初代掲示板過去ログ

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投稿ログ100 (No.1954 - No.1989)

board1 - No.1954

いいんじゃない

投稿者:あすか
1999年09月08日(水) 07時09分

私は創竜伝しか読んでません。
理由は挿し絵を描いている人(CLAMP)のファンだから。
時間なんかのことは前々から私も思ってました。でもこれは小説だしそれでいいと思う。
あらを探すのも楽しいしね!こういう読者がいてもいいと思うし・・・。楽しく読めればそれでいいじゃない。

board1 - No.1955

Re1950・1951

投稿者:冒険風ライダー
1999年09月08日(水) 08時23分

<某国の驚異に関心が集まるなかで、領空侵犯機に対し戦闘機が二機スクランブル発進して、一機が行方不明になったら、それこそ大騒ぎになってもおかしくないんですけどね。そこら辺について、冒険風ライダーさんはどう思われますか? 文章の本意とはずれますが、お聞かせいただけたらと思います。>

 これはマスコミの報道姿勢に原因があると思います。
 自衛隊演習中の事故というのは自衛隊の管理責任が問えるので、常日頃から自衛隊を攻撃したがっているマスコミ(代表格はやはり朝日)はここぞとばかりに大々的に報道するのですが、スクランブル発進で戦闘機が行方不明になっても自衛隊を攻撃できないものですから、マスコミの報道も消極的になってしまうんですね(^_^)。
 それに加えて、かの事件では戦闘機が中国に撃墜されたという憶測が産経あたりで報道されたものですから、中国べったりな朝日などが報道統制を始めたという一面もあるでしょうね。朝日はテポドン発射の時や3月の北朝鮮の領海侵犯事件の時も北朝鮮べったりな記事や社説を掲載したぐらいですし。「政府の報道統制」というのはほとんど考えられませんが、「朝日の報道統制ないし情報操作」なら3ダースぐらい事例を知っていますから(^^)。
 要するに、自衛隊演習中の事故とスクランブル出動の時の行方不明とでは責任の所在も事情も違うため、報道姿勢も違ってくるというのが私の考えです。朝日新聞を始めとする日本の左翼マスコミは、自衛隊を攻撃できる時は小さなことでも大々的に報道し、そうでない時、もしくは自衛隊の利益になると判断した時は逆に大スクープでも小さく報道するという癖がありますからね。
 まあかの戦闘機は行方不明になった原因が不明ですから、軽はずみな報道を控えているのかもしれませんが。
 スクランブル発進については「軍事認識編」で詳しく書こうと思っていますので、もう少しお待ち下さい。


<『創竜伝』の中身なんかほとんど忘れてる
んですが、警官や自衛官、その他国家公務員が
死亡したとき、主人公たちはなにか言ってまし
たっけ?>


 自分達が叩き潰した自衛官や警官については何も言っておりません(-_-;;)。そして彼らを「権力者の手先」とだけしか見ていないことは、ストーリー描写や社会評論を見れば一目瞭然です。人様に散々「人を思いやる想像力」とやらを説教していながら、自分達にはそれがないのですから、せっかくの正論も説得力が全くありませんな(T_T)。
 余計な社会評論を展開しなければ、こんな矛盾を発生させることもなかったのでしょうけどね~。

board1 - No.1956

>冒険者ライダー

投稿者: 
1999年09月08日(水) 11時49分

オメエ、
兄オタダロ?

board1 - No.1957

朝日新聞、ついでに

投稿者:仕立て屋
1999年09月08日(水) 12時28分

 毎度、仕立て屋です。

 F4だっけかな?あれが行方不明になっていた件に関してマスコミの報道が控えめであったことについての冒険風ライダーさんの見解に付け加えて、ガイドライン法をにらんでの配慮があったのかもしれません(ちょっと時期が前後するかもしれませんが)。もし、行方不明地点が北朝鮮空域であったのならばいざしらず、相手が中国となると下手な報道はできません。ガイドライン法に対する中国の関心には並々ならぬものがありますからね。この件とガイドライン法に関する報道各社の姿勢には、さまざまなものがありますが、例えば、朝日などに限っては、ガイドライン法反対の立場から、下手に日本国民の対外防衛における関心を引くのはまずいと判断したのかもしれません。不信船騒動の際、世論が異常(正常?)沸騰したことを考慮すれば、ガイドライン法の後押しにもなりかねませんからね。また、確か朝日は中華日報と提携して特集記事を連載する予定(もう始まってるのかな?)ですから、中国と、しいては中華日報との間でいざこざの種をつくりたくないのでしょう(わたしの邪推ですが)。

board1 - No.1958

はぁ、なるほど

投稿者:つねひら
1999年09月08日(水) 14時51分

 すいません、うち朝日取ってます(笑) いや、あのニュースを見たのはNHKでですが。

 でも、新聞ごとにいろんな事情があるんですねぇ。ここまでいろいろと推測できるものとは思ってもみませんでした。新聞に対する人の意見を聞くと、一人暮らしを始めたときにどれを取ろうかえらい迷います。自分にあったものか、複数取るのが良いのかも知れませんけどね。

