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- board1 - No.1463
法的問題とヤン・ウェンリー
- 投稿者:satoko
- 1999年07月05日(月) 16時38分
フィルさんへ
いろいろ教えていただいて、ありがとうございます。三浦和義ロス疑惑についていろいろ調べてみましたが、とても興味深かったです。m(--)m
で、それを調べてから「宴のあと」事件また、柳美里の判決について詳しく調べてみた所、これらは名誉毀損とは違ったもののようです。ごめんなさい。
あと私の書き方が悪くて、冒険風ライダーさんやその他の方に誤解を与えてしまいましたが、判例法が適用されると思われるのは、民事裁判においてのことで、刑法の名誉毀損罪ではないのです。損害賠償を伴う民法上の名誉毀損で敗訴になる事は十分にあると考えられますが、刑法はあくまで、罪刑法定主義の狭義の法とされているので、表現の自由が憲法で保障されている中で名誉毀損罪が適用されるまで行くかどうかは・・・う~んとおもってしまいます。その辺はもっと詳しい方の判断に委ねたいと思います。
で、柳美里や三島由紀夫の判決なんですが読んでみると名誉毀損ではなく、あくまでプライバシーの侵害というものが全面的に認められたもののようです。名誉毀損というものは、本人がどう思うかではなく、社会的にその表現が事実に基づいたものではなくその人物の評価を下げるものであった、というもの。プライバシーの侵害はあくまで本人が公に私事をばらされる事でどのように感じたかという事に重点を置かれています。
田中氏の文章は名誉毀損にはなっても、プライバシーの侵害には当たらないと思う。つまり、柳美里の判決が創竜伝で適用される事はないと考えます。(かさねがさね冒険風ライダーさんごめんなさい。)
ちなみに三浦和義氏が名誉毀損訴訟で勝訴になった大きな要因の一つに「氏を犯人であると決め付けることで世間の人に判決の方が間違っているのではないかという疑いを持たせるものであった。」というものがあります。ふ~ん、なるほどね~(にやっ)とする人いるかな~(笑)
ベルセルアイクさんへ
レスが遅れてすいません。そんなつもりはないのですが言葉がきつくなったらすいません。
銀英伝は架空歴史小説ですし、その解釈は広くていいと思うのですがベルセルアイクさんの解釈でどうしても理解できないのは「ヤンが民主主義は死んだと判断した。」ということと「自主的に同盟を倒す側に回った。」という点です。
ベルセルアイクさんがおっしゃるようにヤンがそれほどの冷酷な部分を持っていたなら、彼の目的を果たすのに一番手っ取り早かったのは同盟でクーデターが起こった時点でヤンはラインハルトの策謀と見抜いていたわけですから、片棒担いでしまえばよかったわけです。でもそうしなかったのはなぜか。それはヤンが救国軍事同盟に言った言葉にあると思います。
「政治家がリベート(つまり個人的な欲求を満たすもの)は政治家個人の腐敗であって政治の腐敗ではない。政治の腐敗とはそれを指摘する事のできない状況になる事だ。」
つまりこれが彼の民主主義が死んだかどうかという基準であると思います。それを考えた時、ヤンがシャーウッドの森を作っておいたり、また同盟を脱出した後に同盟への復帰を最後まで望んでいた理由はあくまで同盟をつぶす事ではなく、民主主義を殺してしまう要因である帝国に対抗するためのものであったものだと私は考えます。
あともう一つの「自発的に行動したか」という点では、前回も書いたと思うのですが「シャーウッドの森を作っておく事自体無駄になるかもしれない。」というヤンの発言の通り、特に何かの要因がなければヤンは動くつもりはなかったんだと思います。そういう状況に追い込まれての、ある意味仕方ない行動であったと思うんですが・・・。
ホントにいろいろな解釈のできる銀英伝。奥が深いですね。(^^)
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- board1 - No.1464
ほっんとごめんなさい!
- 投稿者:satoko
- 1999年07月05日(月) 16時47分
ベルクアイサルさんへ
名前をベルセルアイクさんとまちがえてしまいましたほんとごめんなさ~~~い。ベルセルクのよみすぎです。(笑)ほんとごめんなさい。
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- board1 - No.1465
参考になるかどうか
- 投稿者:本ページ管理人
- 1999年07月05日(月) 17時02分
主要交通機関が馬車や帆船の世界では、だいたい平方キロメートル当たりの人口密度が3~20人ぐらいのようです。
ちなみに、3人/平方キロは大体現在のカナダ程度、20人/平方キロは現在のスウェーデン程度です。現代日本の人口密度は320人/平方キロ、東京都では5400人/平方キロ程度だということです。ですから、当時の日本の人口が600~700万人という仕立て屋さんの説はおよそ妥当な線だと思います(ってちゃんと資料当たればいいんだけど)。
人口密度10人/平方キロメートルを前提とした場合、平均的国家の人口と広さは次のようになります。国家規模は中世国家の参考です。
1万人 1000平方キロ(広さは東京都の半分程度。国家規模は地方の豪族程度)
10万人 1万平方キロ (広さは岐阜県程度。国家規模は江戸時代の小藩程度)
100万人 10万平方キロ (広さは北海道より少し広い程度。国家規模は中世日本や中世ヨーロッパ諸国。ルシタニア?)
