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- board1 - No.1481
遊牧国家パルス王国について
- 投稿者:仕立て屋
- 1999年07月07日(水) 20時03分
毎度、仕立て屋です。
馬の家畜化の歴史を調べてみました。どうやら南シベリアから黒海に広がる乾燥帯のステップ地域で馬の遊牧(家畜化)が始まった、というのが今のところ有力な説のようです。アーリア系民族も当然紀元前のかなり前から南ウクライナからイラン高原におよぶステップにて遊牧を始めていたようです。ですから騎馬兵という兵種が誕生したのもこのあたりの地域からであるらしいです。騎馬兵(初期の段階は兵が直接乗馬するのではなく、戦車を付けて兵がそれに乗る馬戦車)の登場はいままでの戦争を一変させ、広大な国土の占有も可能になり、それが世界帝国を築く原動力になりました。実際、アーリア系の民族は馬によってまわりの古代国家に度々進入していることで、その効果は明らかなようです。
アーリア系の末裔であるペルシア人は事実、遊牧民ですから、必然的にその戦士性(遊牧民の戦士性はすべての民族に共通するようです)と侵略性は激しく、各オアシス都市を占有していきました。そこで北部産の毛皮を運んできて南部農耕系の民族と農作物を取引したり、オアシスを通過する商人から通行税などを徴収したり、東西交易路を押さえて商人を保護(管理、監視?)することで自国を富ませるなど、荒っぽくはありますが、かなりの繁栄を築いたことが想像されます。モンゴル帝国などにも共通しますが、遊牧国家の中にはパルスのように城塞を築くものもあったそうです。しかし、実際には王といえども季節の大半は遊牧生活を送ったようです(これってなぜだか微笑ましい)。まあ、作中ではさすがに王と有力貴族は城で過ごしていたとは思いますが、パルス人の自由民は遊牧生活をおくっていたのではないでしょうか。で、必要に応じて戦時は遊牧民が騎馬兵となり、王とその諸侯が彼らを率いて戦ったのではないでしょうか。さいわい、イランのあたりはイラン高原があり、広大なステップ地域が広いがっています。馬の遊牧に向いていたのかもしれません。ですから12万以上の騎馬も支配者層が全員遊牧に従事し、日本の武士階級よろしく支配と搾取のみに専念していれば、十分可能な気がしてきます。なにも自由民だからといって農耕や工業に従事する必要はないんですよね。逆にいえば、奴隷以外の被征服民族は戦時でも戦闘に参加する必要がないとも言えます(ここが日本の戦国期と異なるのかもしれません)。また、遊牧民の略奪性から異民族国家に進入して大勢の奴隷を獲得し、自国まで連行し農耕などにあたらせていたものと考えられます。遊牧民の異民族支配は非常に巧みで、金融などはユダヤ人、治金はXXX(適当)人、商人はイスラム人といったように、それぞれ得意な分野を生業とする人たちに分業して任せて、支配者としてはそこから利益を吸い上げればよい、といったように実に効率が良く、非征服者といえども、扱いは寛容だったようです。こうした寛容さと効率性が、少数で多数を支配する、特に異民族を支配する場合には必要なのかもしれません。奴隷に関してはどういう扱いだったのか、まだ調べていないのでわかりません。イスラムでの奴隷の扱いが意外に緩やかだったことは調べてわかったのですが(結婚も認められていたし、最高権威者のカリフには女奴隷の子供も多く見られたそうです。独特の宗教観でしょうが、こうした考えは異民族への浸透力において大いに寄与したことでしょう)、イスラムによるペルシア征服以前のペルシア世界に関しては奴隷の扱いは、パルスの状況から考えると結構きついものだったのかもしれません。イスラムには軍人奴隷(黒人のアブド、トルコ人、ギリシア人など白人のマムルーク)が常設軍として組織され、実力のある者は解放され地方の司令官になった者もいます。また、このような軍人奴隷の数は弾力的に運用され必要に応じて(戦時はその数を増やすなど)購入、編成されたもようです。ササン朝末期(パルス)においても、他国との戦争が続いていたため臨時に購入されたとも考えられます。イスラムにおける解放奴隷のような存在がパルス軍歩兵における自由民として指揮官を勤めていたのかもしれません。ですから、長期的には非生産な戦闘奴隷も短期的な必要性からあれほどの数を常設できたのかもしれません。それでも国庫にはかなり響くと思いますが。ただ、悲しいかな、いくら頑張れば解放される望みがあろうとも、その機会は滅多にないのですから、ルシタニアによる扇動(神の前に平等)に乗せられて反乱をおこしてしまったのも仕方のないことでしょう。