 丁寧なお返事ありがとうございます。あと、非創竜伝ネタですいません(……)。

board1 - No.1959

たかがフィクションなんだから……

投稿者:速水右近
1999年09月08日(水) 23時56分

冒険風ライダー氏へ

やっぱりねぇ。「革命のために犠牲もやむを
得ない」んでしょうか?

しかし田中芳樹なんか読まなくなって久しいの
ですが、昨今のノベルズは総体的に変でっせ。
破綻しまくりの『紺碧=旭日』でもベストセラーにまだ残っているのはもちろん、「どーし
てこの程度の作家がプロと言えるの」って言い
たい奴が作家面していますからなぁ。
妙な社会風刺を、しかも登場人物に自分の意見
を語らせるのは、あんまりプロとしてうまいと
は言えないと思いますがね。
ノベルズなんかたかがフィクション、そして純
粋なエンターティメントでいいじゃありません
か? 娯楽を提供するのも恥ずかしい仕事では
ないし、そのなかでどれだけ完成度を高めるか
がプロでしょうに。
ここでやり玉にあげられている御仁や荒巻義雄
みたいに、思想性に執着している作家たちって、なにか娯楽小説家としての誇りが欠落していると思うんだけどなぁ。
このあたり真面目な話、「荒らし」の人たちの
意見も聞きたい。田中芳樹は、「娯楽小説家」
なの、それとも別の“称号”になるの?

board1 - No.1972

面白いフィクションを

投稿者:不沈戦艦
1999年09月09日(木) 15時33分

>たかがフィクションなんだから……


 読みたいですよね。そういう意味では紺碧の艦隊・旭日の艦隊は失格でしょう。あれなら同じ作者でも「要塞シリーズ(ニセコ要塞1991、十和田要塞1993、阿蘇要塞1995、琵琶湖要塞1997)」の方が余程面白かったですよ。あとがき大量に書き散らしているのもつまんないし。いつまでも延々とやっているし。アホらしくなったんで途中で立ち読みすらしなくなりましたわ。

 田中芳樹の創竜伝もねぇ・・・・・・途中で飽きたのは同じです。まあ、これは個人的感想なんで賛同されない方がいることは解りますけど。しかしどちらも何でベストセラーのままなのか理解に苦しみますな。

board1 - No.1974

らいとすたっふ

投稿者:本ページ管理人
1999年09月10日(金) 16時42分

取引停止処分(不渡2回目)出されたみたいですね。
こりゃ必死になって読本連発しようとしますわな。そのわりにはアルスラーン読本発売延期というあたりが解せませぬが。

board1 - No.1975

はじめまして

投稿者:わん
1999年09月10日(金) 18時01分

このページ、大変おもしろく拝見しました。
私は銀英の同人で田中芳樹の名前を知り、創竜伝、アルスラーン、銀英の順に読んではまった
元ファンです。
SATOKOさんのご意見にはなるほどと思わされましたが、こちらのHPのようなご意見も読みたいです。どっちつかずですみません。
あまり意味のない書き込みですが、記念に。

board1 - No.1977

1952続き 少々挑発的暴論気味

投稿者:本ページ管理人
1999年09月10日(金) 18時40分

 もし評論のない、小説としての創竜伝が好きならば、それはそれで良いと思うのです。
 キャラ目的だろうと挿し絵が好みだから買おうと、それはそれで良いと思います。私とは正反対の志向ですが、別に否定しようとは思いません。
 ですが、それでも銀英伝に比べ創竜伝の小説としての質が落ちるのは明確な事実です。創竜伝を支持する人は、少なくともこの部分だけはごまかさないで欲しいですね。『能力の優劣ではなく単なるこのみの違い』ではなく、『能力の優劣の問題であり、なおかつ好みの違い』なのです。