1000万人 100万平方キロ (広さは現在のエジプト程度。国家規模はローマ帝国や中華帝国。パルス国はここでしょう)
1億人 1000万平方キロ (現在の中華人民共和国程度。国家規模はモンゴル帝国)
で、パルス国ですが、今までの掲示板を参考にすると、人口2000万、領土が143万平方キロ、ということですので、人口密度はおよそ14人/平方キロということで、中世国家としてはかなり肥沃な国であることがわかりますね。
以上のように考えれば、地方で10万都市がそんなにも林立している状況は江戸時代の封建制のようなものであり、決してあり得ない状況ではないと思います。
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- board1 - No.1466
ただ
- 投稿者:本ページ管理人
- 1999年07月05日(月) 17時10分
つまらないことですが、この規模の国家になると、もはや多民族国家にならざるを得ないでしょうから、「パルス王国」というよりかは「パルス帝国」ではないかと。
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- board1 - No.1468
いろいろ
- 投稿者:本ページ管理人
- 1999年07月05日(月) 17時36分
>TAKAKOさん
はじめまして。よろしくお願いします。私のコンテンツに興味を持っていただけたのでしたら、ちょっと大変ですけれど(もうメガ単位)過去ログに一通り目を通されることをおすすめします。量は多いですけれど、中身は興味深い論議なので意外とあっさり読めると思います。
>No. 1463
>田中氏の文章は名誉毀損にはなっても、プライバシーの侵害には当たらないと思う。つまり、柳美里の判決が創竜伝で適用される事はないと考えます。
「宴のあと」も柳美里の小説もキャラクター自体はあくまで「フィクション」なんですよね。それがプライバシー侵害になるというところが興味深いですが… 創竜伝は質ではなく量で助かっていると思います。
>「政治家がリベート(つまり個人的な欲求を満たすもの)は政治家個人の腐敗であって政治の腐敗ではない。政治の腐敗とはそれを指摘する事のできない状況になる事だ。」
つくづく銀英伝と創竜伝の間に田中センセにナニがあったのかと思ってしまいます。
>これが彼の民主主義が死んだかどうかという基準
ヤンの民主主義の定義ってのは結構重要なテーマだと思います。ちなみに、上のヤンの言を民主主義の定義とするならば、たとえばラインハルト独裁はどうでしょう? おそらく同盟末期より風通しは良いと思いますが。
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- board1 - No.1469
Re:1468
- 投稿者:satoko
- 1999年07月05日(月) 22時41分
管理人さんへ
>フィクション
柳美里や「宴のあと」はモデルになった人が、「明らかにその人物と特定できる。」というてんでは、創竜伝も同じ事なんですけど、前者2つは「現実にあった私事をその人物(モデル)にかぶせて公にされた。」という点でプライバシーの侵害になったようです。
で、創竜伝での明らかに分かる中曽根元総理や渡辺読売新聞社社長なんかはずいぶんなか書かれ方ですが(笑)、公に知られている事意外の部分で、私事をばらしちゃうというかそういうのがない(というか、知る訳がない)点でプライバシーの侵害には当たらないんじゃないかなと思います。
>ヤン
ヤンは何度か同じような事を言うんですが「最悪の民主政治でも、最良の専制政治にまさると私は思っている。」で、だからラインハルトの政治は最良のものだとわかっていながら戦うと。
まあ、それに対して「だが市民が自発的意志で専制政治を選んだときどうするのだ。」というパラドックスで悩んだりもしてるんですが。
ヤンが魅力的なのは、常に何かにすがって自分の正義を信じきるような事をしないその姿勢なんですが、その辺は個人のもので多数論ではないんですが・・・。
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- board1 - No.1470
あと一歩
- 投稿者:本ページ管理人
- 1999年07月06日(火) 14時53分
>No. 1469
>ヤンは何度か同じような事を言うんですが「最悪の民主政治でも、最良の専制政治にまさると私は思っている。」で、だからラインハルトの政治は最良のものだとわかっていながら戦うと
「最悪の民主政治でも、最良の専制政治にまさる」という「信念」の是非はともかくとして(ちなみに私は全く別の信念を持っていますが)、ヤンがその信念を抱く理由が「民主主義の最悪の政治は少なくともそれを選択した市民それぞれに責任があるが、専制の最悪の政治は為政者個人の責任である(大意。うろ覚えなので勘違いがあったら指摘していただけるとありがたい)」というところが興味深いんですね。
