-
- board1 - No.1244
先生、大変なことになってます
- 投稿者:本ページ管理人
- 1999年05月12日(水) 15時58分
ttp://www.jan.sakura.ne.jp/~snog/vote/vote.cgi?room=1631
誰かウチのサイトを紹介している人がいますね(^_^;) ひ~
-
- board1 - No.1245
ついでに前から疑問に思っていたこと
- 投稿者:Merkatz
- 1999年05月12日(水) 21時58分
>帝国領侵攻そのものはヤンも否定していません。ただタイミングが悪すぎるということでしょう。適時適度の介入(同盟の体力を過度
>に消耗しない程度の)により帝国の混乱を助長し、出来れば同盟の影響力を帝国内部で増大させることにより、戦略的優位を確立すると
>いう戦略を構想しているくらいですし。
ヤンは戦略家として一級でしたから、どのようなケースでも想定していたんでしょうね(ただし同盟政府の愚挙は除く)。
で、ついでといっては何ですが私が前から疑問に思っていることがあるんですよね。
それは親友のラップが死んだときのヤンの態度です。
ロイエンタールとミッターマイヤー、イワン・コーネフとポプランの例を見てもわかるとおり、ふつう親友が死ねば大変嘆き悲しむものです。
ですがヤンのラップに対する態度はあまりにさばさばしすぎてます。
戦闘中はまあ仕方ないにしても、ハイネセンに戻って墓参りをするときにもほとんど他人事のような態度です。
ジェシカにだけは気遣いをしていましたが、あくまでジェシカに対するものであって、ラップに対する情が感じられません。
ヤンはそういう感情が希薄かというとそうではなく、ビュコックが死んだときは取り乱してます。
そこで私は考えたのですが、実はヤンはラップが死んだことを喜んでいたのではないでしょうか。
周知のようにヤンとラップは共にジェシカに好意を抱き、ヤンは友情のために譲っています。しかし実はヤンはラップに嫉妬していて、その感情が拭い切れなかったのではないでしょうか。
ですが表面は変わらぬ友情を維持していますので、ヤン自身もラップに対し嫉妬を抱いていることを自覚していなかったのでは。
それがラップが戦死したときに、あのような冷たい反応を引き起こしたのではないでしょうか。
本人は自分がラップに嫉妬していて、死んだことを喜んでいるなんて自覚はありません。
しかし親友が死んだというのにあの冷たい態度は、その死を歓迎する気持ちがなければありえないものです。
そのことに対する無自覚さが、却ってヤンの嫉妬心が根深いものだと想像させるのですが、いかがでしょうか。
-
- board1 - No.1246
歴史小説と歴史の違い
- 投稿者:Merkatz
- 1999年05月12日(水) 22時50分
冒険風ライダーさんと俺様ランチさんが岳飛と秦檜について論じてましたけど、私は彼らがどのような人物かは知りません。「紅塵」も読んでないので。
ですがひとこと言わせてもらうと、歴史小説の人物が酷く書かれているからといって、批難に値しません。
例えば徳川家康を書いた小説の中で、石田三成が悪く書かれているからといって、「この作者は歴史を知らない」と批難できますか?
出来ませんね。なぜならこれは家康を主人公とした小説なのだから敵対者の三成が悪く書かれるのは当然です。
そして「紅塵」。これは歴史小説です。どうやら岳飛が主人公のようですね(違っていたらすいません)。だったら敵対者の秦檜が悪く書かれるのは当然でしょう。
無論、秦檜を悪く書くことにしたということは、田中芳樹自身の歴史観が関係しているのでしょうけど、面白い歴史小説を書くことと、歴史人物に正当な評価を与えていることとは、別問題でしょう。
秦檜への不当に低い評価が「紅塵」という歴史小説をくだらなくしたのなら、批難に値しますが、これは面白い(らしい)のですから、まったく問題ないと思いますね。
ですが、だからといって冒険風ライダーさんが秦檜に対して弁護したことが無意味だとは思いません。
小説では悪く言われているけど、実際はこうだったんだよという紹介は、小説で一面的にしか知らなかった人物の他方の面を知ることになり、勉強になりますし、また違った角度から小説を読み返すことも出来ます。
冒険風ライダーさんと俺様ランチさんは、それぞれ拠って立つものが違っていたために、すれ違いになったのでは?
冒険風ライダーさんは「歴史の」秦檜を、俺様ランチさんは「歴史小説の」秦檜を述べていらっしゃったのでは?