 しかし、創竜伝には小説として質が低いを通り越して欠陥がありますよね。これに関しても本論で論じていますから触れません。異論があれば論争します。
 質が低いのであればそれも好きずきでしょうが、欠陥小説を買い支えるというのはどういうものでしょうか。ジャンクフードが好きなのは好みの問題ですが、髪の毛や虫が入ってる食べ物は欠陥商品でしょう。創竜伝は、余計な異物(評論部分)が混入して小説部分をダメにしている欠陥商品じゃないですか?
 ケナシ代を払っているようなものだ、という考えは私も好きです。しかし、そんな豪儀な人はほとんどいないでしょう。行列の出来るラーメン屋はまずくても客が入るみたいですが、それと同じじゃないですか。まずいだけなら好みの差ですが、異物混入ラーメンをわざわざ食べるのは馬鹿なファンじゃないですか? いままであった創竜伝の擁護で多かったのは異物(評論部分)を取り除いて読んでいるでしたが、何かファンのあり方というか楽しみ方としてねじくれているなぁ、という感は否めません(もっともどんな楽しみ方をしようと自由ですし、このようなサイトの管理人がもっともねじくれた楽しみ方をしているとも言えますが)。

board1 - No.1978

あくまで、一般論として

投稿者:速水右近
1999年09月11日(土) 00時14分

いつ間のにか常連になっちゃったなぁ(笑)。
もともと『虚構戦記研究読本』の著者、北村賢
志氏の書き込みを探しているうちに、ここに
たどり着いただけでなんですがね。
田中芳樹でまともに読んだのは銀英伝だけで、
アルスラーン、創竜伝は飛ばし読みだけだか
ら、あんまりえらそーなことは書けませんが。

ともかく、昨今のノベルズ界はおかしい。
初期のワニなんかにあったアンソロジーものは
レベルが高かった(中公C★NOVELSの初
期には、コナン・ドイル集があったって知って
ました?)のに、九〇年代に入ってどこの出版
社もズタズタでしょ。
西村京太郎をはじめとするトラベル・ミステリ
も土曜ワイドレベルの陳腐さ。架空戦記も含め
たアクションも大したことないし。興味がない
から読んでないけど、ホラーや新本格のレベル
はどうなんでしょ?
本来、客であるはず読者を無視したような作品
を濫作するのはプロ作家として失格だし、また
編集者までも読者を嘗めてるとしか言いようが
ないんだけども。
しかし架空戦記の掲示板やここのファンからの
反応を見れば、「この読者なら嘗められたって
しかたないな」と妙に納得してしまう。これは
同じ“読者”として、非常に辛い。

ノベルズなんか所詮は娯楽。しかしその娯楽
で、読者が作り手からバカにされる必要なんか
はまったくないはず。金払ってバカにされるの
は、「●●クラブの言葉責め」だけ。倒錯趣味じゃないかなぁ。
かりに作家や出版社が「営利のために」ひどい作品を出すのが許されるのだとしたら、読者も
“消費者”としての意識を持って、自衛しない
と。そのくらいの権利は、有するはずだけど。

