初代掲示板過去ログ

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投稿ログ53 (No.1052 - No.1064)

board1 - No.1052

外野の感想

投稿者:Merkatz
1999年04月05日(月) 10時41分

小中華思想をめぐっての激論、たいへん興味深く拝見させていただきました。
ようするに「小中華思想ですべて説明できます」というのは「プラズマですべて説明できます」というのと同じだということでしょうか?
確かに韓国の反日感情は、たくさんの要素の複合物だと思います。「外交カード」「反日ジャーナリズム」「反日教育」「民族分断の悲しみ」とか。「小中華思想」もその中の一つというわけですね。

ただ「伝統の拘束力はそれほどあるとは思えない」というのはどうかなと思います。
というよりそもそも「小中華思想」とは伝統なのでしょうか?
「中華思想」とはもともと政治的イデオロギーですよね。世界の中心は「華」でそこにいて世界を支配するのが「皇帝」だという。
でも今現在使われている「中華思想」というのは「自己中心的、本家意識、元祖意識」という意味で使われてますよね。例えば「フランスは中華思想の国だ」と言うではないですか。これはイデオロギー用語としてではなく、慣用句としてですよね。で、韓国のが「小」なのは日本にだけそれが向けられるからですよね。
ですから慣用句としての意味から考えれば、これは「人の性格」を形容したものなわけです。あいつは自己中心的だ、「あいつは中華思想の固まりだ」などというわけです。
韓国が昔から日本に対して傲慢だったことはよく知られています。ということは「小中華思想」というのは「昔から自己中心的で本家意識が強くて、今も変わってない」という意味合いで使われているのではないでしょうか。
平たく言えば「あいつ、昔から性格変わってねえなあ」ということでしょう?
「小中華思想」というのが韓国の民族気質・性格を表現したものであるなら、これはそう簡単には消えないぞと思うのです。
何故なら、人の性格というやつは環境や経験などに影響されて出来てゆき、一生付いてまわるものです。であるなら民族の性格なんて、何千年と言う時間の中で培われたものですから、たかだか開化思想(これはイデオロギーですね)で消えてなくならないと思うのです。
イデオロギーで民族の性格が変わるなら、日本なんてとっくに島国根性が無くなってなきゃおかしいですよね。

取り止めもなくそんなことを思った次第です。

board1 - No.1054

論争の総括&ちょっと反論

投稿者:冒険風ライダー
1999年04月05日(月) 13時51分

 管理人さん、ご苦労様でした。一度に2,3人を相手にして論争するというのは、かなり大変だったと思います。この朝鮮問題については、田中芳樹も創竜伝のこの先の巻でいつもの訳がわからない社会評論を展開していますので、後日詳細に歴史や背景などを説明する事にしましょう。

 ところでこの論争を振り返ってみると、論点がかなり多くなっていて最初の論点がなんだったのかが分かりにくいですね。確か最初に私と不沈戦艦さんが日本の植民地統治の実情を話していた時に、日本の日韓併合と植民地統治を「無理矢理手込めにした」「朝鮮韓国の反応を見ると、とても日本の統治がうまかったとは思えません」「イギリスの方がよっぽどうまいですね」と管理人さんが主張したところから、この論争は始まっているんですよね。どうもそれは違うのではないかと考えて日韓併合の話をしたわけですが、そこから話がどんどん飛んでいったようです。

 ところで、最後に少しだけ反論を。
<私が言っているのはそれだけで植民地解放以後の反日が説明できるのかってことです。>
<伝統の拘束力はそれほどあるとは思えません。むしろ、伝統以外の要素の方が大きいと私は思うのですが。>
 これについては、No1032で日韓併合の話をした時に、「戦後に成立した南の李承晩政権と北の金日成政権がともに反日政策と反日教育を推進した」ともうひとつ原因を指摘していましたし、「独立して半世紀もたつのにかえって反日主義が増大しているのは、教育が大きく関係しているからだと思います。」とも言いましたよ。「小中華思想」に論点が集中したのでそちらばかりを論争していましたが、私も月日がたつに従って却って朝鮮の反日主義が増大するという部分は、「小中華思想」だけでは説明がつかないと思いましたので。
 しかし「小中華思想」の是非はともかく、昔から朝鮮が日本を蔑視していた、そして今もまた蔑視している、ということは確かなようです。これだけはどうかご理解ください。

それでは私も、田中芳樹作品の評論を再開いたしますか。

board1 - No.1055

まあ、確かにアホらしいですね

投稿者:不沈戦艦
1999年04月05日(月) 15時21分

 ここは「田中芳樹を撃つ!」であって、植民地論争の場ではありません。本題を忘れて何をやっているんだか、という話になっていっていますので、アホらしいからお互いにやめましょう。歴史認識の議論の場じゃありませんから。

