らは政治家としてもとても有能で、国民に多大な恩恵をもたらしてきたと言えるのですか? 事実はむしろ逆でしょう。
本質的に強大な権力を保有する政治家が本気になれば、自らの無能や醜聞を隠すなど極めて容易なことでしかないです。強大な権力を背景にして、自分に反対する者は全て抹殺し、批判言論を封じ込めてしまえば良いのですから。そしてそのような政治家が誰からも批判を受けることなく、国民を欺き、塗炭の苦しみを味あわせておきながら、自分だけは自堕落な生活を営んでいたなどという事例など無数に存在します。田中芳樹の論法を使うと、とにもかくにも奇跡的な経済繁栄をもたらし、国民の生活水準を飛躍的に向上させてきた日本の汚職政治家よりも、独裁制を敷いて批判言動を封じ込め、経済発展を阻害している独裁者の方が、政治家としてはるかに有能であるということになってしまうではありませんか(笑)。
民主主義が他の政治形態に勝ると言われる最大の理由は、まさにこのような政治家の暴走を国民の手で監視し、止めることができるチェックシステムを持っている点にこそあるわけでしょう。つまり、民主主義国家における政治家が「自分の腐敗ぶりを隠すこともできない」のは、能力的に無能だからではなく、制度的にも理念的にも国民やマスメディアからの批判を弾圧することができず、常に彼らからの監視の目に晒されなければならないために「隠すことができない」からなのであって、それを考えれば、政治家が自らの無能や醜聞を隠せず、常に外部からの批判にさらされるという事実は、民主主義国家においてはむしろ誇るべきことであり、国民の政治参加意識が健全に機能している何よりの証拠とすら言えるのです。
それに、言論の自由が認められた民主主義国家では、マスメディアもまた強大な影響力を持つ「権力」のひとつです。「言論の自由」という名の「錦の御旗」を使って他人のプライバシーや個人情報を徹底的に暴き出すことができ、その一方で自分に向けられた批判を封殺・抑圧することもできる組織が「権力」でないわけがありません。歴史的に見ても、マスメディアの扇情報道による国民世論の高まりが、時の政府の政治的判断を狂わせ、国家を誤った方向に導いた事例も少なからず存在します。戦前における朝日新聞の戦争報道などはまさにその典型例でしょう。
そして民主主義国家における政治家は、制度的にも理念的にも「強大な権力機構」としてのマスメディアからの監視を受けなければならないのです。その政治家とマスメディアとの力関係は、マスメディア側が政治のチェックシステムとしての役目を担い、かつ自身がなかなか批判に晒されにくい体質を持っている点を考慮すると、明らかにマスメディア側の方が政治家よりも強い影響力を行使できる権力を持っていると断言しても良いでしょう。上記の宇野元総理の事例を見れば明らかなように、そのような環境下で政治家が自らの醜聞を隠すことが容易にできると考える方がどうかしているのではありませんか?
そもそも、いかに私生活面で政治家が部類の女好きで手当たり次第に女を抱き、酒を浴びるほどに飲む「酒池肉林な生活」を送っていたとしても、政治に臨む際に的確な決断と素早い実行で国家の安全と国民の生活を保障し、経済を豊かにして国民に豊かさを与えることができるのであれば、その政治家は偉大な政治家であると言えますし、田中芳樹が大好きな後世の歴史家とやらも、彼を第一級の名政治家として歴史に記録するでしょう。逆に、個人としての性格がどれほどまでに真面目かつ誠実であり、誰からも文句の言われようのないほどに理想的な私生活を送っていたとしても、政治の場で国民と国家に害をなすような政治家は「無能者」の烙印を押されても文句は言えません。「政治責任は結果が全て」とはそういうことなのです。
さあ田中センセイ、私のこの主張に対しても「自分の腐敗ぶりを隠すこともできないようなやつこそ無能じゃないか」が一番の反論になると本気で考えられますか? まあもし田中センセイが「政治形態で言えば、多数の国民がいちいち議論しなけば政治的決断ひとつできない民主主義などに何の価値もない、1人で何でも好き勝手にできる独裁政治こそスバラシイ」などと考えているのであれば、確かに主義主張は一貫していると言えるのでしょうけどね~(笑)。
あとついでに余談ながら、あの愚劣な主張に関しては、田中芳樹はかつて創竜伝でも竜堂続に似たような主張を展開させています↓
創竜伝9巻 P182上段~P183上段
<「合法的な献金などありえません。企業の政治献金はすべて違法なんです」
「何だと」
「もし企業の経営者が、政治家や官僚からの見返りを期待して献金すれば、むろんこれは完全な賄賂です。また、もし見返りを期待せずに献金したら、企業の経費を企業の利益にならないことに費うことになり、背任行為ということになります」