ここで、私が前に書いたNo. 1455が出てくるんですが、抜粋すると、
終『「みんなに責任がある」というのは「誰にも責任がない」というのと同じだもんな。これ以上の無責任はないよな。』
続『終君、どうしたんですか、えらく的確な発言ですよ、それは。』
始『まったく終のいうとおりで、「みんなに責任がある」というのは、責任の所在をごまかすために最高責任者が使う詭弁なんだ。(後略)』
つまり、この終君の言によると、ヤンが信念とする「民主主義という理念」は、その理念自体の中に自ら腐敗する構造を持っていることになります。つまり、民主主義がヤンの理想に近ければ近いほど、大蔵省の責任逃れ(これは一部分の例に過ぎないが)的な腐敗が避けられないという事になります。
これは田中芳樹の思想の矛盾撞着と取るか、変節と取るか、はたまたあくまでキャラクターの発言であるとして竜堂終Vsヤン・ウェンリーの夢の論壇キングオブファイターズと取るか(笑)、見方はいろいろありますが、私がヤンの民主主義の定義が結構重要なテーマだと思うのはこんな理由です。
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- board1 - No.1471
僕も、初めまして
- 投稿者:はむいち
- 1999年07月06日(火) 17時21分
高校生の頃から、田中氏のファンでしたが・・・
今は「芳樹」より「ユタカ」です(笑)
さて、このHPですが、何だか読んでいて嬉しいです。というのも、これだけ批判のでる小説も珍しいからです。
ちなみに友人は「ドラよけお涼」をあかほりさとるの盗作、といって憤慨していました。
「田中芳樹は未完が多くて」とぼやいたら、火浦功ファンに「彼よりマシ」といわれ続けています。下には下が・・・
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- board1 - No.1472
RE.1471
- 投稿者:本ページ管理人
- 1999年07月06日(火) 17時46分
>はむいちさん
こんにちは。はじめまして。
>ちなみに友人は「ドラよけお涼」をあかほりさとるの盗作、といって憤慨していました。
たしか「すれいやーず」のパクリでしたよね(いや、見てないんで詳しく知らないんですけど)。……あかほりでしたっけ??
>「田中芳樹は未完が多くて」とぼやいたら、火浦功ファンに「彼よりマシ」といわれ続けています。下には下が・・・
田中芳樹には銀英伝10巻のあとがきで大言壮語した実績がありますからねぇ(あれ自体は立派なものなのですが…)。
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- board1 - No.1474
自己レス
- 投稿者:はむいち
- 1999年07月06日(火) 22時49分
「すれいやーず」はあかほり、じゃなく「神坂」でしたっけ。
お詫びして訂正します。
「はむ」とつく方が先客でいましたね、紛らわしければ変えますが?
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- board1 - No.1475
やれやれ。
- 投稿者:yukie
- 1999年07月07日(水) 04時01分
WEB上にしろなんにしろ、議論ってのはほとんどは不毛なものなのだなと。
どうせどちらにしても自説を曲げる気はないだろうし、どっちかがどっちを言い負かしたとて遺恨が残るのみ。
大概の論説というのは、誤解と偏見によって成り立ってたりするものだし。
それを承知の上で、論議というのもひとつの虚構の文章作品として、娯楽として提供できれば、それはそれでヨシ。
日記ならまだしも、掲示板でクソ真面目に語ってるヤツみると、どーしても私は茶々を入れたくなってしまうんだけどね。
なにかにつけても、「たった一つの正しい方法」なんてないものだろうなあと。
数学にしたって、限定された状況下でのみ唯一の答えがでるものなのだし。
(普段はデフォルトとして扱ってるのだけど)
何が言いたいってさ。
結局ここはお互いに田中芳樹をけなしあって楽しんでる内輪サークルなんだな、と。
御多分に漏れずWEB上の評論ページにある傾向をなぞっているし。
ある傾向とは
日常的でない漢字や漢語、外国語を多用する。
・「こんなこと知ってて当然ですよね~」その実(こんなこと知ってるのは自分くらいなもんだろ)
・更には、(自分はそれが当然とされるくらい高い知的レベルにいるんだ)
・自分の言葉で説明できない事象は無視するか、「取るに足らないコト」と卑下しようとする。