 しかしまとめとして一点だけ言わせてもらうと、中韓の日本に対する態度、他の国のケースと比べてみても、植民地支配や戦争の恨みでは到底説明つかんと思いますよ。私の意見はそれだけですね。以上です。

board1 - No.1056

お知らせ

投稿者:本ページ管理人
1999年04月07日(水) 13時56分

 「田中芳樹を撃つ!」サイトに接続できませんが、どうやらメインページのサーバが停止しているようです。
 申し訳ありませんが、回復するまでお待ちください。

board1 - No.1057

「反論!銀英伝アニメ論解決編」

投稿者:Merkatz
1999年04月07日(水) 23時29分

小村さん、どうもすいません。私の文章のまずさのせいで、誤解を与えっぱなしです。なんか謝ってばかりですが、本当に申し訳ないと思っています。

私はこう考えていたわけです(小村さんの例えを拝借しますね)。

チーフプロデューサー、即ち店のオーナーである田原氏が銀英伝という魚を市場で見出し、せり落として店で客に提供することにした。

しかし田原氏と河中氏は
「素材の美味しさをそのままお届けする」
ことにこだわり過ぎた結果、「料理の鉄人」で加納典明あたりに
「たしかに美味しいんだけどさあ、もう一工夫足りないんだよね。」
と言われるような料理になってしまった。

難しい素材なので100%生かしつつ独自の料理に仕上げるのは至難だが、腕の良いシェフならもっともっと見た目も味わいも深く仕上げられる余地はあった。

しかし料理人の心構えとは何か。それはお客を満足させることである。それは単に腕が良いというだけではだめで、お客様に喜んで欲しいという心が大事。「料理は心や!」。

田原氏と河中氏はお客に喜んでもらおうと一生懸命の心ずくしでもてなしてくれた。だが残念ながら肝心の料理の腕が伴ってなかった。しかし料理人としての態度は間違っていない。故にこの料理は「料理人の心」がこもっている点で、半分は評価できる。

というような次第です。
ですから、食通・小村さんが「この魚はねえ、もっとうまい食い方があるんだよ。それをこの程度にしおってからに。あの料理人は最低だよ」という評論をしたのに対して、
私は「いや料理人としての腕は未熟であったが、お客に喜んでもらいたいという心遣いが非常に気持ちよかった。「道」を極めるには心技一体であらねばならない。であるなら「心」があったことだけでも評価すべきではないか」と言いたかったのです。

で、その「心」の部分として、私が今まで挙げてきたものがあるわけなのです。
それをうまく伝えることが出来なかったため、さんざんご迷惑を御掛けしてしまった。

しかし出された料理がいまいちなのは事実なのだから、「技」を論評するのが正論ではないか、と思われるかもしれません。
でも私はそこに厳然とした一線を引きたいのです。
それは
「客に対する心遣いがあったけれども腕が及ばなかった結果」なのか
「客に対する心遣いもなく腕もなかった結果」なのか。
アニメはどう見ても前者である。だから私は評価するんですね。

そこに一線を引くことに何の意味があるのか?それこそが私が今まで主張してきた「原作の面白さを伝える」ということなのです。

小村さんは解っていらっしゃるのでしょうか。「原作ものアニメ」というのは、実は意外と難しいのだということを。
「素材」が良いのだからどんなヘボが料理したところでそこそこの味は出る、というのは間違いで、ヘボだと素材の味が「まったく」出ないんです。
何も銀英伝だけが特別難しい素材ということではなく、そもそも原作もの自体が難しい素材なんですね。
料理人の技と心が試される素材、それが「原作ものアニメ」なんです。

銀英伝においては少なくとも「心」によって「素材のうまさ」を伝えることに成功した。無論「技」があればもっとおいしくなったでしょうが、「心技」なくうまさがまったく伝わらなかったよりは遥かにましです。

べつに私は「素材を選択した時点でアニメの勝ち(&価値)は決まった」などということを主張したつもりは毛頭ありません。素材のうまさをまったく殺してしまうことが多い事を考えれば、「心」によって、素材のうまさを伝えることが出来たということは、評価すべきことの一つとして数えるべきではないかと申したかったのです。