調べていく過程で偏見って滑稽なほどの勘違いを生んでしまうことが改めてわかりました。私の場合、常設軍といえば長期にわたって訓練し何も産まない金くい虫とばかり思っていましたが、実は、すでに良質に訓練済みの傭兵奴隷を必要に応じて”売り買い”すれば済むだけなんですよね(それには金が必要なわけですが、遊牧国家では構造的に金は潤沢なのでこのやり方は適当といえる)。逆にいえば奴隷っていうのがまさに必要に応じて売り買いされるモノだったということでしょう。また、遊牧に対してなんだか遅れているような感覚を持っていて、支配者になっていても尚、遊牧し続けるというのはなんだか滑稽だなぁという気持ちを持っていました。したがって、彼らが、実は誇り高く優れた戦闘集団であり、平時でも遊牧に従事していればよかったという考えにはまったく及びませんでした。パルス人が「歩くよりも早く乗馬をおぼえる」というのもなるほど、という感じです。支配者層の同朋が遊牧兼、メッセンジャー兼、警察、偵察、戦士の役割を担ってくれれば、国家の運用は効率的でしょう。
以上の考察には、一部想像も含まれていますので誤りがあるかもしれません。気づいた方はご指摘ください。
ところで、上記のような考察とこの”乾燥地域”における総人口や地方都市の規模がいかほどだったのかは話が別です。
<パルス国では、100の州が100の諸侯によって統治されており、地方都市10万は州都であると解釈するのはどうでしょうか。さらに州単位で租税が徴収され、それがいったん州都に集められた後、諸侯がエクバターナへ決められた額なり率なりの税を納めるという設定にすれば、州都を中心とした交通網と、州都とエクバターナを結ぶ交通網が整備されますし、それによってエクバターナほどではないにしても州都にも物が集まり、小なりながら地方の政治・経済の中心地となりますから、管理人さんの解釈と合わせて、地方都市10万という設定も充分にありえるのではないかと思います。
また、この設定だとアンドラゴラス三世がエクバターナと大陸公路を重視し、ギランの海上貿易を軽視した理由も説明できます。陸上の交通ネットワークがパルスのアキレス腱になるのですから。平時は陸上貿易の方が利益をあげていたのではないでしょうか。ギランでは代わりにならないわけです。>
遊牧国家の支配構造を考慮にいれますと、上記のようなパルスにおける国家運用に対する冒険風ライダーさんの考察は、実に理にかなっているように思われます。おそらく、そのとおりなのかもしれません。ただ、都市規模と総人口については引き続き調べて見ます。
<トゥラーンの馬はパルスの馬よりも使い勝手がよかったとか、側対歩を身につけている馬を売っているとかそういう裏設定があれば、畜産業で馬がたくさんいるパルスでトゥラーンが馬の売りこみをするのもそれほど不自然ではないかと思います。第一、パルス軍はかなりの数の騎兵軍団がいますし、優秀な馬はいくらでもほしいでしょうから。
それに遊牧を産業のひとつとしているトゥラーンが、馬を全く商品にしていないというのもおかしな話です。余分な馬は食糧にしているのかもしれませんが、「商品」という選択肢もあったと考えるのが自然でしょう。>
これに関しては、アーリア系の流れを汲むペルシア人がもとになっているパルス人自身が遊牧に従事していたとするなら、多分、馬の輸入はしないでしょうし、調教もトゥラーン人よりよっぽど上手だった可能性が高いです。おそらく馬の輸入はなかったのではないでしょうか。
