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- board1 - No.1165
北条時宗
- 投稿者:小村損三郎
- 1999年04月30日(金) 08時35分
2001年のNHK大河ドラマが“北条時宗”に決まったそうで・・・。
彼については田中氏も少し語ってますが、意外と好意的な評価をしてます。
理由は恐らく、時宗&鎌倉幕府が南宋贔屓だったから。でしょう(笑)。
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- board1 - No.1166
私もこれにて打ち止め(脇道議論すいません)
- 投稿者:Merkatz
- 1999年05月01日(土) 00時05分
まず最初にお断りをば。私は石原氏の支持者ではありません。
「支那」呼称問題については「よけいな衝突を招きやすい」という考えのもと、臆病になっている点がおかしいと思った。
「支那」という言葉そのものには差別的意味はない。にもかかわらず中国は「差別的用語である」と文句をつけてくる。
なぜか?それはこれが対日外交カードとして使われているからです。
彼らは何かと言えば歴史認識を問題にします。それを外交カードとして対日交渉を有利に運ぶためです。つい先日もそれでがっぽり稼いでいましたね。
支那問題もあきらかにその一環なわけです。
であるなら、「彼らが差別だと言うし、無用な衝突は避けるに越したことはない」と思えば思うほど、彼らの思う壺になってしまう。
ですから逆に毅然とした態度で主張した方が、かえって良いのです。「支那というのは歴史の古い呼び方で、差別的意味はその起源において微塵も無い。伝統的・歴史的呼称として、敬意を持って我々は支那という呼称を使用しているのだ」と。
卑屈になればなるほど、中国は「歴史認識」という外交カードをますます振りかざしてきます。一方的に卑屈にならねばいけない関係が、まともな国家の付き合いと言えるでしょうか。真に日本が中国の友人たらんと思うのなら、毅然とした態度で友人の悪癖を注意してあげれば良いのです。ミッターマイヤーとロイエンタールのようにね。媚びへつらいから真の友情は生まれません。
現在の彼らを何と呼ぶかは、私は「中国」でよいと思います。中華人民共和国、略して「中国」。で、歴史事実や地名なんかは「支那」を使うべきだと思う。日中事変ではなくて「日支事変」ね。孫文の革命のあたりなんかも「支那」で全然構わないと思います。
支那うんぬんより、石原氏の中国蔑視の感情自体が問題だというのはまったく賛成です。彼の場合、そもそも中国に対する差別感情があって、それを言うのに言葉の起源も知らない「支那」という語句を使用しているのでしょう。
中国が支那は差別用語だと言うから、じゃあ使ってやれという幼稚な発想ではないでしょうか。こういう輩が伝統的な言葉を差別用語に転落させてしまうんですよね。困ったものです。
台湾については正統性の問題ではないでしょうか。
建前上は中華人民共和国が正統(つまり中華民国から権力を継承している)なのだから、台湾の政府が「中華民国」「中国」と呼ばれたらおかしいのでは?あくまでも自称、僭称でしょう。「銀河帝国正統政府」といっても、実際はラインハルトの方にあって、彼らは逆賊でしかなかったみたいに。
国際的に中華人民共和国が正統と認められているわけですから、彼らだけが中国と呼ばれて、台湾は「台湾」と呼ばれるのは当然だと思います。台湾を「中華民国」と呼ぶことは中華人民共和国の正統性を認めないぞと公言するようなものでしょう。
台湾が「台湾」と公称しないのは、自分で自分を「逆賊」と言わないことと同じでしょう。しかし公的には中華人民共和国=正統政府、台湾=逆賊ですから、「中国」、「台湾」となって当然でしょう。
前回の訂正
呉英知氏→呉智英氏 m(_ _)m
今、創竜伝7巻を読んでいるんですが、あまりの中国礼賛にぶち切れ状態。で、タイムリーなことに掲示板に「支那」について書いてあったから、つい書き込んでしまいました。