board1 - No.1980

satokoさんへのお返事

投稿者:ホリー
1999年09月12日(日) 02時00分

 ずっと論争をみてきていてsatokoさんのご意見に同意していたので、いわんとしたところがきちんと伝わらなかった文章力のなさが辛いです。
 出版業界という書き方を自分が読んでいる範囲、と取り合えず訂正して進めます。漫画で育ったので特に漫画でいうと、今発行されている雑誌は割合で言うとレディースがトップで次は同人作家雑誌になっています。青年誌もたくさん出てますが一誌に一作品いいのがあればいい、というのが多すぎる。同人雑誌も同性愛のオンパレード。これを買い支えているのは同人達です。裏でやっているなら
一部の趣味で良いでしょうが書店に並ぶと普通の子も手に取ります。ほんとにフツーの子は二度とその本を手に取らず、一部の嗜好の子たちが買うわけですが、一般人が読むに絶えない世界の広がりはますます漫画の世界を
特殊なものにしてしまいます。かつて萩尾思都さん、木原敏江さん、山岸涼子さん、竹宮恵子さん、青池保子さん、美内すずえさん、
和田慎二さんなどが描いてきた作品は、少女漫画の枠を超えていろんなファンを掴みました。今は小さなコミュニティーをつくってより趣味の世界へ閉じ籠っていっているように思えます。
 ライトスタッフの社長さんは三日泊り込みとおっしゃってましたが、同人作家は三日徹夜も一種自慢話になります。プロとアマの違いは頑張りではなくモラルの持ち方でもあるのではないでしょうか。売れるなら何でも良い、では殺人雑誌もありです。以前死体写真集が話題になりました。見たい欲求は分からぬではありません。しかし出版すべきものであったでしょうか。マスコミは被害者を追いかけ回していますが、モラルはないのでしょうか。学者は持説を振り回して常識とかけ離れたことを言ったり書いたりしてますが、社会に対する責任はどうなったのでしょうか。
オウム事件の時、私は社会の無責任を思い知りました。オウムを擁護した学者は相変わらず大学助教授ですし破防法に反対した為に今あちこちの住民が不安と同居していますが、
江川某も新聞社も自分の責任は忘れています。
 趣旨はずれましたが、小説にしても今売れているものが果たしてプロの作品のみか、疑問です。アマチュア的な作品を好む読者が増えたらそれも好みの問題といっていいんでしょうか。管理人さんがおっしゃった「アマチュア気分」を「商売」として捉える面、それこそ今大疑問に思っていることなんです。
プロとアマの境界があいまいなんです。
 小林よしのり氏がゴー宣で描いていたので、こういうのがありました。インタビューを受けたがおこしがあまりにひどくて金森さんに直させていたら、タイトルまで「わがゴーマン闘争」にするという。ちょっと待てよとやりとりしていて知らぬ間にその本は出ていた。  ・・・これって実に同人の悪い面を象徴してるんです。小林氏はゴー宣批判本で無断転載を巡った裁判で残念ながら負けちゃいましたが、本屋に転がっている謎本の類はやっぱり作家に心地よい本には思えません。同人誌のセレクションもいっぱい売っていますが、同人ネタになると売れ方もグッと上がったりしますので見逃しているのではないかと思います。
 馬鹿なファン、という言葉が感性の違いと
取られたのは残念です。確かに言葉は悪かったと反省します。しかし好みの違いなら私もここまで言いません。銀英のキャラをホモにしてヤンとシェーンコップのエッチシーンを描くことも感性の違いでしょうか。自分の好きなキャラが死んでしまったらもうその先を読まない、という読者もいいですか。作品の質でいうと、銀英大好きですけど、最終巻の完結の仕方はベストではないです。やはり一級になりきれませんでした。残念なんです。本当に。それでも「すばらしい」「最高だ」
と絶賛するのがファンではないでしょう。
金正日を崇め奉るのが彼の為でないのと一緒です。田中芳樹氏が外伝を六巻まで描けなかったのは、本人いわく「同人誌でいっぱい
あるからもう描く必要もない」でした。確かにすごい作品もありましたけど、やっぱり先生の筆で読みたかったですよ。作品へのラブコールであった同人誌が自己主張の作品になったなら先生に見せてほしくなかった。
 若い層でもファンはいっぱいいますよ。でも昔のファンという概念と今のファンという
概念は果たして同じか、要検証、とも思います。

board1 - No.1981

いわんとしてることはわかるんですが・・・・

投稿者:satoko
1999年09月12日(日) 04時01分

>ホリーさんへ
文章力がないのは私の方です。うまく伝えられないのが残念ですが、とりあえず。

出版の話なんですが、とにかく私が分かって欲しかったのは、「自分が好きな物に走ってしまう同人と幅広いスタンスで売れる物をビジネスとして作っている出版」というけじめの部分だけ理解して頂ければ良かったんです。もちろん其処にモラルはあるのかと言われれば、どうでしょう?しかし、そこにはニーズがあるから出版されるのでは?モラルの線はだれが引くのか私にはわかりません。法でしょうか?社会規範でしょうか?どうかはわかりませんが、結局は最終的にそれを判断するのは個人個人なのではないでしょうか?これ以上は私からは言えません。

私はここまで書いてきた中で、同人(またはそれまがい)の中の作品を責めるなとは言っていません。出版社を同人レベルで見ないで欲しいと言っているんです。

ファンの事についてですが、これはあなたの考えに猛烈に抗議したいと思います。管理人さんにもちょっと関わるのですが、ファンがどのように楽しむか、どのように感じるかと言うのは勝手でしょう?私はそれがファンのあり方として間違っているとは思いません。書き込みの中にもありましたが、挿し絵が好きだからと言う人もいるでしょうし、社会評論云々を抜きにして単純にストーリーの展開を楽しむ人もいるでしょう。
個人的な事を言えば、私は田中作品は基本的にキャラクターを楽しむ作品だと思う。「きゃー、ミュラー!」「始クン、素敵!」と言うファンがいてもぜんぜんかまわないしちょっとファンから抜けて言わせてもらうと、「創竜伝」などは大学生がまじめになって読むような本じゃない。(といいつつ宮部女史の「竜は眠る」とか読んでるから同じレベルかもしれないけど^^;)軽く、はちゃめちゃすぎる部分を笑い飛ばす程度の作品でしょう。読み終わった後「あ~、わらった。日本が不景気なのは竜堂兄弟が公共の建物壊し過ぎるからだな~、はっはっは~。」って程度じゃありません?それが面白くて買うのはいけないことでしょうか?中学生の私の従妹も創竜伝の熱烈なファンですが、「田中先生はきっと泥棒に入られても、国家権力の陰謀だっていって警察に通報しないんだろうな~。」くらいの冷静さはもってます。(ただこの子は中学生にしちゃちょっと冷静過ぎ)