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- board1 - No.1476
アルスラーン戦記関連 まとめレス
- 投稿者:冒険風ライダー
- 1999年07月07日(水) 08時40分
<首都の100万都市は、国際都市(長安とか)とするならまあ良いとしても、地方で10万都市がそんなにも林立している状況は当時ありえるかな、とは思います。>
エクバターナとギランにはそれぞれ、
「大陸公路の公用語であるパルス語のほか、数十カ国語がいりみだれ、人間、馬、ラクダ、ロバが石畳の道を行きかう」(アルスラーン戦記1 P107)
「町の人口は40万人に達し、そのうち三分の一が異国人で、町では六十種の言語が用いられているといわれていた」(アルスラーン戦記6 P31)
という記述があることから、充分に国際都市であると断定できるでしょう。
地方都市10万はそれを補強するための裏設定を一応考えてみました。
パルス国では、100の州が100の諸侯によって統治されており、地方都市10万は州都であると解釈するのはどうでしょうか。さらに州単位で租税が徴収され、それがいったん州都に集められた後、諸侯がエクバターナへ決められた額なり率なりの税を納めるという設定にすれば、州都を中心とした交通網と、州都とエクバターナを結ぶ交通網が整備されますし、それによってエクバターナほどではないにしても州都にも物が集まり、小なりながら地方の政治・経済の中心地となりますから、管理人さんの解釈と合わせて、地方都市10万という設定も充分にありえるのではないかと思います。
また、この設定だとアンドラゴラス三世がエクバターナと大陸公路を重視し、ギランの海上貿易を軽視した理由も説明できます。陸上の交通ネットワークがパルスのアキレス腱になるのですから。平時は陸上貿易の方が利益をあげていたのではないでしょうか。ギランでは代わりにならないわけです。
<主食はおそらく、小麦の加工品だと思われる(違っていたらスマン)ので、米と比べて人口支持力はいくらか落ちるものと想像されます。日本の場合、温暖多湿であるし、海の幸、山の幸に恵まれていたという環境もあると思います。それでも同時代、日本の人口は600~700万人ぐらいじゃなかったでしょうか。>
当時の日本は聖徳太子~大化の改新あたりの時代ですね。遣隋使・遣唐使による中国の文物を取り入れ始めたばかりの頃ですから、発展はまだこれからという状態です。それに対して当時のササン朝ペルシアは当時の世界の中では最先進国のひとつでしょう。最先進国と後進国ではあまり比較にならないので、日本の場合は戦国時代から取り上げてみました。
ところでパルス国が何を主食としているかは非常に興味深いことですので、参考になるかどうかは分かりませんがアルスラーン戦記の食卓を少し覗いてみましょう。
アルスラーン戦記1 P73
<侍童の少年が、大きな盆をはこんできた。葡萄酒、鶏肉のシチュー、蜂蜜をぬった薄パン、羊肉と玉ねぎの串焼き、チーズ、乾リンゴ、乾イチジク、乾アンズなどがこうばしい匂いをふりまき、アルスラーンとダリューンの食欲を刺激した。>
アルスラーン戦記2 P22~P23
<祝宴は豪華なものだった。肉も酒もふんだんにあったが、肉はともかく酒のほうは、アルスラーンには無用のものだった。果糖水や紅茶で口のなかを湿しながら、一方では多すぎる料理をもてあましていた。
巴旦杏と糖蜜をいれた柘榴のシャーベットを、アルスラーンが銀のさじで口に運んでいるとき、(略)>
アルスラーン戦記2 P137
<「とにかく、あんたの言ったとおり、食事にしようよ、ナルサス。麦酒もあるし、豆スープもホットケーキもできるからね。あんたの口にあうといいけど、そうでなかったらつくりなおすよ」>
アルスラーン戦記3 P98
<ナルサスの前には、二皿の料理が並んでいる、エラムがつくった羊肉のピラフと、アルフリードがつくった鶏肉をはさんだ薄焼パンだ。>
アルスラーン戦記4 P113
<葡萄酒や蜂蜜酒、麦酒の匂いが広間に渦を巻き、羊肉の焼けた匂いもただよった。>
アルスラーン戦記4 P173
<芳香を放つ羊肉のシチューは、たちまち少女の腹におさまった。>
アルスラーン戦記5 P24
<パラザータは肉を主体とした料理をことわり、一椀の麦粥、それに卵と蜂蜜をいれた麦酒を所望した。疲労で胃が弱っているので、重い食事を避けたのである。>
アルスラーン戦記6 P38~39
<港町であるギランの名物料理は、魚介類を主としたものだ。アルスラーン一行の卓に並べられたのは、香辛料で味つけされた白身魚のからあげ、蟹の蒸し焼、大海老の塩焼、帆立貝の揚物、魚のすり身をダンゴにして串に刺して焼いたキョフテ、ムール貝の実を多量にいれたサフランライス、海亀の卵をいれたスープ、白チーズ、ムール貝の串焼などであった。飲物は、葡萄酒の他に、サトウキビ酒、リンゴ茶、蜂蜜いりのオレンジのしぼり汁。それに色とりどりの果物であった。>