ですから私には、田中芳樹と全然無関係でもなかったわけです(うぅ、苦しい言い訳・・・)。
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- board1 - No.1167
右翼・田中芳樹を撃つ
- 投稿者:冒険風ライダー
- 1999年05月01日(土) 07時21分
今まで私は、「私の創竜伝考察シリーズ」で田中芳樹の左翼的な論調ばかりを批判してきました。そこで今回はちょっと視点を変え、田中芳樹の右翼的一面を指摘してみようかと思います。
日本においてはあれほどの正論(?)を展開して日本を批判していらっしゃる田中芳樹大先生が、中国になると突然慈愛に満ちた(笑)論調を展開しているのは不思議な限りです。しかもその論調たるや、田中芳樹が日本で批判している「右翼の軍国主義者」も真っ青な主張です。それが最もよく表れているのが田中芳樹の中国小説「紅塵」です。
この「紅塵」という小説を知らない方のために簡単に説明いたしますと、この小説の舞台は後世でいう「北宋末期~南宋」の時代で、金の「侵略」に対する宋の戦いを描いたものです。一応宋の名将という設定になっている韓世忠の息子である韓子温が主人公なのですが、物語の序盤と中盤は思い出話や回想モードなどでしょっちゅう話が過去へ脱線しますので(笑)、宋の時代に関する歴史教科書とでも思えば良いでしょう。
そしてこの小説には、過去の回想モードで岳飛と秦檜も登場します。あれほど岳飛を尊敬している田中芳樹ですから、当然岳飛=善・秦檜=悪の構図で書かれています。「金の侵略に対して戦う正義の岳飛」「その岳飛を無実の罪で処刑した悪の秦檜」と、これまたえらく単純な構図で書かれているんですよね~。
しかし田中芳樹のこの認識は果たして正しいのか? 何か抜けている視点がないのか? それらを少し指摘してみる事に致しましょう。
まず、当時の宋が金を倒す事ができたのか? 金の「侵略」から宋(この場合は南宋)を守る、というならばできたでしょう。攻め手の金は補給線が常に不安定で、しかも長江を渡ってこなければならないし、地の利は守り手である宋の側にあります。さらに田中芳樹の言う「抗金名将(こうきんのめいしょう)」とやらは、「紅塵」を読んだ限りでは無能ではなかったようですから、「侵略者」を撃退する事はできたでしょう。歴史でも、金が宋を完全に屈服させる事はできなかったのですし。
しかし逆に宋が金を攻撃する、となると話は変わってきます。攻め手と守り手が入れ替わるのですから、金にとって不利だった条件がそっくりそのまま宋にかえってくるわけです。しかも水軍はともかく陸の軍事力では金の方が圧倒的に上です。「紅塵」でも、後半部分で完顔亮の「遠征」軍が60万に対して、迎撃する宋軍は20万ぐらいしかありません。多少誇張はあるにしても、金が宋以上の軍事力を持っているという証です。金に「遠征」するとなれば、いくら「抗金名将」でも苦戦はまぬがれないでしょうし、補給や国力の問題があるため長期戦になれば撤退するしかありません。まして、「遠征」で大打撃を受ければ、それこそ金の逆襲によって宋が滅亡する危険性もあります。銀英伝のアムリッツァにおける同盟軍のように。
上の事情を考慮すると、宋も金もたがいを滅ぼす事ができない以上、だらだらと戦いを続けるしかないわけで、これを止めるには和平が一番有効な手段です。だから私は、宋と金の和平を推進した秦檜がそれほどひどい外交をしたとは思えません。彼は彼なりに宋という国のことを考えていたのでしょうし、和平によって宋が経済的に繁栄したのも歴史的事実です。むしろ岳飛の方が現実無視な軍事的冒険を主張していたのであって、彼のいう通りにしていたら、宋はもっと早く滅亡していたかもしれません。だいたい、いくら秦檜が金にたいして屈辱外交をしていたとしても、日本の旧社会党のように宋の「過去の侵略行為」を金に対して謝罪したわけではないでしょう。私はこの一事だけで秦檜を支持しますね。