小村さんの指摘しました「創竜伝」アニメとの比較でもそれは証明できます。「創竜伝」の人気は「銀英伝」と肩を並べるもの(ですよね?)です。まったく同じ方法論でアニメ化したにもかかわらず、かたや大成功、かたや大失敗という差はなぜ生じたのか。それは「銀英伝」には「心」があったため素材のうまさを伝えることに成功し、新規ファンを大量獲得したに対し、「創竜伝」は「心技」ともになく新規ファンの獲得に失敗し、原作ファンの自己満足に終始したからです。(ここでは「創竜伝」に伝えるべき面白さが存在するのかどうかは問いません。個人的にはそんなものないと思いますが、いまなお飛ぶように売れる現実から悪魔的魅力が備わっているのではないかと推測されます。ならばその「悪魔的魅力」をアニメ化で伝えることが出来たなら、馬鹿なアニメファンを大量獲得できた筈です。)

味はいまいちですが、今日も私は暖簾をくぐり、料亭「田原&河中」の出す「アニメ銀英伝」を食すでしょう。何故なら味以上にその心遣いが心地よいからです。そしてその心地よさが、料理の味を実際より上に感じさせてくれる。だからこそ今も多くの人が「アニメ銀英伝」を好んでいると思うのです。
腕はあっても客を客とも思わぬ態度で不快にさせてる人や、腕も心もない人が多い中、これは貴重なことだと私は思うのです。
(本当に細かなところまで気配りがしてあります。ヤンが死んだ後のEDに「光の橋を越えて」がかかったり(ここはすっごい感動する。あの歌詞はヤン亡き後のユリアンの心情にすげーぴったり来るもんな。「歓送の歌」じゃあイメージ違うもの)、最終話の予告で「銀河の歴史もあと1ページ」と言い換えてあったり)

小村損三郎さんは一貫して「技」を論じておられた。また相手もそうなのだと思っていらっしゃった。
私は心技一体、「心」も見てくれと訴えたかった。その言い方が下手だったから、何を論じているのか訳が分からなくなってしまった。

また、私と小村さんの評価の違いは「入門書」としてか「応用書」としてか、とも考えられます。
「原作ものアニメ」の理想形というのは、知らない人には「入門書」の役目を果たし、知っている人には「応用書」の役目を果たすということです。こんな難しい事をクリアするには「心技一体」であることが不可欠です。
ですが、「アニメ銀英伝」の場合は片方しか満たしていません。つまり「心」はあっても「技」が及ばず。それでは必然的にどちらかの役目しか果たせません。
この場合は「入門書」であったわけです。
ですが小村さんの評論はどうも「応用書」としての用をなさないことによるもののようだと思われました。で、私は思ったわけです。なるほど「応用書」としてはそのような欠点から誉められたものではないだろう。しかし「入門書」としてはこれは合格点を与えられるものだ。この人の指摘には「入門書」としての観点がごっそり抜け落ちているのではないか。
なぜ小村さんの視点から「入門書」という観点が抜けているのか、私はこの人は原作を知っているが故に「アニメが原作の面白さを伝えているのは当たり前」と思っているからではと、推測したわけです。
知っている人にとっては「当たり前の面白さ」でも、知らない人にとっては「未知の面白さ」です。その辺の視点が欠けているのではないか。
ですから私は最初に「原作の面白さに惑わされている」と指摘したわけです。

小村さんはあの評論を、「心技」を理解しておられる真の食通としてやったのか、「技」のみをさも得意げに語るえせ食通としてやったのか、私はそれを問いただそうとして色々書き散らかしたわけです。
自分の愚かさゆえ、それを伝えることができず迷惑を掛けてしまったことはまことに悔やまれます。

以下は前回のお詫びです。

>Merkatz=「低音質名盤」支持
>小村損三郎さん=「高音質駄作盤」支持

>ちょっとちょっと。
>前の奴はともかくこれはいくらなんでも聞き捨てなりませんなー(--#)。

やっぱり書き直しとけばよかったと反省しきりです。実はこの部分は自分でも「これは違うだろ」と思ったのですが、この方が対比としてわかりやすいかなとそのままにしたのです。どうもすいません。

>人の発言を乱暴に解釈及び改変してレッテル貼りをするような田中芳樹のようなことはやめていただきたい。

自分の言いたいことを伝えようと、稚拙な文章で四苦八苦した結果、そのような印象を与え、不快な思いをさせてしまいました。申し訳ありません。

で、ちょっと技術論について。あっ、怒らないで。言い間違いでああ言ったのであって、したくなかったわけじゃないですよ。
「長いセリフ」って批判材料にならない気がするんです。「橋田寿賀子もビックリの異様な長ゼリフ」とありますけど、これについては面白い話があるんです。
読売新聞に読者からのTV番組の寸評を載せるコーナーがあって、そこに「橋田寿賀子ドラマはみんな饒舌で気味悪い。長ゼリフは不自然」ってあったんですね。そうしたら次の日に「長ゼリフは橋田寿賀子ドラマの味だ。長いのが自然」って反論が載ったんです。嘘みたいだけどこれ本当なんです。だいぶ前でしたね。
ですから何をもって不自然な長セリフとするか、これはもう感性の違いだから、技術論とするのは無理なのではと思った次第です。
現に小村さんは同じセリフでも小説は良くてアニメは駄目、私はどっちも良いって感じてるわけですからね。探せば小説は駄目でアニメは良いとか、漫画は良いけどアニメは駄目とか、いろんな人がいると思う。