アルスラーン戦記7 P22
<総帥である王弟ギスカールは、朝食の場にモンフェラート将軍を同席させ、パルス葡萄酒でパンを咽喉に流しこみながら告げた。>
アルスラーン戦記7 P210
<やがて「白鬼」は食事の席に招かれ、葡萄酒と薄パンを口に運びながら、エステルの質問に、ぽつぽつと答えた。>
アルスラーン戦記9 P202
<給仕たちが酒と料理を並べはじめたのだ。酒は壷ごと井戸で冷やされた麦酒。鳥肉と乾葡萄をまぜたピラフ。香辛料をきかせて飴色になるまで焙った鶏の腿肉。やはり香辛料をきかせた淡水魚のからあげ。牛の挽肉と玉葱を小麦の薄皮につつんだもの。五種類の果物。>
アルスラーンが王族であることを多少差し引く必要があるでしょうが、これらからの記述から、パルス国では小麦と羊肉が主食である可能性が高いように思われます。日本の戦国時代をある程度参考にしたにもかかわらず、米はほとんど出てきません(T_T)。また、やたらと葡萄酒がでてくることから、葡萄の生産もさかんだったのではないでしょうか。
そうなると、パルス国の第一産業は農業と畜産が中心という事になり、そこから前回の投稿で挙げた農業・狩猟・畜産・漁業の比率を設定してみると、
農業 : 狩猟 : 畜産 : 漁業 = 35 : 15 : 40 : 10
というところでしょうか。もちろん、何が主食であるかについては地方差があることでしょうが(例えばギランは魚主体であるとか)。
また、農業と畜産を連携させて(例えば畜産で発生した肥料を農家に供給し、農業で実を収穫した後の茎や葉を飼料にするなど)相互発展をはかることで、かなり効率的な生産が可能になるというのはどうでしょう。素人的な考えですけど(-_-;)。
また、前回主張したとおり、狩猟や漁業の獲物は今よりもずっと多かったでしょうから、「海の幸、山の幸に恵まれていたという環境」はパルスも同じであるという解釈はできないでしょうか。それに
「ニームルーズの北は、適度の雨量にめぐまれ、冬には雪もふる。針葉樹の森と草原がひろがり、穀物と果実が豊かにみのる。いっぽう、分水嶺をこえて南にでると、太陽は灼熱し、空気と大地はかわき、点在するオアシスのほかには砂漠と岩場と草原が多く、森はない」(アルスラーン戦記2 P15~16)
という記述から、特に北の方は日本と同じような環境であると解釈できます。南は亜熱帯かな?
あと余談ですけど、日本の戦国時代の1800万~2000万石には北海道がはいっていないので、やはり面積がそれよりもかなり大きいパルス国では充分な食糧生産が可能であったと思われます。アルスラーン戦記8では、解放奴隷に土地を開拓させているくらいですから、それまでも土地の余裕は充分にあったのでしょう。
<馬の問題については、輸入はないと思います。定住はしているものの仮にも騎馬民族というのであり、また歩くよりも早く乗馬をおぼえるというパルス人(8巻P176)なのだから、輸入に頼らずとも生産できたであろうと思います。>
これは全く無かったわけではないと思います。
<王都エクバターナは、ただパルス一国の首都たるにとどまらず、広大な大陸を東西につらぬく「大陸公路」のもっとも重要な中継点であった。東西の諸国から隊商があつまり、絹の国の絹と陶磁器と紙と茶、ファルハール公国の翡翠と紅玉、トゥラーン王国の馬、シンドゥラの象牙と革製品と青銅器、マルヤム王国のオリーブ油と羊毛と葡萄酒、ミスル王国の絨毯――など、さまざまな商品がもたらされ、交易の熱気があふれかえっていた。>(アルスラーン戦記1 P101~102)
という記述がありますし。トゥラーンの馬はパルスの馬よりも使い勝手がよかったとか、側対歩を身につけている馬を売っているとかそういう裏設定があれば、畜産業で馬がたくさんいるパルスでトゥラーンが馬の売りこみをするのもそれほど不自然ではないかと思います。第一、パルス軍はかなりの数の騎兵軍団がいますし、優秀な馬はいくらでもほしいでしょうから。
それに遊牧を産業のひとつとしているトゥラーンが、馬を全く商品にしていないというのもおかしな話です。余分な馬は食糧にしているのかもしれませんが、「商品」という選択肢もあったと考えるのが自然でしょう。
<実際の歴史上、シルクロードや海の道や草原の道での交易で取引されていたのは、絹織物や香辛料や宝石、貴金属、陶磁器のたぐいだったようです。王侯貴族などを対象にした贅沢品がメインだったようです。ギランの総督の説明にも異国の商船が宝石や真珠や象牙、白檀、竜涎香、茶や酒、陶器、絹、各種香料などを献上する云々の記述(6巻P37)がありますので、アルスラーンの世界でも同様ではと思われます。当時の技術では生鮮食料品は無理でしょうが、あまり日常の食料品は中心ではなかったように感じます。>