あと、冒険風ライダーさん抜粋のパルス世界における食文化をみてみると、結構エエモン食されているようですね。鶏肉、卵、羊肉、パン類、チーズ、蜂蜜酒、麦酒などは王土内産でしょう。ブドウ酒は黒海、地中海付近の国から輸入したものでしょう。また、林檎やイチジクも頭に”乾”とついていることから、同じく黒海、地中海付近から輸入されたものと考えられます。ですから、こうした輸入品はすこし高価なものだったのかもしれません。
<農業 : 狩猟 : 畜産 : 漁業 = 35 : 15 : 40 : 10>
これは、妥当といった感じです。
<また、農業と畜産を連携させて(例えば畜産で発生した肥料を農家に供給し、農業で実を収穫した後の茎や葉を飼料にするなど)相互発展をはかることで、かなり効率的な生産が可能になるというのはどうでしょう。素人的な考えですけど(-_-;)。
また、前回主張したとおり、狩猟や漁業の獲物は今よりもずっと多かったでしょうから、「海の幸、山の幸に恵まれていたという環境」はパルスも同じであるという解釈はできないでしょうか。それに
「ニームルーズの北は、適度の雨量にめぐまれ、冬には雪もふる。針葉樹の森と草原がひろがり、穀物と果実が豊かにみのる。いっぽう、分水嶺をこえて南にでると、太陽は灼熱し、空気と大地はかわき、点在するオアシスのほかには砂漠と岩場と草原が多く、森はない」(アルスラーン戦記2 P15~16)
という記述から、特に北の方は日本と同じような環境であると解釈できます。南は亜熱帯かな?
あと余談ですけど、日本の戦国時代の1800万~2000万石には北海道がはいっていないので、やはり面積がそれよりもかなり大きいパルス国では充分な食糧生産が可能であったと思われます。アルスラーン戦記8では、解放奴隷に土地を開拓させているくらいですから、それまでも土地の余裕は充分にあったのでしょう。>
これに関しては、イランの地形と気候から、まだ、わかりませんので、保留にしておきます。また、いまアメリカなどがやっている穀物の大量輸出は現在の技術をもってして可能なことですが、パルスの時代、主食類の輸出および輸入はあったのでしょうか。ブドウ酒や乾燥果物など嗜好品の類は別として、おそらく、主食類は自給していたのではないかと思います。ですから、当時、自給できる量の食糧でどれほどの人口を養えたのか、ちょっと調べてみようかと思います。
最後に、上記にて12万以上の騎馬が”可能”とは言いましたが、ペルシア帝国における総騎馬数がもっとずうっと少なかったことを考慮すると、この数字自体多すぎる感はやはり否めません。
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- board1 - No.1482
パルス食文化
- 投稿者:本ページ管理人
- 1999年07月08日(木) 01時14分
> アルスラーンが王族であることを多少差し引く必要があるでしょうが、これらからの記述から、パルス国では小麦と羊肉が主食である可能性が高いように思われます。日本の戦国時代をある程度参考にしたにもかかわらず、米はほとんど出てきません(T_T)。また、やたらと葡萄酒がでてくることから、葡萄の生産もさかんだったのではないでしょうか。
>あと、冒険風ライダーさん抜粋のパルス世界における食文化をみてみると、結構エエモン食されているようですね。鶏肉、卵、羊肉、パン類、チーズ、蜂蜜酒、麦酒などは王土内産でしょう。ブドウ酒は黒海、地中海付近の国から輸入したものでしょう。また、林檎やイチジクも頭に”乾”とついていることから、同じく黒海、地中海付近から輸入されたものと考えられます。ですから、こうした輸入品はすこし高価なものだったのかもしれません。
やはり、アルスラーンが王族でエエモン食っているのは考慮するべきだと思います。たとえば、江戸時代の大名の食事を現在再現すると白米のご飯なんかが出てきて「これは伝統的な日本食だなぁ」というものが出来上がるでしょうが、当時の庶民が食べていた主食の実体は雑穀(ヒエ・アワ・キビなど)なわけで、目に見える食文化にとらわれ過ぎると実体を見誤る事になりかねないと思います。