肝心なことを聞くことが出来ないまま、議論は終わりを迎えました。ただただ自分の間抜けさを笑うばかりです。
本当に小村さん、このような支離滅裂な文章に付き合っていただいたことを感謝、且つお詫びいたします。ありがとうございました。そしてどうもすみませんでした。

board1 - No.1058

今日初めて見ました。

投稿者:俺様ランチ
1999年04月08日(木) 11時52分

 初めまして。今日初めてこのページを知り、過去ログベストをあらかた読みました。ちなみに私は、まだ「元ファン」とまでは割り切っていません。
 第一印象は「よく調べてるなあ」ってのと「このHPって、キン肉マンファンがあら探しして楽しむ所と似ているなあ」って2点です。

 私も最近の芳樹の例の版元だけ換えての出版しまくりと、一つのシリーズ完結させないでの新シリーズ始めまくりは腹が立っていたので、このHPで言われていたり議論されている事には大体納得できました。

 このHPは原動力が「創竜伝ウソばっかじゃん!」のようですが、銀英伝についてはそれなりに評価されているようなのでホッとしました。私は芳樹の本分は「架空世界の設定のうまさ」だと思っていますので、現代物なんてやめて早く架空歴史小説に戻って欲しい気がするんです。

 ところで、基本的にはまだ芳樹を皆さんほど突き放してはいないのですが、ここで書き込みする方は「芳樹憎けりゃ全作品憎い」って方が大半なのでしょうか?自分としては、アルスラーンだのタイタニアだの、宿題をまず片づける、というスタンスに戻るなら、そこまで悪し様に言う事もないだろうと思うんですが・・・。

board1 - No.1059

>今日初めて見ました。

投稿者:M野
1999年04月08日(木) 15時15分

>ところで、基本的にはまだ芳樹を皆さんほど突き放してはいないのですが、ここで書き込みする方は「芳樹憎けりゃ全作品憎い」って方が大半なのでしょうか?自分としては、アルスラーンだのタイタニアだの、宿題をまず片づける、というスタンスに戻るなら、そこまで悪し様に言う事もないだろうと思うんですが・・・。

私の場合は、
1.一度広げた大風呂敷は、ちゃんと畳んで欲しい。
2.創竜伝に見られる、安っぽく口汚い左傾発言が鼻につく。
3.とにかく、最近の作品は面白くない。

やりかけのまま何年も放置されている仕事を片付けて欲しいのは、同感です。
しかし、、最近の氏の作品を見る限りでは、続編が出ない方が幸せかも
しれないなどと思ってしまうのは、私だけでしょうか。

board1 - No.1060

RE1058&田中作品の肯定評価

投稿者:冒険風ライダー
1999年04月08日(木) 16時12分

 俺様ランチさん、はじめまして。

<私は芳樹の本分は「架空世界の設定のうまさ」だと思っていますので、現代物なんてやめて早く架空歴史小説に戻って欲しい気がするんです。>

 田中芳樹は現代物の小説を書くべきではないと私は思いますね。創竜伝を読めば分かりますが、あまりの遅筆と偏向した社会評論のために、時代の流れに小説がついていっていません。しかも90年代は政治・経済・文化がすべて大きく変化していますしね。社会評論はすぐに古くなる上に偏向しているし、その評論の内容も現実世界の新しい出来事によって完全に打ち消されたりしています(たとえば、日の丸・君が代問題や謝罪外交など)。また、「21世紀まで後数年」という設定のはずなのに、小説中にインターネットや携帯電話、カーナビなどといった「90年代の流行物」が一切出てこないし(^_^)。90年代後半に書かれているはずの10巻や11巻でも全く出てこないんですよね~(^^;)。