中熊はうめいた。続はさらにいう。
「個人献金ならかまいませんが、企業献金はすべて禁止されるべきです。それがクリーンな政治の第一歩ですよ」
「ふん、クリーンな政治か」
中熊は努力してせせら笑った。
「クリーンなだけの政治家に何ができるものか。ダーティーでも有能な政治家こそが、今の日本には必要なんだ」
続も笑ったが、これは相手の見識の低さに対する憫笑である。
「あなたとか汚職政治家にこびへつらう御用文化人とかは、すぐにそういいますね。クリーンな政治家は無能で、ダーティーな政治家こそが有能なのだ、と。でもそれは程度の低いごまかしです。そもそも、ダーティーだと人に知られること自体、無能の証明なんですよ」
「な、何だと」
「だってそうでしょう。ダーティーだと人に知られれば、失脚してしまうんですからね。隠すのが当然です。それなのにダーティーだということが知られてしまうのは、そのていどのことも隠しきれないほど無能だ、という証拠じゃありませんか」
中熊はむなしく口を開閉させた。反論できなかったのである。冷然として、続は追いうちをかけた。
「汚職がなぜ悪いかというと、国家や政治に対する信頼を失わせるからです。二五〇〇年も往古に孔子がいってますよ。『信なくば立たず』とね。民衆の信頼が失われれば国は成り立たない、という意味です。いまごろ汚職を正当化するような人たちは、精神の発達が孔子より二五〇〇年ばかり遅れているんですよ」>
しかしこの竜堂続のタワゴトって、以前に「私の創竜伝考察29」で論評した時には「戦前の右翼の青年将校と同じ事を言っている」「こいつはどうやら政治資金規正法という法律すら知らないらしい」という程度の感想しか抱けず、その感想に基づいて「このようなタワゴトばかりわめき散らすしか能のない竜堂続は、頭のネジが全部弾け飛んだとんでもない低能としか評価のしようがないな」という結論しか出すことができなかったのですが、どうも件の対談内容を読む限りでは、竜堂続の主張内容は作家である田中芳樹の本心でもあるようですので、「これはあくまでも小説中のキャラである竜堂続のタワゴトであって、田中芳樹の本心ではない『かもしれない』」などという余計な配慮を働かせる必要はどうやら全くなかったみたいですね(笑)。まさか田中芳樹自身がこんな愚かしいタワゴトを本気で主張していたとは驚きましたよ(笑)。完全に失敗しているとはいえ、あの個所はあくまでも「小説を盛り上げるためのエンターテイメントである」と認めてあげても良かったのにねえ~(爆)。
せっかくフィクション上の存在である竜堂続が、田中芳樹の社会評論にその身を呈して犠牲となってくれたのに、田中芳樹自身の放言によってその犠牲が全く無駄なものになってしまおうとは、自ら取り返しのつかない墓穴を掘る「とうちゃん」の愚行ぶりには、さしもの竜堂続も草葉の陰で泣いていることでしょうね(T_T)。まあ自分でバカ晒しているあの竜堂続に同情してやる気など私にはさらさらありませんが(笑)。
イギリス病のすすめ・文庫版 P187~P189
<土屋:
イギリスはヴィクトリア時代には、世界を相手に一人勝ちをするわけです。で、その反動ってものに、たぶん一〇〇年ぐらいまえにうすうす気づいたんじゃないかとぼくは思うんだけど。あるいはそれとも、「取るべき物は全部取ってしまったからもういいや」と思ったのかもしれないけど。(笑)でも誰かが勝てば誰かが負けるのがあたりまえなんだ。バブルの時の日本のように、世界中を相手に一人勝ちが永遠に続くと思うのは大きな間違いなんだよね。
田中:
あれはほんと、不思議だったね。「日本の株と土地は永遠に値上がりしつづける」と、経済評論家なんかがマジな顔で言ってたでしょ? 素人考えでも、「そんなことあるわけないだろう」と思うんだけど。(笑)特に国の中核をなす人たちがみんな口をそろえていってたというのが、当時ぼくには信じられなかったんだけど。あのころまでは、ぼくも、大銀行の経営者なんて人たちに対していちおうは敬意をはらっていたんです。すくなくとも、ぼくなんかよりはるかに経済に関する見識があって、経営者としての自覚と社会人としての責任感があるんだろうと思ってた。とんだ買いかぶりでしたね。(笑)特に社会人としての責任感について。>
社会人としての責任感について? おいおい田中芳樹よ、それ日本有数の遅筆作家であるアンタが言える説教ではないでしょうに(爆)。アンタがどれくらい自分が世に出した過去のシリーズ作品をほったらかしにしているかは、私が作成した「田中作品タイムカウント」を見てもらえば、よほどに状況認識能力が欠如した人でもない限りイヤでも理解していただけるのではないかと思うのですけど。