なんでここで日本の謝罪外交をだしたかと言いますと、1995年の謝罪外交を大半のマスコミ(特に朝日と毎日系)が支持しているのを知ったときに、ふと秦檜の事を思い出し、「秦檜も現代の日本に生まれていれば賞賛されただろうに」と考えたからです。そして、創竜伝で田中芳樹が日本の謝罪外交を支持しているのに、なぜ「紅塵」であれほど秦檜を否定するのかも疑問に感じました。明らかに二重基準だと思いましたからね。「時代背景や歴史が違うだろ」という意見もあるでしょうが、宋だって金に対して「侵略行為」を行っているのですよ。その部分を「紅塵」から引用してみましょう。
紅塵 P119~P120
<宋の政和八年(西暦1118年)、老大国の宋と新興国の金との間に密約が結ばれた。宋の密使は、山東半島から船で海を渡り、遠く金の首都上京会寧府をおとずれたのである。密約の内容は、南の金と北の宋とが同盟し、中間にある遼国を挟撃して滅ぼそうというものであった。両国とも、遼には往古からの怨みがあったのである。
激戦をかさねた末、宋の宣和七年(西暦1125年)に至って、遼は完全に滅びた。共同作戦といっても、宋軍はまるで役にたたず、金軍はほとんど独力で遼を滅ぼしたのである。同盟は成功したのだ。
ところが遼が滅びた後、宋は金が広大な領土や莫大な財貨を手にいれたことがおもしろくない。蔡京や童貫といった『水滸伝』に登場する奸臣たちが陰謀をめぐらした。遼の残党をあやつって、金国の内部で叛乱をおこさせたのである。それも一度でなく二度も、であった。叛乱を鎮定し、陰謀の存在を知って金国は激怒した。実力で謝罪させてやる、とばかり進軍を開始する。あわてた宋では、徽宗が皇太子に譲位して上皇となった。皇太子はここに欽宗皇帝となる。宋は金との間に和平交渉をはじめる。ところが、それを不満とした主戦派が、停戦条約を破って金軍に急襲をかけたのだ。
「礼教の国」と自称する宋が、3度にわたって背信行為をおこなったのである。またもや金は激怒した。すでに遼を滅ぼし、西夏を屈伏させて、武力には自信をいだいている。急襲にもひるまず、猛然と反撃に転じ、宋軍に大損害を与えた。若き太子たち、宗望や宗弼らの勇戦によるものであった。
野心と実力を兼ねそなえた強敵に、宋は口実を与えてしまったのだ。当時の政治の実力者、蔡京や童貫らの責任はきわめて大きい。彼らが亡国の責任者として非難されるのはしかたないことであろう。>
このように、宋にも金に対する「過去の侵略行為」というものがあるわけで(それも3回も)、日本の謝罪外交を支持した田中芳樹の論理でいくと、宋も「過去の侵略行為」に対して金に謝罪しなければならず、「平和外交」を推進した秦檜を賞賛しなければならないはずなんですけど、もちろんそんな主張を田中芳樹はやっていません。
そして責任の押しつけ方が日本の時の記述とは大違いです。日本の場合は、国ないしは国家と国民全体に対して責任を押しつけて「日本は侵略国家だ、国民は反省していない」などと主張するくせに、中国(この場合は宋)になると「当時の政治の実力者、蔡京や童貫ら」のような「権力者」だけしか責任を問われていません。さらに田中芳樹の論理では、中国は昔から革命が乱発している「自主性のある民度の高い国」なのですから、皇帝や臣下だけでなく、金に対して「侵略行為」を起こすような愚劣な政治体制を産み落とした宋の「臣民」の責任も、当然問われて然るべきでしょう。特に「右翼の軍国主義者」である岳飛の罪はたいへん重いものがあります。民衆を煽って金と無益な戦争をし、無用な犠牲者を敵味方双方に大量に出したあげく、さらに金と戦争したいがために秦檜の和平案に反対したのですから。「大量殺人罪」と「平和に対する罪」ぐらいは適用できるのでは?(笑)