<ここで書き込みする方は「芳樹憎けりゃ全作品憎い」って方が大半なのでしょうか?>

 私は田中芳樹作品の全てを否定してはいませんし、ここに来ている皆さんも「銀英伝は好きだが創竜伝は嫌い」という人が多いようです。そうでなければ創竜伝を批判せずに、投げ捨てて見向きもしないと思いますし、他の田中芳樹作品の新刊をいまだに辛抱強く待ちつづけているという事もないでしょうから。最近の田中芳樹作品はストーリー自体も低レベルすぎてあまり好きではありませんが、かつては面白い小説を書いていましたし、その思想には結構影響を受けたものです。その部分は肯定しています。

 ところで前回の「私の創竜伝考察11」で予告した通り、「私の創竜伝考察シリーズ」を始めてから批判ばかりやっていたので、カウンターバランスも兼ねて、今回は少し田中芳樹の肯定的な部分を少し指摘してみましょうか。今回は私の個人的感想ですので、異論のある方もいらっしゃるでしょうけど、そこは大目に見てくださいね(^^;)。


 最近の田中芳樹作品は哀れなほどにレベルが低下しているために見る影もありませんが、上でも主張した通り、かつては面白い小説を書いていたものです。そのストーリーの内容だけでなく、物語の中に含まれている政治や軍事の基本的な知識は、今見ても非常にためになるものです。たとえば戦争における補給の概念、情報の重要性、そして「戦術は戦略に、戦略は政治に、政治は経済に、それぞれ拘束される」といった考え方などがそうです。銀英伝やアルスラーン戦記などを読んで、戦術や戦略などに興味を持った方も多いのではないでしょうか。

 勧善懲悪があまりなく、絶対善・絶対悪の存在を否定しているという視点も、田中作品を読み始めた頃の私にとっては今までになかった視点だったので、かなり引きこまれて影響を強く受けたものです。以前話題になった「サクラ大戦」シリーズの勧善懲悪があまり好きになれなかったというのは、ここからの影響です。

 キャラクターが非常に個性的で不遜であった(笑)というのも私は好きでした。これを読んでた頃は結構イジメにあってたものですから、こういった性格にあこがれていたものです。そのためか、私も性格がだいぶ変わってしまったものですが(^^;)。
 知恵を使って危機を脱するというのもだいぶ真似事をしていましたね。特にナルサスやヤン・ウェンリーは、性格も考え方も非常に面白かったものです。オーベルシュタインの冷酷な思考なんて、いまでも私の理想像となっています。あの自分さえ突き放せる冷酷な考え方ができれば人生楽しくなるだろうな、なんて考えていたものです(^_^)。

 また、マヴァール年代記の文庫版あとがきで、ジャガイモの設定ひとつで作品世界の設定が大きく変わってくるとか主張していました。このあたりは「さすがは銀英伝やアルスラーン戦記の作者だ」と感心したものです。
(もっとも、創竜伝では自衛隊をその実情も知らないで好き勝手に動かしていましたが)

 そして私が一番気にいっている個所は、アルスラーン戦記の次の一文です。

アルスラーン戦記7 P195~P196
<「エラムよ、どれほど強大な王朝でも、三百年も続けば充分だ。人は老いて死ぬ。樹木も枯れる。満ちた月は欠ける。王朝のみが永遠であるなどということはありえぬさ」
 そうナルサスはエラムに語ったのだ。大国の興亡といい、王朝の興亡という。「興」があれば「亡」がある。それは一体のものであって、「興」だけが存在することはありえない。万物は滅びるものなのだ。この大地さえ、いつかは。
「では人の営為というものは虚しいものなのですか」
 エラムには、それが気になる。だが、ナルサスは笑って、「それはちがう」といった。かぎりある生命であるからこそ、人も国も、その範囲で最善をつくすべきなのだ。聖賢王ジャムシードも死んだ。英雄王カイ・ホスローも死んだ。だが彼らの名と、彼らがやったこと、人々の記憶に残り、語りつがれていくだろう。そしていつか、彼らの志をしたい、彼らの事業を受けつごうとする者があらわれる。その意味でこそ、ジャムシード王もカイ・ホスロー王も不死なのだ。
「アルスラーン殿下も、不死の王となられる可能性がある。おれはそれに賭ける」
 そうナルサスは断言した。
「おそらく殿下は王家の血をひいておられぬ。だが血統を信仰するなど愚かしいことだぞ、エラム。われわれは聖賢王ジャムシードの名を知っている。だが、ジャムシードの父親の名をしっているか?」
 エラムは答えられなかった。
「英雄王カイ・ホスローは歴史上に比類ない英雄だった。それでカイ・ホスローの父親はどうだった?」
 カイ・ホスローの父親についても、エラムは知らなかった。赤面するエラムの肩を、笑ってナルサスはたたいた。
「英雄の子ならかならず英雄。名君の子ならかならず名君。人の世がそのように定まって動かぬとすれば、まことにつまらぬ。だが、事実はそうではない。だからこそ、生きているのがおもしろいというものさ」>