ファンは作者を支えると言いますが、それ以前に自分の楽しみが先行して悪いという事はないでしょう?たいしておもしろくもない作品だと思われる物でもその人なりの楽しみがあって買った場合、結果として田中氏に楽に稼がせるという事になるとしても、その人が責められるいわれはないはずです。だって、ファンは田中氏のためにあるわけではなく、自分自身のために田中作品を手に取ってるんですから。

もちろんそんな事も分からずにそれに田中氏が便乗してぷらぷらしてるのであれば、「田中氏は」責められるべきですが。

board1 - No.1982

楽しみ方

投稿者:Merkatz
1999年09月12日(日) 21時57分

この問題って難しいですよね。
私はアニメオタクなんで、同じ問いかけをアニメでもするわけです。こんな作品見て喜んで馬鹿じゃねーのって。
でも同時に「たで食う虫も好き好き」というのも分かるんです。だからこの手の議論って、たいがいお互いに接点のないまま平行線をたどってしまうのも、まあしょうがないかなあと。

でも一つだけ、譲れない意見がある。それは「悪貨は良貨を駆逐する」です。

つまり、一つの作品をどう楽しむかは個人の自由なのですが、そういう特異な楽しみ方(邪道とあえて呼びます)が大勢を占めたときどうなるか。なるほどそういう作品が売れるのか、という勘違いを生み、邪道な楽しみ方をする人に受ける作品が氾濫することになり、正当な楽しみ方をする人の作品が少なくなってしまいます。
作る人間の態度は、競争原理でふるいをかけるべきことと思いますが、出版社というものはあくまで商業主義です。売れる物を提供しようとします。作品の質が悪くても売れるという矛盾する関係などお構いなしです。

もちろん、何をもって正当な楽しみ方・邪道な楽しみ方と分けるのか、それこそ個人の自由ではと言うかもしれませんが、少なくとも「小説」というものに対し、「イラストが気に入ったから」という理由で楽しむというのは、正当でないと思います。小説とは文字を読むものなのですから。
そして「小説(文字)を読む」とはそこに書いてあることをすべて読むということであり、一部だけを読む行為を指して言わない。「私は○○を読んだ」というとき、気に入ったページだけ読んで、後は飛ばした者をその本の理解者といえるのか。

だから、「小説を楽しむ」というとき、それはすべてを読んで理解することが「正当な楽しみ方」だと思うのです。
その「正当な楽しみ方」に照らしたとき、創竜伝は社会評論が物語をぶち壊しているのは明白だと思います。

正当な楽しみ方だけが存在を許されるということではなくて、邪道な楽しみ方をする人が居ても結構だと思います。しかし、それはあくまで少数でなければならない。それが大勢を占めたとき、作品の質が悪くても売れるという矛盾、「悪貨は良貨を駆逐する」が起こる。
今の田中作品は明らかに邪道な楽しみ方をする人達によって支えられていると思います。


同人的なものの氾濫って、なんなんでしょうね。結局はそれぞれの相関関係であり(モラルの低い作家、商業主義の出版社、そういうものを進んで求める消費者)、1箇所だけを取り上げてもどうしようもないことなのでしょう。
私個人としては、面白ければ同人でもプロでもよいと思うのですが、商業ベースに乗せたとき、それを同人と呼びうるのでしょうか。プロとアマの垣根が低いとはこういう所にあるのでしょうね。

board1 - No.1983

「悪貨は良貨を駆逐する」

投稿者:本ページ管理人
1999年09月12日(日) 22時21分

 すみません。論旨に関係ないことは承知なんですが、ちょっと指摘を。

 「悪貨は良貨を駆逐する」というのは、「グレシャムの法則」のことで、名目価値は同一だが、実質的価値の異なる二種の貨幣が同時に使われるとき、良貨は貯蔵され、悪貨だけが市場に流通する傾向を意味した言葉です。
 つまり、語弊をおそれずに言うと、良貨が引く手あまたで売り切れ続出で市場から消え、代わりに悪貨が不良在庫を起こして市場に溢れている状態がグレシャムの法則であり、世間で思われているのとは全く正反対の意味になります。

board1 - No.1984

たしかに・・・

投稿者:satoko
1999年09月12日(日) 22時44分

>Markatzさん
確かに、こういうファンのあり方についての問題って平行線をたどりそうですね^^;

ただ、すこし意見を言わせてください。私はいろんな楽しみ方をするファンを、正統とか蛇道とは思いません。全員正統です。挿し絵を楽しむのも、社会批判を斜め読みするのも、みんなちゃんとしたファンです。それを言うと平行線なのですが、どんな楽しみ方でもかまわないはずです。

「こういう蛇道なファンが増えると良い作品が減って、正当な小説のファンが困る」
というのはちょっと批判する方向が間違っていると思います。前回も言いましたが、ファンはいい作品を作らせるための道具ではありません。どんな状況であろうと、いい作品が作られてファンがついていくものでしょう?