喩えるなら諸葛孔明は天才軍師か否か、かたや「正史」をもとに、かたや「演義」をもとにという感じです。
私は冒険風ライダーさんの記述から、秦檜という人は本多正信みたいな人物なんだろうなあと思いました。
彼も腹黒い策士として当時からめちゃくちゃ嫌われていて(家康が狸親父といわれるようになった謀略のすべてに関わっている)、今でも彼を良く書いた歴史小説なんてめったに見ません。
しかし彼は徳川幕府誕生に多大な貢献をしていて、彼なくしては家康は天下を取ることはできなかったでしょう。
冒険風ライダーさんの秦檜弁護は意義あるものですが、田中芳樹の歴史観までうんぬんするのは行き過ぎでしたし(紅塵がくだらないのであればそれでよかったのですけど)、俺様ランチさんの秦檜は田中芳樹の言うとおり、有能かもしれないがエゴイストだというのも、歴史小説と歴史を混同しているものでしょう。
というわけでこれは両者痛み分けというところですね。
・・・こんな偉そうなこと書いて自分が一番叩かれそうで恐いなあ。第3者の勝手な見解だからお二人とも怒らないでね(^^;)。
-
- board1 - No.1247
仕立て屋さんへ
- 投稿者:satoko
- 1999年05月13日(木) 05時16分
ちょっと忙しくて2日ほどみてないうちに、仕立て屋さんが話題を終られたようなのですが、とりあえず、レスを書かせていただきます。
「ぜんぜんこれじゃあ回答になってない。」という言葉をお見受けしたしましたが、最初の文章を書いた時に、「まずい文なので理解できない部分などは書いてしてほしい。」と書いていたにもかかわらず、嘲りと共にその努力を放棄し、その後にそこを論点として聞いているのではないと説明したにもかかわらず、そちらが問題だとして話を持ってくるあなたに私は何を回答したらよいのでしょう?
私はそのような理論を聞いた事がなかったのですが「いいだしっぺが一番意見を言わなければいけない。」という考えをお持ちのようなので、私が聞きたかった事、言いたかった事とは多少違うかもしれないのですが、もう一度質問いただければ全力でお答えいたしますので、質問していただければ幸いです。
今回の件に関して管理人たる石井さんからの回答は十分に的を得た的確な回答であると感じてますし、その件については私なりに納得できたのですが、そこへの横レスやその他の部分を読んでますとどうも私の文を汲み取っていただいてない気がいたします。私の主張が一貫してないとおっしゃってますが私としては「ジャンルを超えての田中氏と小林氏の比較は間違っているのではないか。」で一貫していたつもりです。
「こういう言い方はないでしょう。」とおっしゃった文に関しては、「礼儀知らず」と御自身が自負なさっていたものに対して「礼儀知らず」な発言がどれほど説得力をなくすかという例を示してみただけの事で、深い意味などなく価値観云々以前のレベルのものです。冷静さを欠いていた文であったことはここで謝罪しておきます。
「中略以後の言葉を理論的に説明してほしい」との事だったのですが、それは人間の感情的な部分ですので、感情で理解できないでいらっしゃるのであれば私もなかなかに説明は難しいので、またうまい言葉で理論的に出そうでしたら、ここの趣旨と外れすぎてしまうと思いますのでメールなりでお答えいたします。とりあえず話し言葉で感じた事を書いておくと「たたが私一人が理解できなかっただけで、皆さんの優れた論争を軽んじるとは随分失礼な発言だな。」といったものでしょうか。
以上かいてみましたが、これから一週間ほど忙しいので、何か書かれましてもレスが随分遅れてしまうと思いますが許してください。メールにての回答でも(っていうかそっちの方がいいかも)かまいませんので、何かございましたらご意見お聞かせください。
失礼します。
-
- board1 - No.1248
Merkatzさんへ
- 投稿者:冒険風ライダー
- 1999年05月13日(木) 07時37分
う~ん、うまくまとめられてしまいましたね~(^^;)。
確かにその考え方ならば、私と俺様ランチさんの論争がすれ違いになってしまった理由がわかりますね。まあ私の場合は、巷にあふれている秦檜評価も田中芳樹と似たり寄ったりという状況に風穴をあけられないか、とも考えて、あえて秦檜弁護派として田中芳樹を糾弾する、なんて書き方をしていましたから、「田中芳樹の歴史観を叩いている」と誤解されたかもしれませんね。これは書き方がまずかったと反省しております<m(__)m>。
アンチテーゼ的に書くのならば、「紅塵は秦檜についてこんな酷評をしているが、実際にはこんな評価もある」という書き方の方が良かったでしょうね。