 当時(まだ中学生でした(^^;))の私は、これを読んで田中芳樹ファンになったものです。今でもこの部分の主張は、田中芳樹作品の中で一番気に入っています。
 「国は滅びるものだ」という考えは、田中芳樹の全作品に共通してあるものですが、「だからこそ滅びないように最善を尽くすべきだ」と主張しているのは、「アルスラーン戦記」と「タイタニア」だけです(タイタニアは「国家のようなもの」ですけど)。この2つの考え方は矛盾しません。それどころか両立すべきものでしょう。
 「英雄の子ならかならず英雄。名君の子ならかならず名君。人の世がそのように定まって動かぬとすれば、まことにつまらぬ。だが、事実はそうではない。だからこそ、生きているのがおもしろいというものさ」
この考え方も私は好きです。まあ血統が全く無意味というわけでもないでしょうけど、一般的な凡人にとって、これほど元気付けられる言葉はありませんから(^^;)。

 こういった正論が、創竜伝や最近の作品でどのように変わっていったか、調べてみるのも面白いかもしれません。昔に比べて、今の田中芳樹がなぜつまらないのかが見えてくるでしょうから。

 田中芳樹は、創竜伝のような訳の分からない社会評論をだらだらと展開する事をやめ、アルスラーン戦記を書いていた頃の面白い小説を、できるだけ速く書いてほしいものです。

 最近、非常に遅ればせながらFF8をやっていますので、ついそちらに集中してしまいがちですが(^^;)、次からは「私の創竜伝考察シリーズ」を再開します。

board1 - No.1061

田中芳樹について

投稿者:本ページ管理人
1999年04月08日(木) 16時46分

>初めまして。今日初めてこのページを知り、過去ログベストをあらかた読みました。

こんにちは。過去ログを読んでいただいたそうで、ありがとうございます。そろそろ過去ログを通読するのも骨が要る分量になってきましたと思います。お疲れさまでした。


>私は芳樹の本分は「架空世界の設定のうまさ」だと思っていますので、現代物なんてやめて早く架空歴史小説に戻って欲しい気がするんです。

 最近では、読む側が求めるものと書く側が書きたいもののギャップが相当激しくなってきていると思います(といっても、コンスタントに売れているから違うのかな?)。


>しかし、、最近の氏の作品を見る限りでは、続編が出ない方が幸せかも
>しれないなどと思ってしまうのは、私だけでしょうか。

 私も「美しい思い出」として終わらせた方がいいと思っている一人です。個人的には潔く未完打ちきり宣言をして打ち切って欲しいです。
 「エヴァ」や「ドラゴンボール」の轍を踏んで欲しくないですしね。


> また、マヴァール年代記の文庫版あとがきで、ジャガイモの設定ひとつで作品世界の設定が大きく変わってくるとか主張していました。このあたりは「さすがは銀英伝やアルスラーン戦記の作者だ」と感心したものです。

 まったくその通りです。別にサヨッキーだろうが反日君だろうが小説として面白く、なおかつ仮想世界内での説得力さえあれば結構なのですが(というか、もしも革新の理論が圧倒的なリアリティを持つ仮想世界を作れたら、まさに物語として凄いことなのだが)、当然そうはならず、単なる便所の落書きと化しているのが悲しいところですね。

board1 - No.1062

書いてみました。

投稿者:satoko
1999年04月08日(木) 19時23分

はじめまして、こんにちわ。書き込みが少ないといわれている田中ファンのがわに立って、感想を少しだけ言わせてください。実はこのペ-ジの掲示板はほとんど読んでないのですが、メインページの中で読んだ事への感想です。

私は石井さんのご意見に対して意見を言う権利はあまりないと思います。創竜伝は読んでいませんので。ですから、書かれている事に関して思った事を少し、それを言ったら終りとかそんなのなら来るなと言われるのが恐いのですが・・・。

「田中芳樹は権力者である。」という意見に関して。私も2,3年前までは制服のスカートを短くして、髪を染めてルーズをはいていた高校生の一人でしてその頃、「銀英伝」にはまって「ああっ・・・、ミュラー。」などといっていた一読者です。世間の事やまして政治などには興味もない一女子高生でした。ですが、その中の田中思想というものに関して、作品の中にいる人物の思想としてしか捉える事はなくそれが即、洗脳(?)とかになった記憶はまったくありません。こんなまずい文であなたの考えを否定するのは、恥ずかしい限りですが作者の思惑はどうであれ、読者が賢明で、それはあくまで小説という考えがあれば田中氏は創作者であって、権力者にはなり得ないと考えます。