それに田中芳樹は社会的に高い地位ないしは立場にある人間が発する公の発言がいかに大きな影響力を持つのか、少しでも考えてみたことがあるのでしょうか? 政治家や官僚が経済に関して何か発言するたびに、物価や株価がそれに応じて変動する例など枚挙に暇がありません。ましてや、バブル景気で積極的な投機が行われている時期に、然るべき社会的地位にある人物が「土地高騰はここで止まる」などという不景気な話をしようものならば、その瞬間にバブル景気が崩壊し、経済が大混乱に陥ってしまう危険性が極めて高いではありませんか。
そもそもバブル景気というのは、前回の論評でも話したように「ここに投機すれば永遠に大儲けできる」という発想が原動力となって起こるものです。莫大な利益が得られることを信じて莫大な額の投機が行われ、それが投機対象の価値を飛躍的に押し上げ、さらにそれが新規の投機を惹起する。この良循環こそがバブル景気の基本構造です。そんな環境に、もし何らかのきっかけで不景気な話が出てきたらどうなるか? 今度は逆に「待てば待つほど物価は下がるから、何もしない方が得である」ということになって投機が減少し、それによって投機対象の価値が大暴落を引き起こし、それがさらに投機を減少させるという悪循環が発生するのです。そしてこれこそがバブル崩壊のメカニズムであり、歴史上において発生したバブル景気は全てこの悪循環によって崩壊していったのです。
日本のバブル崩壊およびその後の長期にわたる不景気にもこのメカニズムが働いています。あのバブル景気崩壊の直接のきっかけは、何と言っても「私の創竜伝考察31」でも論じた、1990年当時の大蔵省銀行局長・土田正顕が発した「総量規制通達」による土地価格の大暴落にありますが、この結果、「あの土地の値段さえも下がったのだから、待てば待つほど全ての物価は下がる」という風潮が日本中を覆うようになり、この考え方に基づく消費者の徹底した「買い控え」によって、日本では一気に商品が売れなくなってしまい、投機も大幅に減少してしまいました。何しろ「待てば待つほど得をする」わけですから、経済を刺激する消費活動や投機が自然と抑えられてしまうわけで、これでは景気が良くなるはずがありません。これがバブル崩壊後の長期不況が発生した最大の原因なのです。
このことを踏まえてバブル景気当時の経済評論家や政治家の発言を振り返ってみれば、彼らがなぜあのような発言を行ったかが理解できるでしょう。彼らは「王様は裸だ」的な「バカ正直な不景気発言」を行うことによってバブル景気が崩壊し、経済や銀行経営が混乱することを何よりも恐れたのです。所詮は「ここに投機すれば永遠に大儲けできる」という「気分」によってかろうじて成り立っているバブル景気、ちょっとしたきっかけでそれが簡単に崩壊するということを、彼らは誰よりもよく知っていたわけです。田中芳樹が自分のことを棚に上げて強調している「経営者としての自覚と社会人としての責任感」とやらを、彼らは充分に持っていたと言えるではありませんか。
それよりも田中センセイ、私も1995年ぐらいまでは、あなたの主義主張に疑問を持ちつつも一応は敬意を払っていたのですよ。すくなくとも私などよりも政治や社会に関する見識もあって、銀英伝10巻のあとがきに代表されるような「作家としての自覚と社会人としての責任感」があるのだろうと思っていましたので。今にして思うと、これは現実離れのとんでもない買いかぶりでしたね(笑)。特に「社会人としての責任感」について(爆)。
イギリス病のすすめ・文庫版 P190~P192
<――:
イギリスは貴族などが所有する土地を一般の人たちがリースしていることが多くて、その期間が一〇〇年とか一五〇年だと言われてますね。だから、香港返還についても「ああ、あれは借りてるものだから返すのが当然なんだよ」っていう反応がイギリス人に多いのは面白いですね。日本だったら「どんなに小さくても土地は買わなきゃ」という考えがあるのに。
土屋:
うん、だから土地問題ってね、ぼくはすごく重要なことだと思う。日本はまったく世界最低の国だと思ってるんだけど。
イギリスの場合だったら、一五〇年とかね、九九九年、九九年リースとかあって、一生住めるんだから、考えてみれば自分の土地みたいなもんだよね。ここ一〇〇年くらいのイギリス人の土地に対する考え方みたいなものは、日本人と根本的に違うんだとぼくは思う。ロンドンなんかで家さがしするとわかるけど、リースホールド、つまり借地っていうところがほとんどなんです。そうすると土地の値段はほとんどないんですよ。不動産ってのは上物だけの売り買いですよ。これは非常によくできてるなってぼくは思ってね。そのことが結局イギリスの景観を守るのにも繋がってるんだと思う。