ところで、私は昔トルコを旅行したことがあるのですが、その経験からみると、アルスラーンに出てくる食事はトルコ料理そのものであると思います(キョフテなんてそのものの料理名も出てくるし)。葡萄を多用するのもトルコ料理の特徴のひとつですね(葉っぱまで香りづけに使うくらい)。トルコとイランは隣国ということで、同じような食文化なのでしょうか。
とりあえずパルスとイランが非常に似通った環境にあるとして、イラン料理ってどのようなものなのでしょうね。東京などにはあれだけ大勢のイラン人がいるにも関わらず、イラン料理が超マイナーなのは少々残念です。もっとも、ホメイニ師のお膝元ですから、イスラム教以前と以後ではかなり食生活が変化していそうな点は考慮しなければなりませんけど。
あと私が食べた中近東の料理というと、ニューヨークに行ったとき食べたシリア料理がありますが、トルコ料理とは微妙に違うような感じを受けました(例えるなら中華料理とベトナム料理の違い?ようなカンジ??)。もっとも、いくら移民が作っているといってもニューヨークで食べたということでシリアそのものの料理とは違うかもしれないことは考慮しなければならないですけどね。
まあ、そもそも、いくら「日本食」といわれるものを食べても日本の食事の実体などというものがわからないのと同様、現在の食文化の表面をなぞっても参考以上のものはわからないと思います。たぶん、書物や文献を当たったほうが速いでしょう。
アルスラーンの影響ということで余談ですけど、トルコで実際に「エルマーチャイ」を飲んだときにはちょっとした感激でしたね。というか、これぐらいしかわかる言葉がなかったんですが(笑)
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- board1 - No.1483
時代的に
- 投稿者:本ページ管理人
- 1999年07月08日(木) 01時19分
><主食はおそらく、小麦の加工品だと思われる(違っていたらスマン)ので、米と比べて人口支持力はいくらか落ちるものと想像されます。日本の場合、温暖多湿であるし、海の幸、山の幸に恵まれていたという環境もあると思います。それでも同時代、日本の人口は600~700万人ぐらいじゃなかったでしょうか。>
>
> 当時の日本は聖徳太子~大化の改新あたりの時代ですね。遣隋使・遣唐使による中国の文物を取り入れ始めたばかりの頃ですから、発展はまだこれからという状態です。それに対して当時のササン朝ペルシアは当時の世界の中では最先進国のひとつでしょう。最先進国と後進国ではあまり比較にならないので、日本の場合は戦国時代から取り上げてみました。
パルスのモデルの一つは間違いなくササン朝のペルシアでしょうが、十字軍(どうみても)の時代もモデルですし、わたしはどちらかというと中世のほうが妥当だと思うのですが。
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- board1 - No.1484
実在のトゥラーン人
- 投稿者:はむぞう
- 1999年07月08日(木) 08時10分
偶然見つけた本に、トゥラーン人の記述がありました。実在した民族だったのですね。昭和53年に発行された「シルクロード百科」という本です。シルクロードと言ってもイラン、イラクあたりの歴史や風俗がメインに書かれた本です。
この本によると11世紀のササン朝ホスロー1世の時代に編纂された「シャーナメー」(シャーは王、ナメーは書を意味する)というペルシアの「古事記」とでも言うべき民族叙事詩に登場しているそうです。このなかで遊牧民は「トゥラーン」と呼ばれ、定住する人「イラン」と数々の戦闘をしたというエピソードが記されているということです。