それに「紅塵」では岳飛=愛国者=善、秦檜=私利私欲の怪物&売国奴=悪なんて視点で書かれているのも笑止な限りです。田中芳樹は日本の「愛国者」を創竜伝であれほど罵倒しているのに、中国の「愛国者」になると突然賞賛するのですから呆れ果てたものです。要するに、この人は愛国者全てを否定しているのではなく、「日本の愛国者」だけを否定しているのでしょう。思想的には「日本の左翼」というよりは「中国の右翼」なのでしょうね。田中芳樹は。
その「中国の右翼」田中芳樹が展開している、岳飛が殺された当時の事情と岳飛に対する評価は次の通りです↓
紅塵 P183~P184
<惨劇が生じたのは宋の紹興十一年(西暦1141年)冬の事である。
時の丞相秦檜は最終的な決断を下した。金国と和解する、そのために邪魔になる岳飛を殺す。
かなり皮肉な形で、和平は困難になりつつあった。岳飛、韓世忠らの奮戦によって、宋軍は各地で金軍を撃破し、勢いに乗っている。一方、金国では事実上の最高指導者である大太子宗幹が急死して内紛が生じ、また遼の残党が大規模な叛乱をおこしていた。いまや金国のほうが和平を必要としていたのだ。機を逃せばずるずると戦争状態がつづくことになりかねない。
(中略)
岳飛は和平に対して徹底的に反対をつづけていた。彼は原則主義者であったから和平に反対したのだが、鋭敏な感覚で、秦檜が推進する和平案にいかがわしさを感じてもいたのだ。いま和平を必要としているのは宋よりもむしろ金であり、金の指導部と密かに結託した秦檜自身ではないのか。
まだ三十代の岳飛が、韓世忠をすらしのぐ宋随一の名将として、どれほどの武勲をあげてきたか。例をあげれば際限がない。農家の家に生まれ、二十歳で義勇軍の隊長となった。徽宗や欽宗の御宇には、もっぱら各地の賊徒を討伐して功績をあげた。金軍が侵入してくると、黒竜潭や?城などでかがやかしい勝利をあげた。洞庭湖で強大な勢力を誇っていた賊軍を、単独で滅ぼした。わずか八百の兵で五万の敵を撃破したこともある。深く金国の領土に進撃して、かつての首都開封の近くにまで迫ったこともあった。彼のひきいる部隊「岳家軍」は金軍に恐れられ、「山を憾かすは易し、岳家軍を憾かすは難し」とまでいわれたのである。>
はっきり言って岳飛を賞賛しすぎです。創竜伝4巻で日本の東郷平八郎を「一局地戦の指揮官」という一言で斬り捨てたのはどこのどなたですか? 岳飛が「秦檜が推進する和平案にいかがわしさを感じてもいた」のは、私に言わせれば「鋭敏な感覚」ではなく「軍国主義者の妄想」でしかないんですけど。
「いま和平を必要としているのは宋よりもむしろ金であり、金の指導部と密かに結託した秦檜自身ではないのか」
って、この人は宋と金の軍事力の格差を過小評価しているのではないでしょうね。金が騒乱状態にあるからこそ「今が和平の好機」と秦檜は判断したのでしょうし、そもそも「金の指導部と密かに結託した」というのは何を証拠にそんな事を主張しているのでしょうか。
一応その「証拠」の記述はあるのですけど、
紅塵 P46
<もともと秦檜は、徽宗や欽宗が金軍の捕虜となったとき、やはり捕虜となって北方へつれさられたのである。それがやがて無事に帰ってきたので、人々はおどろいた。秦檜自身は平然として、悪びれたようすもない。
「監視の金兵を殺して、生命がけで脱出してきたのだ」
そう秦檜は説明したが、これは誰も信じなかった。秦檜は妻子や従僕を全員ひきつれ、家財道具までかかえて悠々と帰ってきたのだ。兵士を殺して脱出したにしては、追跡者の姿もないではないか。そして帰国直後から宮廷に復帰すると、秦檜は、たちまち和平派の領袖として宰相にのしあがっていった。人々は推測し、結論を出した。秦檜は金国の重臣と密約を結び、和平を推進するという条件で帰国を許されたにちがいない、と。>
「人々の推測の結論」とやらを証拠にするとは、岳飛も相当にヤキが回りましたか。それが完全に正しいという証拠でもあるのですか? もし秦檜が「金の重臣と密約」をしていたのならば、岳飛のいうがままに「遠征」させた上で、その作戦を妨害したり、敵に情報を流して大敗させれば良いのです。第一、宋を一方的に平定し、勝利の勢いに乗っていた当時の金が、なぜ宋と和平を結ぶ密約を秦檜と結ぶ必要があるのですか?