これも前回かいたことなのですが、確かに田中氏は現在楽に稼げる状況にあるかもしれません。でも、それにおごっていいかげんな作品を書いているならそれは田中氏は批判されるべきです。ですが、ここで言うようにいろいろな楽しみ方をしているファンにその理由を押し付けるのであれば、田中氏も「ずいぶんいい言い訳ができた」と逆に喜ぶのでは?あくまで作るのも作品に対する最低限のプライドを持つべきなのも、作品に対する責任を持つのも田中氏なのです。それを他に責任を求めるのは、違うと思います。

ちなみに、
前から気になっていたのですが、田中信者ってどういう定義なのでしょう?私の周りの田中信者って思われる人はいわゆる「作品の中の世界」を楽しんでる人ばかりで、田中思想に共感する部分はあるとは言え、全面的にその思想を受け継ぐみたいな人は見た事ないです。(いたとしてもそれはかなり少数だと思う)どちらかと言えば、みんなどれどれのファンでミーハーなノリの人が多いです。
それと比べて、たとえば小林よしのり氏の信者と言われてる人たちは全面的によしりんの考え方を信じ込んで(ちゅーか、普通に読めばよしりんのメッセージはそういうのをやめて個を確立しろって言ってるの、わかんないのかな?)いる人たちでしょう。

蛇足
私はよしりん大好きだけど、今回のよしりんの裁判の判決はずいぶん良識的で当然の判決だと思う。各掲示板で暴れまくってるよしりんファンもう一度判決文を冷静に読んで、何でこういう判決になったか考えてみて欲しい。僕らのよしりんが負けるなんて!ってそこにこだわるんじゃなくてね。

以前、ジャンルがぜんぜん違うのに田中氏とよしりんを比べるなといったのはこのあたりからなんです。で、とりあえずこの掲示板での田中信者の定義ってどういうものなのか教えて頂きたいと思います。(ああ~、また書いてしまった・・・、時間が・・・)

board1 - No.1985

satokoさんのおっしゃる事は正論なんだけど・・。

投稿者:一新人漫画家
1999年09月13日(月) 04時55分

お客を楽しませるのがプロのエンターテイナー・・。

いわゆる「いい作品」を作ろうとしても
読者自身がそんなものを求めていない。
プロならばお客を楽しませるべきだ、の考えのもと、
そういうミーハーファンに向けた作品ばかりが
量産されていく。
作家の信念やプライドは「ガキの戯言」と
かたずけられてしまう。
売れないものは、発表する場も与えられない。

Merkatzさんのおっしゃる通り、これが現実です。

ここの掲示板で、よく「エンターテイナーとして失格」
という言葉を目にしましたが、
私の意見は逆で、田中氏は「プロのエンターテイナーになってしまったな」
と思ってます。
初期の、若い頃の青臭いまでの作品に対する
ひたむきな態度(ここの皆さんのような)が薄れ、
「大人」になってしまったと。

業界の片隅に足を突っ込んだ今の私の考えとしては、
「読者を無視してでも」自分の作品に対するひたむきさを
いつまでも失ってはいけない、と思っています。
「エンターテイナー」であるよりもまず「アーティストたれ」
とぐらい思っていないと、自分の思う「いい作品」は作れないようです。

残念ながら大半のファンは、(アニメでもマンガでも)
カッコイイ(かわいい)キャラが出れば
それで満足のようですから・・・。

突然の横やりですみません。
ROMに徹するつもりでしたが、
お邪魔してしまいました(笑)。

銀英伝は、自分も作家になってこんな話を
作りたい、と思わせてくれた作品です。
本当に面白かった。

今でも、銀英伝にはまった自分自身を
否定する必要はないと思っております。

board1 - No.1986

極論!

投稿者:石井由助
1999年09月13日(月) 07時04分

>「こういう蛇道なファンが増えると良い作品が減って、正当な小説のファンが困る」
>というのはちょっと批判する方向が間違っていると思います。前回も言いましたが、ファンはいい作品を作らせるための道具ではありません。どんな状況であろうと、いい作品が作られてファンがついていくものでしょう?