そして、その末裔は現在のペルシア語で「クゥーチ」と呼ばれているそうです。ベルベル族やバクティアリ族、シャーサヴァン族など多くの遊牧民の総称です。今は女が食事とテント張りを、男は女と子供を守ることを掟とし、男女平等な社会であるようです。しかし昔話の時代には、女たちが男たちを牛耳っていたことを示す表現が残っているそうです。これを参考に考えると、アルスラーン世界のトゥラーンが16万もの遠征をしたのも、実は陰に王より強大な権力を持つ影の女性の影響があったりして。でもそうすると今まで考えていた世界観がひっくり返ってしまいそう。こじつけるのは無理すぎるだろうなあ…。
それとトゥラーンの産業として今まで忘れていたものが一つ。それはペルシア絨毯です。もともとは遊牧民の移動式住居の折りたたみ式の床が原点で、現在に至るまで遊牧民の有力な収入源でもあります。高価なものというイメージから、アルスラーン世界ではパルスあたりの産業かと思っていたのですが、言われてみればそうかと納得してしまいました。考えてみれば遊牧民が絨毯を織るほうが自然ですよね。材料になる羊毛は飼っている羊からいくらでも採れるし、必要性からいっても当然ですし、定住を目的とする建物では床がなくて地面が剥き出しなんてことはないでしょうから。すると女と子供と老人だけの集団になっても、細々となら食べていけるような気がしてきた…。
ううむ、しかしこれだけでは16万もの遠征での採算性が説明できない。
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- board1 - No.1485
アルスラーン世界についてレスなど
- 投稿者:はむぞう
- 1999年07月08日(木) 08時12分
> アルスラーンが王族であることを多少差し引く必要があるでしょうが、これらからの記述から、パルス国では小麦と羊肉が主食である可能性が高いように思われます。日本の戦国時代をある程度参考にしたにもかかわらず、米はほとんど出てきません(T_T)。また、やたらと葡萄酒がでてくることから、葡萄の生産もさかんだったのではないでしょうか。
>あと、冒険風ライダーさん抜粋のパルス世界における食文化をみてみると、結構エエモン食されているようですね。鶏肉、卵、羊肉、パン類、チーズ、蜂蜜酒、麦酒などは王土内産でしょう。ブドウ酒は黒海、地中海付近の国から輸入したものでしょう。また、林檎やイチジクも頭に”乾”とついていることから、同じく黒海、地中海付近から輸入されたものと考えられます。ですから、こうした輸入品はすこし高価なものだったのかもしれません。
>ところで、私は昔トルコを旅行したことがあるのですが、その経験からみると、アルスラーンに出てくる食事はトルコ料理そのものであると思います(キョフテなんてそのものの料理名も出てくるし)。葡萄を多用するのもトルコ料理の特徴のひとつですね(葉っぱまで香りづけに使うくらい)。トルコとイランは隣国ということで、同じような食文化なのでしょうか。
とりあえずパルスとイランが非常に似通った環境にあるとして、イラン料理ってどのようなものなのでしょうね。
この小麦と羊肉が主食というのは、ほぼ正しいようです。前述の書き込みで書いた本のなかに、イラン・イラクを中心とするシルクロード周辺の国々の伝統的な食事についても記述がありました。
まず主食はナンです。小麦粉(日本の感覚では強力粉)と水と塩少々を混ぜ、耳たぶくらいの硬さにし、1cmくらいの厚さにのばしたあと、穴を掘っただけのようなかまどの壁に貼り付けて焼いたものです。現地の人たちはこれを食べないと、どんなご馳走がでても納得しないとまで言われているそうです。
次に羊肉のスープ。羊肉とナスや玉ねぎなどの野菜を煮込み、ヨーグルトをかけて仕上げたもの。
そしてシシカバブ。羊肉を適当な大きさに切り、串に刺して塩を擦り込んだあと、羊の脂で焼いたもの。通常日本で手に入る味付ラムなどとは、桁外れの強烈な臭いらしく、筆者は我慢大会ものだったと書いていました。
パラオという米料理もありました。これがヨーロッパに伝わってピラフになったと言われる料理で、米の種類が違うことと肉が羊であること以外はピラフとそっくりらしいです。ナンに次いでよく見かける食べ物らしいです。