秦檜と岳飛が和解する事など不可能です。話し合いで解決がつかないのですから、当時の常識で考えれば、和平を推進する秦檜が、自分の意見と対立している岳飛を殺したのは当然です。もし秦檜が岳飛を殺さなければ、和平の妨害にもなったでしょうし、逆に岳飛が秦檜を殺していたかもしれません。政治闘争に「完全な善」と「完全な悪」などありません。勝った者と負けた者があるだけです。
一方、秦檜は次のように酷評されています。
紅塵 P127~P128
<異民族に対して頭をさげ、屈辱にたえねばならないのは、秦檜ではなくて高宗皇帝である。平和を買うために多額の歳貢を支払うのは、秦檜ではなくて租税をおさめる民衆である。講和条約のために終生、北方の荒野に抑留されて望郷の涙を流すのは、秦檜ではなくて欽宗皇帝である。同じく講和条約のために無実の罪で虐殺され、一族を流刑に処せられたのは、秦檜ではなくて岳飛である。
何ひとつ秦檜は失っていない。そして和平成立の大功績は、ことごとく彼の手に帰した。秦檜という人物が、他人の犠牲を自分の利益に転化させる芸術家であったことがよくわかる。>
何とまあひどい記述ですね。「右翼の軍国主義者」が喜んで主張しそうなセリフですな。それほど金と和平した秦檜が憎いのですか。ならば日本の謝罪外交を推進した愚劣な社会党も同じように論じてくださいよ。田中芳樹の論理は全く首尾一貫していません。何の理由もなく日本と中国でこれほどまでに違う主張をしていては、「二枚舌」といわれても仕方ないでしょうね。
そして「紅塵」のなかで一番ひどい主張が次の一文です。
紅塵 P199~P200
<平和ほど庶民にとってありがたいものはない。だが庶民にとっても、岳飛の死は傷ましかった。岳飛は不敗の名将であり、軍律は厳しく、たとえば張俊や劉光世の軍のように自国民から掠奪することを厳禁した。それだけでも岳飛は賞賛されるべきであった。庶民は声をひそめて、岳飛の武勲をほめたたえ、一方で権勢をほしいままにする秦檜をののしった。
「両国の和解は私が成立させた。この平和と繁栄は私の功績だ」
秦檜はそう自負していたが、彼に対して感謝する庶民は、おそらくひとりもいなかったであろう。庶民が感謝した相手は岳飛だった。岳飛が侵略者に対して善戦し、ついには無実の罪を負って死んだからこそ、和平がなったのだ。
(中略)
一方で、秦檜を弁護して、つぎのような主張をすることも可能である。
「秦檜の政策によって、南宋は平和と繁栄を手にいれることができた。その功績に比べれば、無実の人間に汚名を着せて殺すぐらい、ささいなことではないか。無知な民衆に憎まれる秦檜こそ被害者というべきだ」
ただし、この論法は、秦檜自身でさえ公言したことがない。詭弁にも限界があるということであろう。>
私が今回、秦檜の弁護のために展開している論法は、田中芳樹が言う「詭弁」なんですけどね~(^_^)。彼の歴史を見る目がこの記述に見事に表れていますね。歴史を見る視点が単眼な上、それ以外の視点を否定しているのがよく分かります。だから創竜伝でも中国礼賛や日本罵倒しかできないし、建設的な批判ができないのでしょう。
それに「庶民が感謝した相手は岳飛だった。岳飛が侵略者に対して善戦し、ついには無実の罪を負って死んだからこそ、和平がなったのだ」って、そこまで岳飛に肩入れする事もないでしょうに。それはあんたの個人的な思い入れでしょう。「侵略者」から宋を守る事は岳飛でなくてもできたでしょうけど(「抗金名将」は岳飛だけではない)、金と和平を成立させる事は秦檜にしかできなかったのですよ。「侵略者」を撃退したから和平がなったのではなく、和平がなったから「侵略者」が侵略してこなくなった、という事が理解できないのでしょうか。政治の方が軍事よりも上であることくらい、田中芳樹も知っているだろうに、なぜこんな記述をするのでしょうね。
それにしても創竜伝であれほど「限界のない詭弁」を弄している田中芳樹が、「詭弁にも限界があるということであろう」などと主張するとは笑止な限りですね。そもそも田中芳樹が創竜伝で展開している社会評論は、「限界のない詭弁」ではないのですか? 創竜伝の左翼論調を当時の宋に当てはめると、下のような社会評論になるのではないでしょうか。
<「異民族に対して頭をさげ、偉大なる宋の名誉を傷つけた」などと民衆から誹謗中傷を浴びせられるのは、高宗皇帝ではなくて秦檜である。金との講和条約を苦労して結んだのは、当時の岳飛の右翼思想に汚染された愚鈍な民衆ではなくて秦檜である。自らの無能のために国を滅ぼすまいと宋のために必死になっていたのは、皇帝としての責任感なき欽宗皇帝ではなくて秦檜である。そして和平によって宋の経済的繁栄をもたらしたのは、自己中心的な誇大妄想にとりつかれて最後まで和平に反対した岳飛ではなくて秦檜である。