う~ん、このあたりは考えが及びませんでしたね。私は「交易は戦争時でもない限り可能だ。当時と今では貿易に対する考え方は違う」という事の方を強調したかったので、当時の食糧保存法や貿易商品についてまではあまり考えていませんでした。特定の地方でしかとれない特産品の輸入はあるのかもしれませんけど、たしかに当時はあまり食料品輸入はなかったでしょうね。保存の問題もあるし。
それと当時の貿易では、間違いなく「奴隷」という品目もありますね。アルスラーン戦記8でミスル国が侵略してきたのも、パルスが奴隷解放をしたために奴隷貿易による利益が減ったという理由もありますし。
まあ、食糧自給率は前回と今回の第一産業分析でほぼ100%近く(場合によってはそれ以上)になるでしょうから、貿易で食糧を輸入する必要性もあまりないでしょうけどね。
<食料も替え馬もすべて現地調達するということで、わずかな食料と身の回りのものだけを持って遠征してきたというのはどうでしょうか? パルスは騎馬民族の国だから馬はたくさんいるはず(仮定)だし、そもそも略奪目的なのだから馬を随時奪っていけばよいというのはいかがでしょう。これなら替え馬は不要とまではいかなくても、かなり減らせます。ついでに食料も不足した都度、村々を襲って奪うというものです。>
食糧は納得できますが、馬はそんなにいるのかという問題がありますね。上記の畜産がいくら発展していたとしても、トゥラーン軍が必要としている替え馬は数十万単位ですからどこまでもつやら……。日本軍の場合、必要な馬の数は数百~千単位だったでしょうから現地調達も可能だったでしょうが、トゥラーンの場合はあまりにも多すぎますからね。もちろん、全く効果が無いわけではないでしょうが、騎馬軍団たるトゥラーン軍を支える馬を、現地調達で完全にまかなえるかどうか……。
私が考えたのは替え馬の数自体を減らす方法です。以前はむぞうさんの投稿No.1184でおっしゃっていた装蹄技術で少しは減らせないかとも考えたのですけど、これでどのくらい減らせるでしょうか? せめて20万前後くらいまで減らせれば何とかなるのでしょうけど。
<これなら国元に女や子供や老人が大部分を占める数万の民を残しただけ(6巻P102)で、強引にパルスにせめてきたと納得できるのではないでしょうか。そもそもは豊かなパルスの混乱に乗じて、適当に略奪したらさっさと引き揚げるつもりで、長期戦のつもりはなかったのではないかと思います。即位したばかりの国王トクトミシュが「国を富ませる」と約束したのも、前国王時代に家畜が激減し国の存亡の危機に陥ったのを利用して即位したからと考えると、その約束を実行するために遠征軍を編成し、国民も国力から考えて無謀に見えるのに従ったという図式ならすんなりいくのではないでしょうか。そうでなければ16万もの軍を出した後には数万の民しか残らないというのでは、万一失敗したときを考えると恐いと思うのですが。だから思いがけず長引き自軍が負けてくると、6巻のP97のイルテリシュの「負けたらトゥラーンが地上から消える」やクバートの「死兵というやつだ」のせりふにつながるかと思います。>
トゥラーン軍が短期決戦のつもりで遠征してきたのは全くそのとおりでしょうね。実際、
「もともとあまり補給を重視しないのが、トゥラーン軍の伝統である。短期決戦と掠奪とが、トゥラーン軍の戦いを特徴づけるものであった」(アルスラーン戦記5 P209)
とはっきり書いてありますし。
動機については「なるほど」と納得させていただきました。アルスラーン戦記には特に記述はないですけど「追い詰められて侵略する」というのは歴史上よくあることですし、パルスが混乱しているのを見計らって「成功の可能性が高い」と踏んだのでしょう。不幸にも思惑が外れてしまいましたが(-_-)。
ただ、16万もの遠征軍を率いるとなると、よほど効率的かつ短期的に掠奪しない限り、掠奪物資を遠征中のトゥラーン軍自身が使いつぶしてしまうのではないかと思うのですが。遠征軍の維持費も相当なものでしょうしね。「採算がとれるのかな?」という観点から問題提起してみたのですよ。「遠征から帰ってみたら何もなくなっていた」ではシャレになりませんから。
まあ「トクトミシュの政権維持」のための遠征なら採算はある程度度外視しても良いでしょうね。「マイナス」でさえなければ。
<トゥラーンの人口は20~30万人と言うことになるのかな? 最盛期の元でモンゴル人は100万だったというからそんなものなのかな?>
その記述から推理すると、トゥラーンの人口は最大25万人ほどになりますね。「数万」ですから最大が9万ということで(^^;)。しかしトゥラーンは人口の6割以上を遠征軍に参加させているとは……。本当に失敗した時のことは考えていたのでしょうか? まあナルサスの事は考慮にはいっていなかったのでしょうけどね。