このほか油で焼いたナスにヨーグルトをかけたものや、ヨーグルトを水で割った飲み物があるようです。遊牧民が多いから乳製品が多く使われていたのではと感じました。それにオレンジやメロンなどの果物も豊富にあるそうです。乾燥した土地でとれる(それしかとれないともいう)果物ばかりだから、はっきりした気候区分はわからないけど乾燥ぎみの気候のようです。イランの古都イスファーンの南のペルセポリスでは、アレキサンダー大王の時代から葡萄栽培が盛んでワインが作られていたらしいです。
> 私が考えたのは替え馬の数自体を減らす方法です。以前はむぞうさんの投稿No.1184でおっしゃっていた装蹄技術で少しは減らせないかとも考えたのですけど、これでどのくらい減らせるでしょうか? せめて20万前後くらいまで減らせれば何とかなるのでしょうけど。
ううむ、装蹄技術で実際に何頭まで減らせるかは私にもわかりません。モンゴル軍はこの技術がなかったために1人6頭もの馬を連れていたというけど、蹄以外にも足の骨や腱や腰を痛める馬も多い上に、替え馬には非常食や万一の際の武器や防具の補修材としての意味もあったというから「0」にはならないでしょうね。おそらく半分の3頭くらいかとも思ったのですが、5巻のP129で「替え馬をふくめ10頭、それに4頭立ての馬車を用意せよ」というアンドラゴラスのせりふがあり、馬車にアンドラゴラスとタハミーネと部下が1人そして残りの5人が馬に乗ったとあるので、ここから想像すると1人2頭になるかと思われます。これは小人数だったからで、集団になると2人につき3頭でよいというように考えれば24万頭で足ります。これくらいなら大丈夫かなと、私は思うのですが。しかし20万なら4人で5頭という感じでしょうか。そこまで減らすと足りるかどうか、心もとないのではと思います。でもあとは略奪で補うとすればやれそうな気もします。
>騎馬兵(初期の段階は兵が直接乗馬するのではなく、戦車を付けて兵がそれに乗る馬戦車)の登場はいままでの戦争を一変させ、広大な国土の占有も可能になり、それが世界帝国を築く原動力になりました。
これは脱線してしまう話ですが、乗馬が先か戦車が先かについては、まだ定説はないようです。少し前までは戦車が先というのが有力だったらしいのですが、今は乗馬が先という方も盛んなようです。理由としては実用に耐える耐久性と性能をもつ車軸をつくる技術の発明にかかわるようです。またスキタイ人の騎兵に脅かされたギリシア人が、彼らをモデルにケンタウロスという怪物を神話に登場させたともいわれていることからです。でも戦車の絶大な戦略的価値は間違いないようです。揚げ足を取るような余談ですいません。
>常設軍といえば長期にわたって訓練し何も産まない金くい虫とばかり思っていましたが、実は、すでに良質に訓練済みの傭兵奴隷を必要に応じて”売り買い”すれば済むだけなんですよね(それには金が必要なわけですが、遊牧国家では構造的に金は潤沢なのでこのやり方は適当といえる)。逆にいえば奴隷っていうのがまさに必要に応じて売り買いされるモノだったということでしょう。また、遊牧に対してなんだか遅れているような感覚を持っていて、支配者になっていても尚、遊牧し続けるというのはなんだか滑稽だなぁという気持ちを持っていました。したがって、彼らが、実は誇り高く優れた戦闘集団であり、平時でも遊牧に従事していればよかったという考えにはまったく及びませんでした。パルス人が「歩くよりも早く乗馬をおぼえる」というのもなるほど、という感じです。支配者層の同朋が遊牧兼、メッセンジャー兼、警察、偵察、戦士の役割を担ってくれれば、国家の運用は効率的でしょう。
これはまさに目から鱗のような気がしました。なるほどと思う点もおおかったのですが、でも定住していて遊牧だと少々苦しい点もないでしょうか? 草を食べ尽くさないように移動していくのが遊牧であるし、ゾット族が遊牧民だという記述もあることから(あえて遊牧民と書いている)パルスの自由民の一部が遊牧していたと考える方が、自然ではないでしょうか? パルス人の自由民全部が遊牧民なら、ゾット族が云々という書き方はないのではと思うのですが。また定住しての牧畜となると中世ヨーロッパの方法に近くなるのではと思うのですがいかがでしょうか。周囲の野山の草がなくなると繁殖用以外の家畜を大量屠殺して燻製やソーセージなどを作り、また草が生える頃に数を増やすようにするというものです。パルスならそのときに必要な香辛料も、ヨーロッパよりは簡単に手に入るでしょうし。