 これはちょっと違うんじゃないでしょうか。ファンは良い作品を作るための道具ではないけれど、作品は書き手と読み手がいて熟成されるものでしょう? このデンでいけば、作家は多数派ファンの欲望を満たすための道具ではない、とも言えます。

 なんというか、田中芳樹が日本人の民度や政治家を批判するときの論理がそのまま彼に返ってますね。「日本は社会主義国ではなく、いちおう民主主義国だ。選択肢はあるのに馬鹿な政治家を選ぶのは国民の責任だ」というヤツですが、政治家を作家に、国民をファンに入れ替えればドンピシャでしょう。ファンが馬鹿な作家を選ぶことに道義的責任がないのなら、国民が馬鹿な政治家を選ぶことに道義的責任はない…そうか、田中芳樹は身をもって民主主義の危うさを体現してくれているわけです!


 我々が今の田中芳樹に不快感を覚えるのは、ヤンがトリューニヒトに不快感を覚えるのと近い感情のような気がします。共にきわめて矛盾じみたところから発する不快感ですね。

board1 - No.1987

補論

投稿者:石井由助
1999年09月13日(月) 07時34分

>お客を楽しませるのがプロのエンターテイナー・・。
>いわゆる「いい作品」を作ろうとしても
>読者自身がそんなものを求めていない。
>初期の、若い頃の青臭いまでの作品に対する
>ひたむきな態度(ここの皆さんのような)が薄れ、
>「大人」になってしまったと。

 どうも初めまして。
 その通りですね。誤解を恐れずに言えば、大衆化社会の商業作家として必然と言えるかも知れません。
 他の作家なら、愉快ではないもののそれはそれで良いでしょう。しかし、大衆社会の衆愚化をテーマに小説を書き(銀英伝)、創竜伝に至っては評論でいまだに批判し続けている田中芳樹には、自らのソフィスト化、自分のファンの衆愚化に対する責任も派生するはずです。田中芳樹が他の作家よりも責められる要因はここにあると思います。
 一見する限り、むしろ、田中芳樹を批判している方が、ファンよりも田中芳樹の思想の良質の部分を受け継いでいるように思えますね。

 ファンの方は、もちろん田中芳樹の思想に盲従する必要はありませんし、田中芳樹の思想と作品は別として楽しむこともできるでしょう。しかし、田中芳樹の思想を本質から嘲笑するような態度を(無意識に、結果的に)とるのがファンなのか? もしファンだとしたら馬鹿なファンではないのか? というのがホリーさんの「馬鹿なファン」の意では無いでしょうか(違ったらごめんなさい)。

board1 - No.1988

嗚呼、自戒

投稿者:仕立て屋
1999年09月13日(月) 09時38分

 毎度、仕立て屋です。

>少なくとも「小説」というものに対し、「イラストが気に入ったから」という理由で楽しむというのは、正当でないと思います。小説とは文字を読むものなのですから。


 昔ほどではありませんが、表紙絵で本を選ぶ若干の傾向のあるわたしとしては、耳の痛いことです。かの創竜伝購読のきっかけも、”ハンニバル”シリーズからのファンである天野先生がカバーイラストを手がけていたからなんですよ。アルスラーンもしかり。こうした読書傾向は邪道であるかもしれませんが、ぶっちゃけた話、赤塚不二夫先生による表紙のファンタジー本やSF本を手にとる気が起こらないように(こればっかりは好みの問題ですが)、外面から作品に入るのも致し方ないように思われます。ま、部数のはける作家や作品に人気のイラスト作家がつくのは市場原理からして致し方ないことなのでしょう。が、読むきっかけが外面からであっても、読み込んでゆけば、化けの皮ってのは剥がれるものです。よい作品(これって読者の立場もあるだろうし、判断の難しい問題です)を育む土壌が、作家、出版社、読者の間で成熟され、それに基づいた市場原理によって、良い作品には人気のイラストレーターが付くというのであれば、わたしのような読書癖をもつ読者がいても問題ないように思います。しかし、現実は正常な市場原理が働いているようには思われません。作家が悪いのか、それを求める読者が悪いのか、はたまた作品を選別する媒介の出版社が悪いのか、判断の難しいところです。