後、田中芳樹は「風よ、万里を翔けよ」という小説で、比較的公平に隋の煬帝を評価していたために(彼も「隋の暴君」として書かれていますから悪役でしょうね)、「それが何で秦檜になるとあんな否定一辺倒になってしまうのか」と疑問に思っていた、というのもあります。田中芳樹はアルスラーン戦記や銀英伝でも「否定一辺倒」という評価はしていませんでしたから、それがかなり印象にあったんですよね。他の作家ならばあんな投稿はしませんよ。
ところで、「紅塵」の主人公は岳飛ではありません。韓世忠の息子である韓子温というのが「一応の」主人公ですが、全く目立っていません(笑)。機会があれば読まれる事をお勧めします。もちろん古本屋で購入して(^^;)。
それとヤンとラップの関係についてですが、銀英伝1巻では、まだ「親しい関係」という設定がなかったのではないでしょうか。ラップの墓参りは原作にはありませんし、ヤンとラップの関係は、後半の巻や「外伝」の方で盛んに論じられていますからね。
小説の設定以外の解釈としては、ラップは小説では「病気療養」なんて設定もありましたので、士官学校を卒業した後は面識があまりなく印象が薄かったために、何とも思わなかったのかもしれません。士官学校卒業後は、いつも顔を合わせる関係でもなかったようですし。
これはちょっと不完全かな。
-
- board1 - No.1249
新シリーズ計画
- 投稿者:冒険風ライダー
- 1999年05月13日(木) 07時42分
「私の創竜伝考察シリーズ」、最近異常に評判が悪いですね~。「右傾的だ」だの「イデオロギー臭がある」とか言われていますし(T_T)。しかし元々、このシリーズは「田中芳樹信者」のような新規参入者のために作ったものではないし(ある程度田中芳樹に疑問を持っている人用に「創竜伝の実態を明らかにする」という目的で作っていました)、「社会評論やストーリーの矛盾を叩く」というスタンスを取っていますから、やはり必然的に「右傾化」してしまうんですよね。できるだけ「田中芳樹は左翼だからイケナイ」というストレートな批判は避けてきたつもりなのですが。
このままでは連載がやりにくくなりますし、私も「田中芳樹を全否定している」などと誤解されてしまいますので、田中芳樹が比較的正論を述べている部分や、小説の名場面を取り上げ、それを肯定的評価orやや疑問符をつけるという「初心者むけ」のシリーズを「私の創竜伝考察シリーズ」と同時並行して連載していこうという企画を立てることにしました。この二つのシリーズを読み比べてもらい、創竜伝の実態がさらに明らかになればもっと強力な批判にもなりますし、私に対する誤解も解ける!!
……となれば良いのですが(^^;)。
たまきちさん、
<これは学生時代によく教授方から言われたのですが、「どんな人が見ても、
たとえ予備知識のない人であってもなるほどと納得するような論文を書け」
という言葉です。でも私もいまだに出来ません。書いた後に後悔してばかりです。>
実は私もそうでして(^^;)。私もいつもそれを目指して連載をしているのですが、やはり「誰にでも分かる文章」というのは難しいものです。現に誤解されていますしね~。お互いに「誰にでも分かる文章」を目指してがんばりましょう(ちょっと説教っぽくなったか(^^;))。
-
- board1 - No.1250
ヤン薄情説
- 投稿者:謎の転校生
- 1999年05月13日(木) 19時38分
Merkatzさんはじめまして
稚拙で素っ気無いレスで恐縮なのですがヤンがラップの死に薄情に見えるのは作者が銀英伝1巻に詰め込みすぎたことが原因ではないでしょうか。ヤンやラインハルトの紹介、アスターテ、イゼルローン、アムッツリア会戦と舞台がめまぐるしく変わり、3巻以降のキャラクター描写に比べるとどうも1、2巻は世界観を見せることに重点がおかれキャラクターの心情までいちいち描き切ることができなかったのではないでしょうか。
親友のはずのラップ同様ひそかに思いを寄せていたジェシカの死に対してもこれといった悲痛も描かれてませんからこれは作者の省略だと思います。
またヤンの嫉妬に関しても作品中ヤンとフレデリカの話に当然出るべきジェシカの影が全くといっても出てこないところからみても、作者が話の中で男女間のどろどろした愛憎劇を意図的に削っているように思えるんです。ヤン、ミッターマイヤー、ユリアンなどは綺麗な女の子とめでたしめでたしという単純なパターンですしロイエンタールの性に対する屈折もいまいち説得力に欠けるエピソードです。以前に誰かがおっしゃっていたように田中芳樹は女性描写に関しては上手ではありませんし、この手の話はほとんど皆無です。
ですからヤンにはラップを嫉妬する感情は無い、作者によって与えらていない、
というのが僕の見解なのですがいかがでしょうか?