田中:
そこのところ、くわしく聞きたいな。
土屋:
「土地というものは私有しなくちゃいけない」という考え方は、ぼくはそれほど古いものじゃないと思うね。日本だって、かつて江戸時代なんかはそうだったわけで、諸侯や大名は一坪たりとも土地を持ってなかったわけだよね。それが、明治以降、特に戦後になって、どんどん土地を解体していって、私有するようになったからおかしくなって、投機の対象にもされるし。「自分の土地だったらなにをしてもいい」という発想はどうして生まれるんだろうとぼくは思うね。イギリスではそんな発想は絶対生まれてこない。土地は自分のものであって自分のものじゃないんですよ。だって動かせないでしょ? こういう根本的な意識の違いがある。イギリスの自然や街並みの景観が守られていることって全部、ある意味で土地というものが私有じゃないからだとぼくは思う。ロンドンあたりだと女王や一握りの貴族が大土地を所有してて、その他の地主なんてほとんどいないんだよね。それでいいんですよ。そんなもん、人間たかだか七〇年の人生しか生きないのに、死んだらどうするんだ、土地まで持ってくのか? ってね。
田中:
うーん、いやあ、ローンが残ってるから。(笑)
土屋:
最悪の人生だね。(笑)
田中:
しかも二世代ローンですからね。
土屋:
これはもう、笑うしかないと思うんだけどね。それでもみんな、土地持ちたいと思うのかねえ。
田中:
持ちたいのかねえ。ただぼくがそれを言うと、「そりゃあんたが持ってないからだ」と言われる。(笑)でもほんと、日本の社会を歪めてる大きな原因のひとつは土地だものね。ま、住むために土地を持ちたい人と、投機の対象にする連中とは区別すべきだけど。それでもあんまり無理をすると、やっぱりあとがよくない。>
「イギリス病のすすめ」の6章において、ほとんど数ページおきに出てくるこの手の「イギリス礼賛・日本罵倒」の論調には何度ウンザリさせられたか分かりませんが、何でこの2人はイギリスと日本の比較検証論を語る際に「日本側の政治・経済・社会事情」というものについて全く検証しようとしないのでしょうか? イギリスの社会事情に関してはそれなりに調べている形跡があるにもかかわらず、日本の諸問題を語る時はロクに調べもせずに罵倒した後「どうしてなんだろうね?」で終わるケースがあまりにも多すぎるのですけど。
確かに土屋守の言う通り、すくなくとも戦前までは日本にも借地・借家で家を持つのが主流であり、戦前の個人住宅の約8割は借家だったくらいなのですが、戦後日本の土地問題を語る際に一番重要なのは「なぜ戦後日本においてこのシステムが崩壊したのか?」というテーマであるはずです。土屋守が本当に日本の土地問題について何か提言したいというのであれば、イギリスの事例を挙げるだけでなく、このテーマについても詳細な説明を行い、問題の本質を明確に指摘しなければならないはずでしょうに。
ではなぜ戦後の日本においてイギリスのような借地・借家の制度が崩壊したかというと、これは1939年に出された「地代家賃統制令」と「正当事由制度」の導入が最大の原因なのです。この「地代家賃統制令」および「正当事由制度」というのは一種の戦時立法で、出征兵士が帰国もしくは戦死した際、残った家族の居住権が守られるように、地主ないし家主側に相応の理由がない限り、借地・借家のための賃貸料を貸し手側が一方的に引き上げたり、借地・借家の賃借契約を貸し手側が一方的に終了させることができないようにすることを定めた法令です。
ところが、本来戦時立法として定められたはずの「地代家賃統制令」と「正当事由制度」は戦後になっても生き続け、その結果、借地・借家の賃貸契約に関しては、借り手側が貸し手側よりも圧倒的に立場が強くなり、よほどに正当性のある理由がない限り、貸し手側は借地・借家の賃貸料を引き上げることも、借り手側に対して立ち退きを要求することすらもできなくなってしまったのです。あくまでも貸し手側が借り手側に対して「借地・借家からの立ち退き」を要求する場合、借り手側に対して「正当性のある理由」に相当する莫大な「立退き料」を支払わなければならないため、貸し手側は借り手側が自主的に借地ないしは借家から立ち退かない限り、自分の土地や家をどうすることもできないのが実情です。そのため、日本における借地・借家の賃貸契約に関しては、土地を貸すのはあげるのと同じ、借りるのは貰ったのと同じということになってしまい「貸すバカ、返すバカ」という言葉まで出てきたほどです。