>一新人漫画家さんへ

<「読者を無視してでも」自分の作品に対するひたむきさをいつまでも失ってはいけない、と思っています。>

 例えが妥当かわかりませんが、小林よしのりの「戦争論」が売れて、その手の学者の著作が何故売れないのか? たしかに購読対象年齢層の購買力の差にその原因をもとめることができるのかもしれませんが、小林氏も公言しているように"エンターテイメント”の追及は、やはり大切なことであるように思います。作家は読者に読ませなければなりません。でなければ好きな作品も書くことができなくなります。が、注意しなければならないのは、エンターテイメント性を追及するがあまり、作品性をそこね、主客が転倒してしまうことです(創竜伝がよい例)。エンターテイメント性も良質な作品性があってはじめて光り輝くように思われます。作品性とエンターテイメント性は決して矛盾するものではないと考えます。わたしの好きな漫画にベルセルクがありますが、これは、その重厚な世界観,構成力とエンターテイメント性が見事に両立している好例であると思います。実際、部数もはけていますし、作品性とエンターテイメント性の両立が部数に結び付くことは良いことだと思います。さしでがましいですが、頑張って下さい。


>「悪貨は良貨を駆逐する」

 貨幣の本質のひとつは流通であり、「駆逐」の言及対象は貯蓄ではなく流通上の現象をさしているのですから、Merkatzさんの用法は適当です。世間一般でもMerkatzさんの用法で、この言葉は使用されています。御存じでしょうけれど、念のため。

board1 - No.1989

田中信者の定義

投稿者:はむぞう
1999年09月13日(月) 10時04分

satokoさんへ

>前から気になっていたのですが、田中信者ってどういう定義なのでしょう?私の周りの田中信者って思われる人はいわゆる「作品の中の世界」を楽しんでる人ばかりで、田中思想に共感する部分はあるとは言え、全面的にその思想を受け継ぐみたいな人は見た事ないです。(いたとしてもそれはかなり少数だと思う)どちらかと言えば、みんなどれどれのファンでミーハーなノリの人が多いです。

私も以前「田中信者」という書き方をしたことがありましたので、私なりの定義を書いてみたいと思います。これは私個人の独断と偏見で定義していますので、他の方々の定義からみると違うと言われる部分もあるかもしれません。

私がこのように感じる人たちは、今から10年ほど前の高校などの学生時代に沢山いました。「とにかく田中氏の書く作品は最高である。だからその主張は全部正しい。この素晴らしさを多くの人に知ってもらいたい。だからみんなに読ませなくてはならない。しかしもし批判変的なことを口にする人は正しい道に戻してあげなくては」というような発想をする人のことで、なかには田中氏の本は現代の聖典であるとまで言う人たちまでいます。つまり各自程度の差はあるでしょうが、田中氏を教祖もしくは神のように言う人たちですから、私は田中教の信者のようだと感じました。
ここでいう田中氏の主張とは、あとがきなどで書かれていることだけでなく、創竜伝などの作品中にでてくる社会批判も含まれています。日本の政治家も警察も自衛隊も大企業も全部間違っており、正しい社会を実現しているのは中国とソ連などと、授業中でも平気で発言していました。中国はともかく何故ソ連かというと日本と敵対している国だからという理由でした。
みんなに広めるという点では図書委員をしていた関係で、そのような人たちと知り合う機会が多く閉口させられました。彼らの主張は「田中芳樹関連の本をすべて入れろ」「図書委員会の発行する新聞には毎回、田中作品の特集記事を載せろ」「委員会主催の読書会や文化講話の課題図書やテーマを田中作品のなかから選べ」などです。できる範囲では応じましたが、購入冊数が少ないや特集のページが少なすぎるなどの批判を受けました。
批判は許せないという点では、話の矛盾や設定上の疑問を指摘すると、ものすごい形相で内容はともかく田中氏を批判しようという姿勢が気に入らないとなじられたことがあります。
また、田中氏に関連する本やカセットのたぐいは、ファンなのだから例え二重になっても興味のないジャンルであっても全部買わなければと主張し、それを他人にも強制しようとしていました。しかし必ずしも全部読んでいる訳でもないようで、創竜伝やアルスラーン戦記から入ったという人の中には、初期のSF作品は購入し本棚に並べた時点で満足して開いてないという人もいました。

長くなってしまいましたが、別に私は「田中芳樹ファン=田中信者」と言うわけではありません。そうでない人も大勢知っています。あえて田中信者と呼びたいのは、まず田中芳樹の名前を掲げてそうでない人たちに強制したり迷惑をかけたりする人たちのことです。単純に作品を楽しむだけの人や、思っても他人に強制しない人を指してはいません。もっとも、最近では新しい作品が出ない為か、単に自分の年に合わせて周囲の年齢層も高くなった為か、田中ファンはいても田中信者と呼びたくなる人は見かけなくなりましたが。
以上が、私が「田中信者」という言葉を使う上での定義です。

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