-
- board1 - No.1251
創竜伝について
- 投稿者:ミル
- 1999年05月16日(日) 15時45分
はじめてカキコしますが、このページ見てるとみんな創竜伝に対して否定的な見方してるみたいですね。でも、私は創竜伝で田中芳樹の世界にはまってしまったのであまりぴんときません。といっても、私が好きなのは基本的なストーリーであって政治に関する批判ではないので、皆さんの言っていることにケチをつけるつもりはありません。むしろ作者への批判などを読むのは好きな方です。ただ、皆さんの意見を見ていると政治的な見方だけで創竜伝そのものまで嫌いになっているような気がします。私も創竜伝の理屈っぽいところはあまり好きではありません。何か1つするにも長々と説明するところは嫌いです。でも、竜堂兄弟の会話のリズムや、ストーリーそのものがおもしろいのも事実です。私はそういうところにひかれました。
いろいろと生意気なことを書いてごめんなさい。でも、私が思ったことを率直に書いてみました。
最後に、創竜伝が実写版になったときのキャストでこんなの思いつきました。
なっちゃんーーーサッチー
あぁぁぁごめんなさいーーー。熟女対決見てたら思いついちゃいました。どっちも今世紀最強の熟女(笑)
-
- board1 - No.1252
あれ、ちょっと違う?
- 投稿者:ミル
- 1999年05月16日(日) 16時42分
先ほどは、創竜伝について偉そうなことを書いていましたが、改めてみてみるとちょっと違うようなところがあったので書き足します。私は、政治的批判がどうのこうのと書いたのですが、創竜伝が嫌いといっている方はほとんど銀英伝と比べてのようですね。私は銀英伝をまだ少ししか読んでいないので、そのおもしろさはよくわかりません。とにかく私が言いたいのは、創竜伝だっておもしろい!ということです。
-
- board1 - No.1253
とりあえずの答え
- 投稿者:石井由助
- 1999年05月16日(日) 18時07分
>このページ見てるとみんな創竜伝に対して否定的な見方してるみたいですね。でも、私は創竜伝で田中芳樹の世界にはまってしまったのであまりぴんときません
好き嫌いというものは感情の問題ですから、人によっていろいろあると思います。ちなみに私は創竜伝が相当に嫌いですが、これも好みの問題を超えることはありません。
まあ、それはそれでいいんです。
ですが、私の本論やこの掲示板でいろいろ指摘されてきた「技術的に小説として不出来な部分」や「無責任かついい加減な評論」については善悪を超えて通用すると思います。
創竜伝の場合、ただキャラや話が好きなだけのファンならいいのですが(私とそりは合わないだろうけどそれだけのこと)、田中芳樹の評論部分を盲目的に語る人がいるじゃないですか。それはちょっとなぁ、と正直なところ思います。
別に左翼的評論が悪いわけじゃないですよ。そうじゃなくて、問題は語る姿勢です。田中芳樹の言葉を一言一句たてまつる行動が、もっとも田中芳樹を貶める行動だと思うのです。
>後半はミルさんへのレスじゃないですね。あしからず。
-
- board1 - No.1254
長者番付
- 投稿者:小村損三郎
- 1999年05月17日(月) 13時58分
平成10年度の長者番付が発表されましたが、
我らがよしきん先生は1歩後退の17位でした。
ttp://www.yomiuri.co.jp/tax/index.htm
最盛期はたしか7位くらいに入っていたような。
やや落魄してきたと見るか、年に1.5冊くらいしか書いてないのにまだまだすごいと見るか(^^;;)
ちなみにベスト3は西村・赤川の常連コンビに加えて3位に鈴木光司。来年は圏外だろうけど。
池波・司馬亡き後の歴史小説界では宮城谷昌光が地歩を固めつつあるようです。
あ、その次が神坂一だ・・・。
-
- board1 - No.1255
よしきん作家17位。よしりんは?