<この規模の国家になると、もはや多民族国家にならざるを得ないでしょうから、「パルス王国」というよりかは「パルス帝国」ではないかと。>
エクバターナもギランも国際都市ですし、パルス語は大陸公用語、さらにはバタフシャーン公国を併合してもいますから、まさに多民族国家そのものでしょうね。パルスには「帝国」という概念はなかったのかな? 代を重ねるたびごとに少しずつ領土が増えていったので「帝国」と名乗らなかったのかもしれませんが。
これでかなり矛盾は解決できたかな? かなり無理なこじつけもあるような気もしますので、「ここはおかしいのではないか」というのがありましたら、ツッコミお願いします。
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- board1 - No.1477
やれやれやれ
- 投稿者:satoko
- 1999年07月07日(水) 08時58分
最近こういうのおおいですね。なんかこういうことかく人ってかわいそう・・・。
自分が体験した議論がそういうものだったから、そういう感じ取り方になるんだろう。其処から出る意味ってあるのにね。
管理人さんはしっかりなさってるから、こういうのぜんぜんへいきだと思うんですが、ここに人が集まるのはそれなりに理由があると思うので、がんばってくださいね。
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- board1 - No.1478
えっとですね。
- 投稿者:maske
- 1999年07月07日(水) 12時00分
ネット上に出現するこういうたぐいの方達は調教プレイではなく放置プレイで楽しむのがよろしいかと思います。
自分の意見がまとまるまで書き込みはしないつもりだったんですが、変なのがあったんで。
続編を書かない作家っていうのはけっこういっぱいいるのでそう珍しくないとおもいます。
藤本ひとみとか……(趣味ばれます)
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- board1 - No.1479
RE:1465,1466
- 投稿者:仕立て屋
- 1999年07月07日(水) 13時02分
毎度、仕立て屋です。
長文になりますが、お許しを。
>主要交通機関が馬車や帆船の世界では、だいたい平方キロメートル当たりの人口密度が3~20人ぐらいのようです。
>人口密度10人/平方キロメートルを前提とした場合、平均的国家の人口と広さは次のようになり
ます。国家規模は中世国家の参考です。
1万人 1000平方キロ(広さは東京都の半分程度。国家規模は地方の豪族程度)
10万人 1万平方キロ (広さは岐阜県程度。国家規模は江戸時代の小藩程度)
100万人 10万平方キロ (広さは北海道より少し広い程度。国家規模は中世日本や中世ヨーロ
ッパ諸国。ルシタニア?)
1000万人 100万平方キロ (広さは現在のエジプト程度。国家規模はローマ帝国や中華帝国。パ
ルス国はここでしょう)
1億人 1000万平方キロ (現在の中華人民共和国程度。国家規模はモンゴル帝国)
> で、パルス国ですが、今までの掲示板を参考にすると、人口2000万、領土が143万平方キロ、ということですので、人口密度はおよそ14人/平方キロということで、中世国家としてはかなり肥沃な国であることがわかりますね。
> 以上のように考えれば、地方で10万都市がそんなにも林立している状況は江戸時代の封建制のようなものであり、決してあり得ない状況ではないと思います。
なるほど、言われてみれば143万平方キロの王土に、人口2000万もそれほど無茶な数字ではないということですね。作中ではパルスが概ね肥沃な大地を領有していたということにしといて、有りは有りってとこでしょうか。ただ、ひとつ疑問が。上記の国家モデルの類例がローマにしろ、中華帝国にしろ、広大な平野と温暖な気候の大地を領有していたという点が気にはなりますね。そこで、以下は、ちょっとした脱線ってことで。
パルス王土に対する冒険風ライダーさんの風土的考察を参考にいたしますと、カスピ海などの位置関係から、パルスの位置は大体現在のイランの場所と一致し、また、王土の地形的様相もかなりイランのそれに近いようです。イランの国土面積が163万平方キロぐらいなのでパルスのそれはその1/8ってとこでしょう。イランの国土はそのほとんどが、山岳地帯と砂漠地帯で占められています。なんせ、イラン高原などもありますから。気候区分で言うと(懐かしい)、BS(ステップ)、BW(砂漠)ってやつで、農耕には不向きです。カナート、カレーズ(伏流水を利用した井戸みたいなの)などを灌漑利用するしかありません。ですから人が集まる場所はおのずとオアシス付近になってきます。