この状況だと、土地や家の取引で利益を上げる場合、貸して収益を上げる「インカムゲイン」よりも、売り飛ばして譲渡益を手に入れる「キャピタルゲイン」の方がはるかに大きな利益を得ることができます。「地代家賃統制令」に基づく「インカムゲイン」がどれくらいだったかというと、バブル景気当時の東京・神田辺りで、借地一坪当たり70円という借地賃貸料で家を建てていた人がたくさんいたというのですから、いかに日本の「インカムゲイン」が安すぎるかが分かろうというものです。これでは日本で土地や家の賃貸業など成立するはずがありません。
なぜ日本では土地や家の賃貸借があまり行われず、所有にこだわるのかというあの2人の疑問に対する解答は上記に書いた通りなのですけど、どうして私が1人で調べられる程度の調査・検証も行わず、日本の諸問題についてただひたすら罵倒するだけで問題の本質を指摘するでもなく「どうしてなんだろうね?」などという小学生の読書感想文レベルの結論で終わらせることしかできないのですかね、あの2人は。
ただ愚痴を並べ立てるしか能のないあの2人が、イギリスと日本の政治・経済について語るなど笑止な限りでしかないのですけど。
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- board4 - No.1190
対談本「イギリス病のすすめ」についての一考察・中編(2)
- 投稿者:冒険風ライダー
- 2001年11月28日(水) 13時47分
イギリス病のすすめ・文庫版 P203~P206
<田中:
湖水地方ってずいぶん文学者が住んでるでしょ? 住みたくなるのはわかる。ぼくもイギリス人だったらそう思うかもしれない。湖水地方に住んで、冒険したくなったらよそに出ていく、と。だから、帰って心安らぐっていうような意味では、湖水地方ってのはたぶん一番いいんじゃないかと思いますね。
――:
イギリス人にとっても心のふるさと、なんでしょうね。
土屋:
湖水地方に限らないけど……食べ物に関しては、イギリス人は世界中どこへ行っても祖国よりおいしいものがあるからいいけども、(笑)彼らがひとつだけ、祖国を離れて生きていけない理由があるとすれば、それはイギリスの風景なんじゃないかとぼくは思う。
ぼくの知り合いのイギリス人で七〇過ぎのおじいちゃんがいるんだけど、第二次大戦中に日本軍の捕虜になって「クワイ川マーチ」で有名なあの鉄橋の工事をやらされてたの。まさに「戦場にかける橋」の人なんだけども。彼と話をしてて「捕虜生活の中で何に一番郷愁を感じていたか」って聞いたら、やっぱりイギリスのグリーンだって言うんだよね。
田中:
ああ、グリーンか。うん、何だかそれは他人の話として聞いても胸を打つね。
土屋:
イギリスのどこに行ってもある、広々とした牧草地、単なる原っぱ、森……これを総称してグリーンっていうんだけど、それにものすごい郷愁を感じるって。まあ、もう一つはパブのビールだって言ってたけど。(笑)これがないと、って。
――:
「兎追いしかの山」っていうやつですか。
土屋:
「兎追いしかの山」? そんな山どこにあるんだ? 日本にはもう……。
――:
日本にはないですね。
田中:
いま日本人がどこかで強制収容所に入れられたとして、何に郷愁を感じるんだろうね。
土屋:
そうねぇ……ないよねえ。ハゲ山とコンクリートで固められた川ばっかだし。(笑)
――:
そういう原風景みたいなものはもう持てないかもしれませんね。
田中:
昔はあったはずの原風景ってものを、自分たちの手で破壊してきちゃったわけでしょう。ぼくらが子供の頃はよく「日本が世界に誇るものは美しい自然」って言ってたけど、今は全然言わないものね。
――:
言えないんですね。
田中:
そのうちトンデモ本が出版されるかもしれない。「経済成長という口実で日本の原風景が破壊されたのは、どこかの国の陰謀だ」という内容のね。(笑)>
いくらイギリスの自然風景に感動したからといって、日本の自然環境に対してこれほどまでの被害妄想に満ちた虚言癖を披露されると、さすがの私もこの2人の精神状態がいささか心配になってきてしまいますね(笑)。対談内容を読んだ限りでは重度の精神障害を患っている可能性が極めて高いように見えますので、悪いことは言いませんから一度精神科医のカウンセリングを受けることをオススメしますよ(笑)。まあもうすでに手遅れなレベルにまで状態は悪化しているのかもしれませんが(爆)。