- 投稿者:石井由助
- 1999年05月17日(月) 14時58分
納税額と所得が違うことは前提として認識しなくてはなりませんが、一方で比例するものであることも事実です。
>我らがよしきん先生は1歩後退の17位でした。
>
>ttp://www.yomiuri.co.jp/tax/index.htm
>
>最盛期はたしか7位くらいに入っていたような。
>やや落魄してきたと見るか、年に1.5冊くらいしか書いてないのにまだまだすごいと見るか(^^;;)
私は後者だなぁ(^_^;)… 漫画家部門がないので分からないとは言え、その他部門を見るとよしりんとよしきんの納税額が近接しているか、下手をするとよしきんの方が上かも知れないわけだし。
思想とか作品の質とかは関係なく、あれだけ仕事をしたよしりんと年に1.5冊のよしきんがほぼ同額というのは納得行かないなぁ(笑)。
よしりんにはえらく有能な税理士がついているのでしょうか。そして、よしきんがえらく税金対策が下手だとか。思いっきり善意の解釈ですけど、これでなかったら許し難いものがありますね。
国会議員部門のトップが社民党というの人といのはともかく、国会議員でよしきんよりも多額の納税をしている人が五人しかいないというこの事実!
考えられる理由としては
1.国会議員はほぼ全員脱税(創竜伝論)
2.国会議員は適正な税理をしているが、田中芳樹が極端に税吏が下手である(創竜伝を読むと「節税は反社会的行為で悪」という極めて間違った思考を持っていると思われるフシもある)。
3.田中芳樹の収入が大方の国会議員のそれよりも多い。
私はどうも1以外と思うのですが…
-
- board1 - No.1258
ゴミカキコです
- 投稿者:ぱ~む
- 1999年05月17日(月) 17時43分
自称佐藤智和(厨房)くん・・・
なにがしたいの?
君が普段行ってるような
厨房向けサイトとは違うんだから・・・
TPOってもんがあるでしょ?(__;
このサイトは肯定否定はともかく
田中芳樹にこだわってるとこなんだし
存在意義を言及するなら
ありきたりな文句の前に
客観的で説得力ある理由を書かないとね・・・
#厨房向けな説明
#田中芳樹はOOOだから(もちろんファンに対しても説得力ある理由でね)議論する価値がない
#というよう文脈で書きましょう
#それでないと相手にしてもらえないよ
#まあこんなバカカキコしたあとじゃ
#恥ずかしくてもう書き込めないでしょうが
う~ん・・・
ただでさえ最近書き込み少なくて寂しいのに
なんでこんなバカがでるかな
私はROMってるばっかりなので
偉そうことはいえませんが,お気に入りサイトにこういうことされるとかなり嫌なので・・・
厨房は徹底的に無視無視~
-
- board1 - No.1259
善人なおもて歴史を動かす、況や悪人をや。
- 投稿者:新Q太郎
- 1999年05月18日(火) 03時25分
一度書いた文章(長文)を間違って削除してしまい、ぶっ倒れてやる気を失っていたのですが、もう一度書いてみます。
例の秦檜-岳飛について。(この場合「紅塵」と「中国武将列伝」を取りたてて区別しません)
秦檜とその和平策が、どれほど無私のものであったかと、合理的なものであったかを少し分けて考える必要があると思います。
私自体はその資料をしりませんが、田中氏も資料を調べたでしょうし、陳舜臣先生も同意されたようだから、私的な清廉さに欠けていたことは事実でしょう。そして和平策も、自らの利益やエゴをたっぷり含んでいたでしょう。
しかし、ここが面白いのですが、エゴと利益まみれの「悪」が歴史の中でまったく別の効果をもたらすことも多いわけです。豊臣家を、ありとあらゆる謀略の末に滅ぼした家康の大坂政策があったからこそ、三百年の(同時代のどこと比較しても)一般庶民にとっては安定・安楽に暮らせた「江戸文明」が成立したのであり、そしてその江戸を近代国家に、ほとんど無血で生まれ変わらせたのは徳川慶喜が、忠義の旗本たちを見捨てて船でこっそりと大阪城を脱出するという、どっかの貴族連合みたいな卑怯なことをしたからでしょう。
こういうダイナミズムを作品なり評論なりに組み込むと、それはすごく面白くなってきます。
ただ、並みの作家には難しいのも事実です。私が知る限りでは、卑怯な人の振る舞いが歴史を進ませることを描いて成功したのは司馬の「最後の将軍」と、フーシェをモデルにした漫画「静粛に、天才只今勉強中!」しかしりません。
しかし、宋と金との和平問題はこれを書くのに格好の題材であったはずです。だからそれを回避した田中氏にはマージャンで言うと、「この配牌なら役満狙えよ!マンガンで喜ぶなっつううの!」というもどかしさを覚えたのです。