宋の平和と繁栄のために非常に多くのものを秦檜は失った。そして「中国の英雄」という名声は、ことごとく岳飛の手に帰した。岳飛という人物が、他人の汚名を自分の名声に転化させる芸術家であったことがよくわかる。なんでこんな人物が「中国の英雄」などと称えられるのか全く理解に苦しむ。本当の英雄とは、人々の反対を恐れずに平和に尽力した秦檜のような人を言うのであって、一局地戦の指揮官の分際で「和平反対」などと絶叫した岳飛などは、「右翼の軍国主義者」「平和の敵」「大量虐殺者」として糾弾されるべきではないか。平和が何よりも大事なのだという事が、岳飛には全く分かっていない。
岳飛の増長を招いたのは、当時の宋の庶民にも責任がある。平和ほど庶民にとってありがたいものはないはずなのに、無知蒙昧なる庶民は、和平よりも岳飛の死の方に関心があったようだ。確かに岳飛は不敗の名将であり、軍律は厳しく、たとえば張俊や劉光世の軍のように自国民から掠奪することを厳禁した。しかしそんなことは軍として当然の事であり、特別に賞賛すべきことではない。むしろ当時の軍隊が「自国民から掠奪」するような羞恥心欠乏症な人間の集団であったことが問題視されるべきであろう。庶民は声をひそめて、「右翼の軍国主義者」である岳飛の武勲をほめたたえ、一方で金との和平の大功労者である秦檜をののしった。それほど秦檜が憎いのならば影でこそこそと陰口を叩かずに、革命でも起こして宋もろとも秦檜を打倒すべきだったではないか。それなのに、結局彼らは秦檜にしたがったわけであり、当時の宋の庶民に自主性がなかったことの、何よりの証である。彼らの罪もかなり重いとみなさなければならない。
一方で、岳飛を弁護して、つぎのような主張をすることも可能である。
「岳飛の善戦によって、南宋は侵略者を撃退することができた。その功績に比べれば、和平を妨害し、無用な戦争によって大量の死傷者を敵味方双方に出した事くらい、ささいなことではないか。民主主義の原則から言えば、民衆に尊敬される岳飛こそ被害者というべきだ」
ただし、この論法は、岳飛自身でさえ公言したことがない。詭弁にも限界があるということであろう。にもかかわらず、岳飛は800年以上にもわたって不当な名誉を与えられ続けてきた。いいかげんに名誉を剥奪し、現在の法律で岳飛を裁く人民裁判を開廷すべきである。そして秦檜の名誉回復をこそ、やらなければならないことではないだろうか。
そして今からでも遅くはない。岳飛をはじめとする軍人どもと、それを熱狂的かつ盲目的に支持した宋の「臣民」たちがしでかした、800年前の金に対する「過去の侵略行為」の罪を、宋の後継者である今の中国政府は、女真族に対して公式の場で謝罪すべきである。「過去の侵略行為」を直視してこそ、自国の歴史と文化に対して誇りをもてるのだから。>
う~ん、我ながらものすごい左翼評論だ(笑)。こんなの出したらマジで発禁になってしまうわな。中国政府から「同志岳飛をそこまで貶める小説など発禁にしろ」なんて内政干渉されたりして(^^;)。
創竜伝といい、紅塵といい、どうも小説の中に田中芳樹個人の主観的な思い入れが入り込みすぎているような気がしますね。日本批判では「日本憎し」の感情が、中国礼賛では「中国大好き」な感情が込められているのがわかりますから。そこまで思い入れがない大半の読者にとってはたまったものではありません。小説としての面白さが損なわれる事はなはだしいのですから。
今回はあえて秦檜の弁護と岳飛の糾弾をやってみました。どうも「紅塵」における秦檜の記述が一方的であると感じたもので。
次からは再び創竜伝の批評に戻ります。
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- board1 - No.1168
田中芳樹の認識 <岳飛と秦檜>
- 投稿者:小村損三郎
- 1999年05月01日(土) 15時07分
岳飛と秦檜について田中芳樹氏は『中国武将列伝』という本にも書いて(語って?)いますので、参考までに該当部分を引用してみましょう。
(この本、どうやら書いたのではなく、インタビューかなにかで語った内容を編集したものみたい。彼の語りはアレですが、各ページにその名将のイラストが挿入されていて、これがなかなか。中国史が好きな人はこれだけでもまあ買ってもいいかな、という感じ)