だいたい、あれほどまでに森林に溢れている日本の山々のどこをどう見れば「日本の山々は全てハゲ山ばかり」などというとんでもない結論が出てくるのか理解に苦しみますね。別にそれほど深く考えずとも、少し車で日本の山岳地帯をドライブしてみれば、高原地帯などの一部例外を除いて日本の山々が森林に覆われているのを確認することができますし、統計的に見ても、日本は国土面積(約38万k㎡)に対する森林面積(約25万k㎡)の割合(これを「森林率」と言います)が約67%と、世界でもベスト10に入る森林大国として位置づけられているのです。この森林率は日本の歴史上最高の数値でもあり、世界各国の平均森林率が約31%、森林国と一般に思われているカナダですら39%でしかないことを考えると、世界的に見て日本がいかに森林大国であり、森林育成に熱心であるかがお分かりいただけるでしょう。
ちなみに田中芳樹と土屋守が「グリーンが多い」などとやたら絶賛していたイギリスの森林率はたったの10%弱に過ぎず、ヨーロッパ諸国の中でも下から数えた方が早いほどの少ない森林率しかありません(ヨーロッパ諸国の中で一番森林率が高いのはフィンランドの約68%)。イギリスにはかつて原生林を全て皆伐し尽くした過去がある上、木造の船が主流だった頃は、軍船を建造するために、海軍大臣自らが必死にオークの木(楢の木)を育てようといつもポケットにドングリを入れて、あちこち行く度に植えて回ったという逸話が存在するほどに昔から森林に餓えていた国なのです。このイギリスの惨状と日本の豊かな森林事情を比較してイギリスの方を「豊かな緑にあふれている」などと絶賛するのは、謙遜混じりのお世辞にしてもあまりにも現実離れし過ぎていますし、ましてや「日本もこれを見習え」などとお説教するに至っては、却ってイギリスに対して失礼になるのではありませんか?
そもそも田中芳樹と土屋守は、世界における文明の発展自体が大規模な森林伐採によって成り立ってきたという歴史的事実すらも知らないのではないでしょうか。エジプト・メソポタミアなどの古代文明が栄えた地域は現在砂漠が広がっていますが、それらの地域にもかつては広大な森林地帯が広がっていたのです。それを人間が自分達の文明を維持・発展させていくために際限なく伐採し、ついには砂漠にしてしまったわけです。「文明が森林を食い尽くす」と言われているほど、地球上にはこのような人間の文明発展のために砂漠化してしまった地域がたくさん存在します。
特に田中芳樹が過去のヨーロッパと比較して「当時世界最高の先進国」などと盲目的に礼賛していた昔の中国などは、皮肉なことにその「当時世界最高の先進国」という性格が災いして、昔からその高レベルの文化水準を維持するために大規模な森林伐採が行われていました。早くから使用されていた紙や鉄の大量生産のために大量の木材が必要とされましたし、歴代王朝の宮殿の建造が行われた際の木材需要を満たすためにも大量の森林資源が伐採されていきました。その結果、中国華北地方の山々のほとんどがハゲ山と化してしまい、現在に至るもその傷跡は全く回復していないのです。ちなみに現在の中国の森林率はわずか14%に過ぎません。
純粋に森林破壊だけを問うのであれば、現代日本よりも古代文明の方を批判した方が良いのではありませんか? まああの2人にそんなことを期待するのが無理なことは言われるまでもなく理解していますが(笑)。
ところで田中芳樹と土屋守は、「昔はあったはずの原風景というものを、自分たちの手で破壊してきた」などという理由で日本を非難しているようですが、そもそも自分達が感情移入しているその「原風景」なるシロモノ自体が元来自然なものではなく「人為」によって造られてきたものであることさえも知らないのではないでしょうか? 実は「昔から存在する原風景=本来の自然」ではないのです。
上記の森林問題を例に取り上げて説明しますと、実は上記で言及したような「文明の発展に伴う森林破壊」自体は日本の歴史にもあったのです。日本の場合は幸いにも気候に助けられて砂漠化だけは免れることができましたが、だからといって決して無傷だったわけではありません。
たとえば現在の日本における森林は、秋に紅葉が楽しめる落葉広葉樹林がその多くを占めていますが、本来の気候に従うのであれば、すくなくとも現在の西日本における森林のほとんどは温暖な気候に適している照葉樹林が占めていなければならないはずなのです。にもかかわらず、照葉樹林を差し置いて落葉広葉樹林が多数を占めているのは、縄文時代に焼畑農耕がしばしば行われており、焼畑が行われた後の環境では照葉樹よりも落葉広葉樹が優勢になるため、焼畑後の環境下で照葉樹が自然淘汰されてしまったからだと言われているのです。つまり縄文時代の焼畑農耕が、日本の自然形成に大いなる影響を与えていたということになるわけです。
また奈良・平安時代には、何度もたびたび行われた遷都に伴う新都造営のために大量の木が伐採されていますし、世界一の木造建築物である東大寺の大仏殿と大仏を建造する際にも、当然のことながら大量の木材が必要され、周辺の山々から木が伐採されていきました。