そして、こういうものでよく見られるのは「悪役」の表現方法に困るとき謀略や腐敗を、取ってつけることで肉付けしようとすることです。秦檜の場合は事実の裏づけがあるから、そこまでいうのは言い過ぎかもしれないが、悪役の主張というか、拠って立つ中心そのものに対するアンチテーゼに説得力を持たせるのが本来です
(たとえば司馬の「翔ぶが如く」を読むと西郷の人格的偉大さに関わらず「ああ、近代国家にはやはり西郷的なものは有害なんだな」と思わせます。だからこそ西南戦争が説得的になるのです)。それをできず、悪役を腐敗やエゴという観点からのみ造形すると、その悪役自体が二流になってしまいます。
このへんは佐藤健二が「風の谷のナウシカ」映画版で指摘していました。「クシャナの巨神兵復活、腐海撲滅案に対するアンチテーゼに説得力を持たせられないから、宮崎はクシャナに長を殺させ『人を殺すのはよくない』という最低のレベルでナウシカや村人の抵抗を理由付けした」と。そういう点が似ている気がします。もっとも田中氏の作品中では紅塵より、この点でもっとひどいのありますがね(笑)。
あとはメモ。
*「謀略・残虐・不法殺害」などはその他の政治的功績を考えても悪と評価すべき、というのはひとつの考えだが(ヴラドへの評価もそうか)、じゃあ毛沢東は鉄板で極悪人だろうに。
*「秦檜評価論」はチャイナの歴史上皆無ではないはず。どこもインテリはひねくれてるのよ(笑)。まあ、日本の吉良弁護論みたいなもんで四捨五入すれば大悪人扱いされてることは、は間違いないが、一応参考に。宣和堂主人にでも聴いてみたい所だ。
列伝などでは金の「侵略」と書いてあるが、どこからどこまでを「統一」といいどこからを「侵略」というのか?この表記を間違うと、イロイロ困るので”ガイドライン”を中国政府もつくっていただきたい気がする。チベ・・・「解放」もありましたね、はい。
-
- board1 - No.1260
新Q太郎さんへ
- 投稿者:近藤崇仁
- 1999年05月18日(火) 09時54分
はじめまして。平素はROMをしておるものです。
「善人なおもて歴史を動かす、況や悪人をや」非常に面白かったのですが、少し気になる点がありました。
文中で用いられている「卑怯」という言葉です。この言葉には「臆病」と「卑劣」という、似て非なる意味あいがあります。
慶喜の行動は「怯懦」でしょうし、家康の行動を卑怯と呼ぶ場合は「卑劣」でしょう(いくらなんでも豊臣家に本気で徳川家を滅ぼせると思っていたほど家康は馬鹿ではありますまい)。
それで気になったのは、新Q太郎さんは、秦檜についてはどう考えているのでしょうか?
「卑怯な人の振る舞いが歴史を~」というところからすると、「臆病」ととっているのかという気もするのですが、一方で前半部では「エゴと利益まみれの悪」という形で持ち出しているようにも見えます。
私の場合、わりとこの両者を分けて考える人間でして、悪辣なチェーザレ・ボルジアや李世民の行動を絶賛する一方で、政権を投げ出す近衛文麿への評価は最悪です。
何だかまとまりがなくなったので失礼させてもらいます。変な書き込みになってすいません。
-
- board1 - No.1261
いち「銀英伝」ファンの感想 7
- 投稿者:Merkatz
- 1999年05月19日(水) 12時23分
「創竜伝」9巻まで来ました。残りも僅かとなりました。ところで創竜伝って何巻まで出ているんですか?図書館には10巻までしか置いてないもんで。
仙界だの天界だのなんかむちゃくちゃになってますね。1巻を読んだときこんな展開になろうとは想像だにしませんでした。なんとまあ大風呂敷を広げたものだと感心します。どういう風に終わるつもりなんでしょう。
例の月の空気の件、出てますね。まあ見苦しいものです。管理人さん(だったっけ?)がおっしゃってたように押し通すか、あとがきで素直に謝るか、どちらかが作家として誠実な態度だと思いますが。あっそうか。「創竜伝」は所詮、小銭稼ぎに書いているんだから誠実さなんて必要ないんだ。
「楊家将演義」の話が出ていましたが、あれが面白いという意見には賛同できます。かつてNHKのBS放送で「楊家将」という中国製ドラマを放送していたのを見たんですが、すごく面白かった。残念ながら途中から見たので、楊継業の話は知らないんですが、息子の楊袁紹からは最後まで見ました。
機会があったら読んでみたいなあと思っているのですが、出ているんでしょうかね。まあそれは置いておいて、中国文学の紹介が三國志に偏っているからといってそんなに青筋立てて怒ることでしょうか。