<(秦檜について)
ただし、非常に有能な人ではありましたから、たちまち高宗皇帝のお気に入りになって、そこで和平論を唱えはじめました。つまり、金が攻めてくる、それに抵抗してがんばってはいるんだけども、永遠に戦いをつづけるわけにはいかないし、一挙に北上して全国土を回復するというわけにもいかない、もう和平したほうがいいということですね。それはそれでもっともな主張ではあります。実際の話、財政的にもかなり苦しい状態でしたから、和平したほうが良いというのは、けっしてまちがった意見ではありません。
それで、秦檜は朝廷の実権を握って、和平策を推進することになるんですが、当然反対派がいるわけですね。岳飛がその急先鋒でした。
(中略)
結局、秦檜は、トータルで見てみると、どうしても和平を利用して自分の地位を固めたとしか見えないところがあります。とにかくこの和平によって秦檜は何ひとつ失っておりません。たとえば、金の捕虜になって北方につれ去られていた欽宗皇帝なんかは、もうそのままずっと幽閉されて死ぬわけです。岳飛なんかは無実の罪で殺されてしまいます。そういう犠牲の上に和平が成り立ったわけですけど、秦檜自身は何を失ったかというと、何も失っていない。得るものばかりでした。
ですからぼくがちょっとそこらへんの時代を小説に書いたときに(注・『紅塵』)、秦檜というのは、要するに祖国のために涙をのんで悪役を引き受けた自己犠牲的な人物だった、という解釈ができるかどうか、ずいぶん検討してみましたけど、全然無理でしたね。
(中略)
とにかくそれで、平和にはなったので、宋は経済開発に勤しんで、高宗皇帝自身が詔を出して、海上貿易を盛んにせよ、みたいなことをいっています。それで商業も農業も発展して、豊かな国になったわけで、その点では秦檜の和平策というのは、政策としてはまちがっていなかったと思われます。ただし、政策以前に問題になるのが、無実の人間に謀反の汚名を着せて殺してもいいのかということですね。政策さえ正しければ無実の人間を殺すくらいささいなことだ、という見方もできるでしょうけど、これは当の秦檜でさえ、そういうことはいっていないですからね。彼は反対派を弾圧したり暗殺したりしましたが、さらに歴史書を改竄もしております。
(中略)
日本でも、だいたい昔から岳飛というのは、あっぱれ忠臣である、忠義の名将であると誉められていたんですけども、日中戦争が始まると、岳飛といのはいわば外国からの侵略に対する抵抗のシンボルですから、日本にとっては都合が悪くなって、岳飛の悪口を言うようになりますね。それで、当時の外務省のお役人が、「支那は秦檜に学べ」なんてタイトルで論文を書くわけです。要するに日本と和平を結べといっているわけですが。ただこれが根本的にまちがっているのは、秦檜という人は、無実の人間を殺して国を売って、自分ひとり栄耀栄華をきわめた極悪人ということになっていますから、そのときに中国側に日本と和平しようと考えていた人がいたとしても、秦檜に学べといわれたら絶対に応じるわけにはいかないんですね。だから、そのていどのことも、日本の政府はわきまえていなかったということです。つまるところ、まじめに和平しようなんて考えていなかったといわれてもしようがないですね。>
>右翼・田中芳樹
大体、戦時中の“尽忠報国”というスローガンは岳飛が背中に入れていた刺青の文句が元ネタですよね(笑)。
>今、創竜伝7巻を読んでいるんですが、あまりの中国礼賛にぶち切れ状態。
礼賛すること自体は一向に構いませんが、あたかもそれに対比させるような形で私たちの祖国を貶めて喜んでいるような姿勢が感じられるから、余計に頭に来るのでしょう。
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- board1 - No.1169
岳飛ネタ&嫌味をちょっと
- 投稿者:俺様ランチ
- 1999年05月01日(土) 16時04分
いくらなんでも、歴史小説の世界観にケチをつけるのはあんまりでしょう。歴史小説に書いてある内容から作家の考え方を云々するのは、いちゃもんつけ以上には思えません。
んな事言い出したら、陳腐な反論ですが「日本の戦国時代を書く作家の言うことにもいちいちつっかかるのですか?」となってきます。
「乱世」を書いた歴史小説を読む人とかは多かれ少なかれそんな時代に憧れる気分を持ってるものでしょう。理性では「実際そんな時代に生まれたらたまったもんじゃなかった」とわかってはいても。
だから、歴史小説に書いてある内容から作家に文句をつけるのはナンセンスだと思いますよ。