さらに、時代が下るに従って発展した農耕生産は必然的に木炭・肥料・マキなどの材料を必要とし、都市生活用や産業用に使われる木材や木炭などの需要を満たすためにも、森林資源は徹底的に消耗されていったのです。そのような森林資源の消耗が長く続いたため、室町時代の頃には日本の森林資源もすっかり激減してしまい、日本の至るところに本当のハゲ山が点在するという惨状を呈していたのです。
それがなぜ現代の日本が世界でも有数の森林大国にまでのし上がったのかと言うと、江戸時代に入って幕府や藩が個人の木の伐採を厳しく管理するようになり、それと同時に植林が積極的に推進されるようになってきたからであり、また明治時代以降の日本政府や地方公共団体もこの方針を踏襲してきたからです。日本における杉林のほとんどが江戸時代以降に植林された人工林ですし、松や梅などといった日本人に馴染み深い木も植林によって増えたものです。これらの例を見ても、日本の森林が自然に形成されてきたのではなく、常に「人為」が介入してできたものであることがお分かりいただけるでしょう。
このように、自然というものもまた、時代の変遷および人為の介入によって常に大きく変動しているものなのであり、田中芳樹や土屋守が「原風景」などと称えているその風景もまた、それ以前の「原風景」を破壊した人間が「人為」によって営々と築き上げてきたものなのです。そして現代の日本はまさにそのような「自然に対する人為の介入」によって、世界でもトップクラスの豊かな森林資源を誇っているわけなのですから、日本は世界的にも歴史的にも稀なほどに森林保護に熱心な国だと言えるではありませんか。「昔から存在した本来の自然が彩る美しい原風景を破壊してきた現代日本」などというシロモノは、田中芳樹と土屋守が共有する妄想上の世界にしか存在しないのです(笑)。
「『経済成長という口実で日本の原風景が破壊されたのは、どこかの国の陰謀だ』というトンデモ本が出版される」などという「仮定の話」について考えるより先に、この「イギリス病のすすめ」という対談本自体が読者からトンデモ本と認定される「現実的な可能性」について、少しは考慮してみた方が良いのではないですか、御二方。
イギリス病のすすめ・文庫版 P213~P215
<――:
今の子供たち、森って言っても多分わからないでしょう。カブト虫も電池切れちゃう時代ですからね。(笑)
土屋:
周りに自然がないでしょ? まあぼくは海育ちだけど、川で育った人間にとって、川ってのは人が行って遊ぶとこだったはずなのに、今の日本の川ってのは全部コンクリートの護岸で固められてるのね。要するにあれは、川に人を近づけないことになってるんでしょ。そういうばかなことを、どうしてしてるのかなって。まあもうじき終わるけどね、全部固めちゃえば。日本中の川は全部コンクリートで固められて、溝に変わるわけだよね。(笑)もう、マンガとしか言いようがない。
田中:
いや、固めちゃったらこわしてもう一度最初からやり直す。それを永久にくりかえす。(笑)
土屋:
ほんと、曲がって流れてるものをまっすぐにしてみたりとか、山のてっぺんにまで砂防ダム造ってハゲ山にしてしまうとかね。
田中:
川に入ってみるとわかるんだけど、ロンドンでテムズ河下りをやるのと、東京で隅田川下りをやるのとでは、全然違う。隅田川下ったって、堤防しか見えないんだから。(笑)日本橋の上に高速道路渡したりして、池波正太郎さんなんかがもう、激怒してたけど、ああいうことをやるんだよね。日本のお役人ってのは。想像力といったけど、景色を見て、いいなあと思う気持ちってないのかな、どうにも不思議ですね。
――:
いくらになるか、しか関心がないのかもしれませんね。もう物語や詩は生まれないですよね。
土屋:
生まれないでしょうね。もう、「兎追いしかの山」もないし。だからこそ、みんなどんどんイギリスに行った方がいいと思うんだよね。イギリスに行って、見てくればいいんだよ。イギリスを見たら、日本のおかしいところがなんとなく見えるかもしれない。学べ、っていうと堅苦しいから、行くだけでいい。行って、なんだか居心地がいいのは何でだろう、って考えてみればいいんだよね。
――:
居心地のいい国、そこに尽きますね。>