だって所詮よその国の文学作品ですよ。まんべんなく人気が出たりするもんですか。それぞれの国の国民の好みというものがあるんですから。
それを無視して「こんな面白いものが受け入れられないのはおかしい!」と力んだところで、日本人に中国人と同じ趣味・嗜好になれといっているのに等しいですよ。
そういう自分の考えを他者に押し付ける行為は、「創竜伝」などで田中芳樹自身が強く非難していたはずですけどね。
余談ですが、5月15日の読売新聞に「陳舜臣中国ライブラリー」という本の広告が載っていたのですが、そこに北方謙三氏に並んで田中芳樹の推薦の言葉が載っていました。以下抜粋。
「歴史や人物をダシにして現代人にビジネス上の教訓をお説教するような「中国もの」から、私は何ひとつ学んだことも感じることもない。文化や芸術に無関心な財界人が「曹操タイプ」と自称するような風潮にもうんざりだ。私だけがそうではないということは、陳先生の作品群が多くの読者によって熱く支持されていることで明らかだろう。近視眼的な実利など求めない読者、過去からの語りかけを実感し、歴史の悠久に思いをはせる読者がこんなにもいるというのは、うれしいことだ。」
(これは新聞に載ったままなんですけど、「熱い支持」って違いますよ。「厚い支持」です。どっちが間違えたんだろ)
(この文章、改変したら創竜伝の批判文に使えそう。冒険風ライダーさん、任せます(笑)。)
ちなみに北方謙三氏の言葉は要約すると「ひとりの人物、ひとつの出来事に、ある作品で光が当てられる。また別の作品で、同じ人物、同じ出来事に翳が与えられる。そうやって著作を積み上げることで、中国の立体性を表現している」ということです。
まあビジネス書の歴史解説が薄っぺらだという意見には賛成ですね。私もあれを蛇蝎のごとく嫌っていますから。
今回は珍しく田中芳樹の意見に賛同できる部分があったなあ。
-
- board1 - No.1262
善人なおもて歴史を動かす、況や悪人をや。(改定版)
- 投稿者:新Q太郎
- 1999年05月19日(水) 18時13分
この前の文章は体調のせい?でへろへろ。論理はともかく主語述語、文章のてにをはからしてどうしようもないので文章を改定・補足しました。
***************
例の秦檜-岳飛について少し私見を。
(この場合「紅塵」と「中国武将列伝」の記述を厳密に区別しない)
これを考えるときは秦檜と、その和平策が「どれほど無私であったか」と「合理的なだったか」を少し分ける必要があると思う。
筆者はその資料を確認できないが、田中氏も色々な資料を調査したらしいし、陳舜臣先生も対談の中で同意されていたので、秦檜が私的な清廉さに欠けていたことは事実であり、彼の和平策も、自らの利益やエゴをたっぷり含んでいたと思われる。
しかし、ここが面白いのだが、エゴと利益まみれの「悪」が歴史の中でまったく別の効果をもたらすことも多いわけだ。
例えばありとあらゆる謀略によって豊臣家を滅ぼした、徳川家康の対大阪政策があったからこそ、三百年間(同時代のどこと比較しても)一般庶民が安定・安楽に暮らせた「江戸文明」が成立した。
そしてその江戸体制が近代国家に、大規模な内戦抜きで生まれ変わったのは徳川慶喜が、忠義の旗本たちを見捨てて船でこっそりと大阪城を脱出する(しかも小姓の振りまでして見張りを欺いた)という、どっかの貴族連合みたいな卑怯なことをしたからでしょう。
こういう善と悪とのわずかな差――というよりそのまま表裏一体となる不思議なダイナミズム――を作品なり評論なりに組み込むと、それはすごく厚みを増したものになる。少なくとも私はそちらの方を好む。
とは云え、これは並みの作家には中々リスクが大きいのも事実。私が知る限りでは、卑怯な人間の振る舞いが歴史を進ませることを描いて成功したのは
司馬の「最後の将軍」(文春文庫)
フーシェをモデルにした漫画「静粛に、天才只今勉強中!」(潮出版)
塩野七生のローマ教皇伝「神の代理人」(中央公論社)
ぐらいではないかと思う。
しかし、「南宋と金との和平」という題材は、これを書き切るのに千載一遇の好機であったはずだ。だからそれを回避し、普通の活劇風小説に留めた感のある田中氏には私はマージャンに例えると「この配牌なら役満狙えよ!ただのマンガンで喜ぶなっつうの!」というもどかしさを覚えたのだ。
そして、こういう物語でよく見られる傾向が「”悪役”の表現方法に困って、その人物の謀略、(俗流の)人格的欠陥、腐敗を取って付けることで肉付ける」ことだ。