都市を一歩出ると次の都市まで広大な乾燥地帯が続くという点と点を線で結んだ感じになります。このような土地柄ではどうしても遊牧主体になってしまうのでしょうね。実際、イランはそのほかの中東諸国と比べて、遊牧の比率は高いそうです。まあ、パルス人が遊牧系(騎馬系)民族の末裔というのもなるほどという感じです。なにせ、ペルシア人は南ロシアあたりから南下してきたアーリア人の末裔ですから(ちなみにパルスの名前の元になったファールスはラテン語読みでPERSIA?「ペルシア」で、また、エーラーンってのがいたと思いますが、アーリアの古代ペルシア語読みから現代ペルシア語のイーラーン「イラン/アーリア人の国」になっていく途中の訛りの過程に、エーラーンというのがあるそうです、ほんまかどうか知らんけど)。話を戻します(^^; イランで肥沃な土地はカスピ海の南西部、山脈沿いのギーラーンと呼ばれる地方です。また、ササン朝の頃はペルシア湾岸沿いも灌漑施設が整い肥沃だったそうです。作中では対ミスル国境付近でしょうか。人口分布という概念に留意しますと、住めないとこにはほんとに住めないんですよね(砂漠とか極点付近など)。山岳地帯や砂漠地帯は極端に人口が少なく、低地や平野、水の豊富な場所はその逆になります(あたりまえか)。イランにおいては低地はギーラーン地方など国土の1割ぐらいで、農業生産の殆どは、こうした地域に集中しているようです。1割といってもその割合は日本より多いかも知れませんが、日本の場合、温暖湿潤の気候のせいかその山もイランのそれとは異なり、非常に豊かなものです。おまけに回りは豊富な水産資源に囲まれています。事実、現在でも地球上の人口の6割は日本を含めたアジアの"モンスーン"地域にかたまっています。今ほど技術の発達していない当時(ササン朝/パルス時代)では、なおさらモンスーン地域の有利さが顕著であったろうことは予想されます。それにお米パワーってほんとにすごいらしいですね。で、各諸公の地方都市のことですが、乾燥地帯の生活が遊牧メインのものだとすれば、その遊牧人口はそれほど大した数ではないと予想されます。各諸公の治める都市がオアシス都市とするならば人口の大部分はこうした諸公の治める都市部に集中していたことでしょう。さあて、そこで問題の10万都市です。正直言うと時間がなかったので調べていません(なんやソレ)。時間があいたら本屋にでもいって調べようかとは思っていますが、根拠のない推量ということで、一応の考えを述べておきます。現在、イランの人口に占めるペルシア系民族は半数の3200万くらいです。イスラムによるペルシア征服後、その進んだ文化と経済力によってどのくらい人口が増えたかによりますが、概ねイスラム化した地域では都市化されるようですので、その影響は無視できないと思います。でも、やはり当時の人口などに関する文献をあたってみないことにはなんとも言えませんが、まぁ、わたしの直感的な感覚では10万というと現在でも結構な規模のように感じられます。
次に話をササン朝期の経済力にもっていきますと、ダマスカス産の鉄製品や中国産の絹、陶磁器類の交易など、地理的に有利な面は否めませんね。海上ルートによってそれ以前ほどではないかもしれませんが。また、金銀細工類の技術は特筆すべきものがあり、当時多方面にかなりの影響を与えたらしいです(歴史を学んだ方は御存じかもしれませんが)。よって交易以外にも王国産の製品の輸出などにより、国庫は随分と潤っていたのかもしれませんね。それでも、パルスのアトロパテネ会戦にいたる数年間の戦乱期では運用兵数を見てもほとんど総力戦(民主国家でないのでほんとの総力戦とは言えませんが)ですよね。それを同時に、しかも複数の敵対国を向こうにまわして数回繰り返していては、大いにその国力を剃いだことでしょう。しかし、あの数年で常に勝利していることはほとんど奇跡のようです。さすが、ナルサスさま~~ってとこですか。
>つまらないことですが、この規模の国家になると、もはや多民族国家にならざるを得ないでしょうから、「パルス王国」というよりかは「パルス帝国」ではないかと。
ペルシア帝国期は、たしかに多民族国家だったようです。しかも、力の支配に頼らず、巧みな施政によって治めていたようです。でないと今ほど交通速度がない当時、その広大な領土を長期にわたって維持し続けるのは至難の技でしょう。ただ、ササン朝末期(パルス)ではかなり東に追い詰められていたので多民族国家といってもどういう形態だったのかわかりません(143万平方キロもあれば複数の民族がいてもぜんぜん不思議ではありませんが)。ひょっとしたら、異民族の奴隷を引き連れつつ東に移動していったのかもしれません。なにせ奴隷は貴重ですから。ちなみに、ギリシア世界においては奴隷はその人口の半数にまで及んでいたらしいので、その文化の影響を受けていたのならパルス王国における奴隷の数の多さはうなづけるものです。