で、日本における山岳地帯の森林事情についてわけの分からない現実離れの妄論を唱えた次は、日本の特殊な河川事情から発達した治水事業について意味不明なケチをつけているわけですか。御二方に正常人並みの思考・判断能力があるなどという非現実的な前提を元にして私からも一言忠告しますけど、人サマに対して「イギリスに行って来い」などという偉そうな説教を垂れる前に、まずは御二方こそが、日本の自然環境について書籍やインターネットで調べるなり、日本国内をその足で実際に旅行するなりしてみた方が良いのではありませんか? イギリスの河川景観を参考にして日本の治水事業を論じるのに、肝心の日本の河川事情について全く無知では話にならないのですけど。
それにしても、日本の川を指して「川で育った人間にとって、川ってのは人が行って遊ぶとこだったはず」などと能天気な発言をさえずることができるとは、あの2人にはどうやら日本の河川が引き起こす洪水に対する知識と恐怖も全く存在しないようですね(笑)。こんなことは小学生の社会科教科書にも載っているレベルの話なのですけど、日本では台風期や梅雨期に集中豪雨が起こりやすく、また河川自体も急勾配で水の流れも速いため、昔から洪水に悩まされてきた歴史があります。また山岳地帯が多く平野面積の少ない日本では、昔から国土面積の約10%を占める河口部の平野等に人口が密集しているため、一度洪水が発生すると大きな人的・物的な被害を受けてしまう「宿命的な体質」をも有しています。そのため、昔から日本では為政者達によって様々な洪水対策が行われてきたのです。
たとえば日本最大の流域面積を誇る利根川は、かつては「坂東太郎」と呼ばれた洪水氾濫源であり、東京湾を終着点とする河川だったのですが、約400年ほど前に江戸幕府を開いた徳川家康が江戸の都市計画に着手すると、江戸の洪水対策と新田開発を目的に、この利根川の流れを変え、東京湾から太平洋側へ流すための工事を行わせました(利根川東遷事業)。この工事は1594年から1654年までの約60年間もの時間をかけて行われたのですが、その結果、当初の目的を達成しただけでなく、東北地方と江戸とを直結させる水運路が完成することにもなり、利根川流域は水上交通で経済的にも潤うことになったのです。しかしあの2人の論法だと、家康は許しがたい環境破壊論者であり、利根川東遷事業は関東平野に大いなる自然破壊をもたらしたことになってしまうのですね(笑)。
また大阪などは淀川と大和川の2大河川が昔から多くの洪水を頻発するために、しばしば時の政府による治水工事が行われ、1704年には、江戸幕府の命令によって大和川の付替工事が行われています。
これらの例を見れば分かるように、山岳地帯の面積が国土の7割を占める日本では昔から河川の氾濫に悩まされてきた歴史があり、治水事業は頻発する河川の氾濫から河川流域に住む人々の生命と財産を守るためにこそ行われているのであって、何も川で遊びたい人達の娯楽を邪魔するなどという「チンケな目的」のために存在するわけではありません。上記で書いたように、河川の流れを変えることは洪水対策の一環として昔から行われていた治水事業ですし、河川がコンクリートの護岸で埋められるようになった云々の話も、それこそが洪水対策に最も有効な手段だというだけのことでしかないでしょうに。実際、河川の流れを変更したり、コンクリートの護岸で覆うといった治水手法は、洪水対策としては決してバカにできない多大な効果をもたらすのですけど。
景観に対する配慮だか想像力だかがどうのこうのと言うより前に、まずは日本の河川流域に住む人々の生命と財産の安全について、ご自慢の配慮なり想像力なりを働かせたらどうなのですか、御二方。まああの2人は想像力を働かせるよりも先に、日本の地理と気候風土について小学生レベルから勉強し直すことの方が先決なのでしょうけど(笑)。いや、対談内容を読む限りでは精神障害がかなり悪化しているようにしか見えないあの2人には、すでにそのような要求に応えられるだけの理性ないしは常識自体がすでに失われてしまっているのかもしれませんがね(爆)。
いよいよ次は最後の後編ですが、後編ではこれまでの愚かしい対談内容から弾き出された結論、および文末のあとがき部分について論じてみたいと思います。
- 親記事No.1188スレッドの返信投稿
- board4 - No.1191
うーん
- 投稿者:本ページ管理人
- 2001年11月28日(水) 14時27分
別にこのサイトでは小林よしのりの賛美なんかしちゃいないですが…
私自身、賛美どころか別段共感すらしていませんし。
掲示板にこられる方の中には共感されている方も居られるようですが、それでも、
「真実を追究する作家だ」
「筋が通っている」
「小林の主張にも一理ある」
「田中芳樹よりは、ずっとましだ」
っつー恥ずかしいことを声高に唱える人はいないですね。少なくともこの場では。
しかし、こういう反応があると小林よしのりと田中芳樹は対比するのにわかりやすいのだなぁと再確認ですね。