秦檜の場合は事実の裏づけがあるらしいから、そこまでいうのは言い過ぎかもしれないが、本来なら悪役の「主張」というか、彼が拠って立っている中心そのものに対して、ヒーローらがそれを否定することに説得力、説得力を持たせなければいけない。
(たとえば司馬の「翔ぶが如く」を読むと、西郷の人格的偉大さに関わらず「ああ、近代国家にはやはり西郷的なものは有害なんだな」と思わせられる。だからこそ、その後の西南戦争の描写が説得的になる)
それをできず、悪役を腐敗やエゴという観点からのみ造形すると、その悪役自体が二流になってしまい、スケールが小さくなってしまう危険があるのだ。
このへんは佐藤健志も「風の谷のナウシカ」映画版で指摘しており
「クシャナが掲げる巨神兵復活、腐海撲滅…という案に対するアンチテーゼに、宮崎駿は説得力を持たせられなかった。だから、彼は(必要もないのに)クシャナに長を殺させ、『人を殺すのはよくない』という最低のレベルでナウシカや村人の抵抗を理由付けしたのだ」(「ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義」要約)と論じている。
そういう点が似ている気がするのだ。もっとも田中氏の作品にはこの点、紅塵とは比較にならないほどひどいものがあるが(笑)。
あとはメモ。
*「謀略・残虐・不法殺害」などをした歴史上の人物は、その他の政治的功績があろうとも悪と評価すべき、というのはひとつの考えだが(ヴラドへの評価もそうか)、じゃあ毛沢東は鉄板で極悪人だろうに。
*「秦檜評価論」はチャイナの歴史上皆無ではないはず。どこもインテリはひねくれてるのよ(笑)。まあ、日本の吉良弁護論みたいなもんで四捨五入すれば大悪人扱いされてることも、和平の「プロパガンダ」として引用しても逆効果なのもは間違いないだろうが、一応参考に。宣和堂主人にでも聴いてみたい所だ。
*で、中国武将列伝にあるように、岳飛の墓の前に縛られた秦檜夫妻像が置かれ、参拝者がその像に唾を吐く(もしくは小便をひっかける)……という光景は私も高校の歴史資料集でみた。そして当時、それにかなり薄ら寒さを覚えた。日本も幕末に志士が足利尊氏の木像をさらし首にしたという事件があったが、はっきりいってこれらはヤン・ウェンリー的(竜堂兄弟的?)にいえばヘンテコに歪んだ「愛国心」ではないか。これをグロテスクだと感じないのなら、田中氏が中国と日本(や自由惑星同盟)のナショナリズムについてダブル・スタンダードを用いている、という指摘に反論できまい。(列伝では、それに批判的な記述なし)
*「中国武将列伝」などでは田中氏、金の『侵略』と書いてあるが、どこからどこまでを「統一」といいどこからを「侵略」というのか?この表記を間違うと、イロイロ困るので”ガイドライン”を中国政府もつくっていただきたい気がする。チベ・・・「解放」もありましたね、はい。
-
- board1 - No.1263
秦檜
- 投稿者:新Q太郎
- 1999年05月19日(水) 18時16分
それから、近藤崇仁さんに
//「卑怯」という言葉には「臆病」と「卑劣」という、似て非なる意味あいがある。私は(後者の)チェーザレ・ボルジアや李世民の行動を絶賛するが、(前者の)近衛文麿への評価は最悪である。秦檜についてはどう考えている(どちら)か?//
というご質問を頂きました。
私は、秦檜は「自分の意志というものがなく、いやいや流される」という近衛のような形での臆病さはなかったと思います。そういう点で「エゴと利益」を猛烈に求める、という意味での積極性を持った人物だと考えています(把握している資料が少ないんだけど)。ただ、チェーザレ・ボルジアや李世民は基本的に自分のエゴによって「大状況」を変えて主導権を握ったプレーヤーなのですが秦檜は「金に圧迫される宋」という大状況の”枠組みの中で”踊ったプレーヤーであります。
その点で、彼ら大エゴの持ち主とはボクシングでいう「階級」が違うのではないかと思うのです。歴史小説でも彼らのような人物を描くと「大ピカレスクロマン」というちょっと違ったジャンルに分類されるように個人的には感じていますがいかがでしょうか。
塩野の作品で「チェーザレ・ボルジア――あるいは優雅なる冷酷」を前述の文章で成功作品に取り上げなかったのはそういうことでもあるのです。
―――――――――――――――――
ところで皆さんは、「秦檜」とか「岳飛」とかいちいち新語登録してるんですか?
私は漢字探すのにあきらめて、文章で固有名詞を避けることも多いのですが(笑)。
新聞の公式サイトですら「トウ小平」と書いたりしているのに・・・