田中氏は作家であって思想家ではありません。それに「フィクション」と名がつけば、その中のものは架空の話と捉えて楽しめばよいと考えています。

小林よしのり氏の話が出ていたので、彼の言葉を借りて言うならば「視聴者(または読者)はそれの中にやらせがある事をわかっていながらその事にだまされている自分に酔って楽しむべきだ。」ということで、銀英伝や読んでいないのでわかりませんが、創竜伝の中にある矛盾も話の流れとして捉えてあげるべきなのではないでしょうか。

ただ、同感できる点を言いますと・・・「最近の田中作品はつまんないものもおおいんじゃん。」というところです。更に言わしていただきますと「あんなに探し回ってやっと手に入れた隋唐演技・・・。なあんじゃこりゃ。」といった所でしょうか。

雑文になって申し訳ありませんが、はっきり言って強烈に反論されるのが恐いですが、田中芳樹という作家が好きなのでここまで書かれているのを黙っていれなかったんです。後少し気がついた所があったんですが、それは創竜伝を読んでみてからの次回にします。長々とすいませんでした。

board1 - No.1063

私の創竜伝

投稿者:俺様ランチ
1999年04月09日(金) 16時23分

 M野さん、冒険風ライダーさん、管理人さんもレスありがとうございます。正直ちょっとだけ「君はまだあんな奴に期待してるのか?」ってバカにされるかも、とビビっていたのですが。確かに過去ログ読むのツラかったです。と言ってもベストのみですが。

 今回は主に創竜伝関連の皆さんの論争ログを読んでの感想を書きたいと思います。

 管理人さんの主張への感想を一言で言えば「(ファンの自分としては)悔しいが納得させられる」です。創竜伝内での主張の矛盾など、読んでいる時に気づかなかった自分に腹が立ちました。
 ただ、このHPでの皆さんの論争の中でたびたび見られる「創竜伝に見受けられるとおり、田中芳樹は左翼に偏向している→だから田中はダメだ」という主張には正直賛同しかねます。私も創竜伝を読みながら「芳樹って選挙では社会党か共産党に投票、読む新聞は朝日だろうな」とすぐに思いました。が、それ自体は作品を読む上ではどうでもいいと思いました。
 作家だって人の子、右にも左にも偏る事はあるでしょう。ただ、作家が左に寄っている事自体の善悪を問う事自体は無意味だと思います。「作品中での評論内容から、田中芳樹が左翼である事を証明し、田中芳樹のダメさを立証する」のがこのBBSで一つのブームのようですが、その行き着く結論は「左の奴が書いた本はダメな本だ」という事でしょう?

 どうも、「創竜伝での、ストーリーと政治評論の力の入れ具合の逆転」を感じた時の苦々しさと「政治評論の左翼臭さ」を保守の人が感じた時の不快さ、をごっちゃにして怒っているのではないか?とログを読んで感じました。
 政治評論の多さと説教臭さがイヤ、と言うのはわかります。私もそうですから。でも政治評論の内容自体を指していちいちアレは間違ってるソレは左翼の言い分だ、とかいうのは無意味だと思います。
 創竜伝での政治評論を銀英伝での戦略戦術論に置き換えるとどうでしょうか。田中芳樹が(ラインハルトの口を借りて)「フェザーンを通って同盟に攻める事を考えつかない奴はアホだ」と言っている事に対して、「イヤ、そんなん卑怯じゃん。イゼルローンだったこういう方法使えば陥ちるじゃん。なんで作者は気づかないかなぁ」と批判している人がいたら「いや、だって作者はそういう話として作ってるし」って言うしか無いでしょう。田中作品のせいで、例え話が好きなクセに全然わかんないですが。そんな感じです。ニュアンス伝わってればいいのですが、ダメだったらまた別の例え考えます。

 あと、「田中芳樹左翼説」を唱える人より、「芳樹左翼説の証拠探し」に力を入れている人に感じた事。例えとして適切かどうかわかりませんが、「キン肉マンのブロッケンJrが正義超人に入っているという理由で、ゆでたまごがナチかどうか議論する」みたいな無意味さを感じました。