あと、冒険風ライダーさんへ。
あなたの批判、「秦檜が無実の罪を着せて岳飛を殺した」という部分を意図的に無視あるいは小さく扱おうとしているように思えるのですがどんなもんでしょうか。
田中芳樹だって「秦檜の和平論自体は間違ってない」とキチンと認めた上で、「でも無実の罪で殺すってのはスジが通らない」と言っている訳で、別段見当違いなことを言っているようには思えません。それと「権力闘争だから仕方なかった」ってのはまた別問題でしょう。田中芳樹はあくまで「スジ」の話をしているわけで。
あと、岳飛の入れ墨「尽忠報国・精忠岳飛」ってのは現代で考えると十分アレな内容、ってのは田中芳樹自身が中国武将列伝だったかどうかは忘れましたがちゃんと言ってましたよ。別に岳飛だったらなんでも許す、ってわけでは無かったはず。
あのですね、ここの議論、前から見てて今も見続けててやっぱり思うんですが、無理が多いですよ。「他の作家だってそんなところまで突っつかれて人格疑われたらたまんないだろう」と。
例えばちょっと古い話なんですが、「アルスラーンで騎兵が8万5千もいるのはおかしい」なんて文句つけたって、「それくらい騎兵を揃えられる、馬と草と平原の有り余った世界のオハナシ」なんですから。それ以前に「万騎長ってのが出てくるオハナシ」って事はアルスラーンという作品の基本中の基本なのに、アラを探すのに夢中で作品をよく読んでなかったとしか思えないですよ。
「作中の主張や表現への批判で成り立ってるサイトだから」と言うのはわかるんですが、もうちょっと誰が読んでも納得できる批判をして下さいよ。欲を言えば「右の人も左の人も納得できる、誰が見ても間違った内容」を批判していただきたいな、と。
最近の議論、「右同士なら共感できるんだろうけどなあ」ってのが多いのでちょっとひいてます。
それと一般論ですが、批判する内容の文章に(笑)をつけてもいやみったらしいだけで読んでて笑えないです。そういうのが付いてると個人的には文章の説得力が落ちる気がするんですがどうでしょうか。
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- board1 - No.1172
提案です
- 投稿者:本ページ管理人
- 1999年05月01日(土) 17時34分
>「作中の主張や表現への批判で成り立ってるサイトだから」と言うのはわかるんですが、もうちょっと誰が読んでも納得できる批判をして下さいよ。欲を言えば「右の人も左の人も納得できる、誰が見ても間違った内容」を批判していただきたいな、と。
> 最近の議論、「右同士なら共感できるんだろうけどなあ」ってのが多いのでちょっとひいてます。
自戒の念も含め、同感。
田中芳樹の図式重視現実無視の姿勢は批判されてしかるべきですが、この左的図式重視を批判するのに当たって、右的図式重視をやったら敗北です。相手と同レベルではなく、それ以上のレベルの論を展開しなければ、有効な批判にはならないですから。
たとえば、共産党の人間に「ウヨク!」と叫べばこれは罵倒語ですが、愛国党の人間に「ウヨク!」と叫んでも何のダメージも与えられません。レッテルというのはそういうものであって、最近ここで増えている「田中芳樹は反日売文家だからな」という論理は、結局田中氏をほくそ笑ませるだけの結果に陥るような気もします。私が小林よしのりシンパでもないのに「小林よしのり信者」と罵倒されても全然痛くもないどころか、向こうのバカさ加減がむしろ嬉しいように。
創竜伝のなかで、彼は敵役に竜堂兄弟を「この非国民の共産主義者!」という罵倒をさせて悦には入っています。その兄弟の「とうちゃん」とやらを「反日売文家」と罵ったところで、それは批判にはならず、相手を喜ばせるだけです。
そういった理論の面以外でも、レッテル貼りは出来合いの言葉を羅列するだけのインスタントな批判になりがちだという欠点があります。
そこで、管理人からの提案なのですが、「反日」「左翼思想」「共産主義者」という類のレッテル用語を使わないようにしませんか。一切使ってはダメというわけではなく、使う場合は「反日」「左翼思想」がどのようにダメなのかを明確に説明し(例:創竜伝は政治家や資本家は性悪という、いわゆる左翼的図式に依拠しているが、この図式は現実に即していない。なぜならば…)、言葉自体を悪の代名詞的なレッテルとして使わないようにしよう、ということです。
無論、強制ではなく、推奨ですので、皆さんの意見を束縛するものではありませんが、どうですか?