 以上のような理由で、田中芳樹が左翼だから、と言うのは創竜伝のつまらなさの理由とは別物ではないか、と思います。で、自分なりの創竜伝その他現代物のつまらなさ分析をすると、理由は「それが田中芳樹以外の人間にも書けるだろうものだから」です。
 田中芳樹氏にしかできない事は確かにあると思います。1つは、押入の中の見えない部分にも上質の木材を使う職人のような「架空世界の設定の妙」、もう一つは「あくまでマイナー中国史の不況に努める態度(私は評価しているんですが、これはここに限らず各方面で不評のようですね)」です。 横から見れば1枚絵の2DCGと違い、3Dの様に奥行きを持たせた設定がしてある(銀英伝の歴代皇帝まで設定する細かさなど)から側面から世界観を見てもちゃんと様になっている。だからこそ「反銀英伝」のような話題も盛り上がるのだと思います。
 が、創竜伝その他現代物って「伝奇SF」というジャンルでくくっちゃうと、別に田中芳樹じゃ無くてもいいんです。ホラーもそうですが。銀英伝を読んだ時は「こんなすごい話、田中芳樹以外には書けないだろう」と思ったのですが、創竜伝の時は「つまらなくはない。確かに掛け合いとかは面白いけど、たぶんこのジャンルでもっと面白い作品はゴロゴロあるだろうな」と思ったものです。

 結局、創竜伝その他現代物まで全て買い、読み続けている理由。それは「作者が田中芳樹だから」と言うに過ぎません。いや、「銀英伝の作者だから」と言った方が正確かも知れません。田中芳樹氏が年1冊くらいのペースで架空歴史小説モノの続編をコンスタントに出していれば、創竜伝を読むことは無かったと思います。
 あ、ただ銀英伝以前の短編とか、「白夜の弔鐘」は面白かったですよ。

 すみません、田中芳樹左翼説に明らかに違和感を感じたので反論してみたのですが、その辺かなり不勉強なので全然まとまってないのは自覚しています。論理的に書けるようになってからまた述べて見たいと思います。一応「ファンサイドの意見」として参考にしてくれれば幸いです。

board1 - No.1064

satokoさん&俺様ランチさんへのレス

投稿者:本ページ管理人
1999年04月09日(金) 17時10分

>satokoさん

 こんにちは。ファンの立場からの書き込みありがとうございます。


>読者が賢明で、それはあくまで小説という考えがあれば田中氏は創作者であって、権力者にはなり得ないと考えます。

 satokoさんは銀英伝がメインで創竜伝の方はノータッチと言うことですが、そうだったらこのように言いたくなる気持ちも分かります。私も、田中芳樹が銀英伝しか書いていなかったら(私の言っていることが正しいとしても)そんなことを言うのは野暮なことだと思いますから。
 それでも、私がわざわざあざとくあのようなことを緒言で述べたのは、田中芳樹が創竜伝で病的なほどの反権力思想を展開している事へのカウンターとしてです。ついでに説明しておけば、
>小説という考えがあれば田中氏は創作者であって、権力者にはなり得ない
と言うのはむしろ逆で、権力を補強するための有効な手段として物語・儀式が使われてきたのは、政治人類学で政治と儀式の関係が指摘されているのを見ても明らかです。実際ナチスの独裁政策などはゲッベルスに顕著なように「物語に始まり物語に終わる」と評されていますしね。
 残念ながら、現在の思想家で、マンガや小説に勝てる影響力を持つ人はまず居ないでしょう。


>「視聴者(または読者)はそれの中にやらせがある事をわかっていながらその事にだまされている自分に酔って楽しむべきだ。」

 創竜伝の場合は、やらせと現実が曖昧になっている点が問題であると思います。


>後少し気がついた所があったんですが、それは創竜伝を読んでみてからの次回にします。長々とすいませんでした。

 期待しています。またよろしくお願いします。


>俺様ランチさん

>「創竜伝に見受けられるとおり、田中芳樹は左翼に偏向している→だから田中はダメだ」という主張には正直賛同しかねます

 私もそう思います。左翼というレッテルを貼るのではなく、そのレッテルの内容を判断して是非を判断するべきでしょうね。ただ、一流の左翼の理論には敵である保守をも感動させうるものがあるのですが、田中芳樹の評論はそうではなく、どう見ても三流左翼のそれです(酷いのはもはや便所の落書き)。その三流の部分は批判されてしかるべきでしょう。
 それと、自分の論理を通すために、根拠なく相手を貶めるやり口も批判されてしかるべきですね。


>たぶんこのジャンルでもっと面白い作品はゴロゴロあるだろうな

 これは同感です。


>あ、ただ銀英伝以前の短編とか、「白夜の弔鐘」は面白かったですよ。

 確かに未熟さは感じさせますけど、現在よりもずっと誠実な態度ですし、熱意を文章から感じられて、私も好きです。

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