高校時代の教科書を開いて気づいたのですが、ササン朝ペルシアというのはイラン南部の農耕民族が、イラン北東部からきた騎馬民族が建てた国家であるパルティアを滅ぼして建てた国だったんですね。国土はどちらもほぼ同じですが、パルティアのほうの当時の地図をみると「エクバターナ」や「アトロパテネ」などの地名が登場していました。でも各国の配置をみると、その時代より元の時代のほうがしっくりいくように見えます。パルスがイル汗国、トゥラーンがキプチャク汗国、チャガタイ汗国がチュルク、デリー=スルタン朝のインドがシンドゥラ、ビザンティン帝国がマルヤム、マムルーク朝がミスルです。インドとの国境がインダス川でカーヴェリー河とも一致すると思います。まあ架空の世界を現実の世界に当てはめようとするには無理があるのは承知してますし、だから何だといわれればそれまでですが…。
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- board1 - No.1486
いわれると思っていたんですよね(笑)
- 投稿者:satoko
- 1999年07月08日(木) 08時19分
>No.1470
1455があったので、こういう感じで返されるだろうと思ってました(笑)で、突っ込まれると嫌な(というか、私もそう思わないでもない)のでヤンのあの発言はかかないでおいたのですが・・・。
あまり自分自身完全に納得いく考えではないのですがとりあえず。
ヤンが主張したかったのは、「専制君主の責任・・・。」の後に続けた「つまり、どんな悪政になろうとも自分の責任を言い逃れする事ができない、そこが民主政治の一番大事な所で・・・(正確じゃないけどこんな感じの事でした)。」という事なのだろうと思います。
で、創竜伝での終や始の発言はそのことを否定しているわけではなく、「みんなの責任」という発言の使い方が間違っている、もしくは悪用されているという事を言ってるのではないでしょうか。
民主政治では確かにみんなに責任がある、だがそれを自分の責任を言い逃れするための道具として用いる事は許されるものではない。だから、そういう言い方をしたその政治家個人(官僚全体でもいいけど)に向けられたもので、終や始(ひいては田中氏)が「民主政治はみんなに責任がある。」という事を否定しているわけではないと考えます。
つまり、民主主義ににたいする考え方や、ラインハルトの独裁政治云々という話とはまったく別次元の話のようにも思うのですが。
あんまり強く主張できるものではないのですが、こうとも取れるかなと思ったもので
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- board1 - No.1487
みんなに責任がある=無責任!?
- 投稿者:Merkatz
- 1999年07月08日(木) 09時03分
ここでいう「責任」には2種類の意味があるのではないでしょうか。
すなわち、「直接的」責任と「間接的」責任です。
例えば政治家が不正を働いた場合、彼の責任とは彼自身が不正を働いたという直接的な行為に関する責任です。したがって刑事罰等を受けるのは彼自身です。
しかしその彼を選んだのは民衆であるから、民衆にも責任があるといいますね。ここでいう責任とは、直接不正を働いたことに対してではなく、そのような人物を選んだことに対するもの、つまり間接的な責任です。
したがって「民衆にも責任がある」というとき、それは行為の直接責任を指すのではなく、その行為が為された遠因となったことを指していっているのではないでしょうか。
ではここでもう一度竜堂兄弟の言を見てみますと、
終『「みんなに責任がある」というのは「誰にも責任がない」というのと同じだもんな。これ以上の無責任はないよな。』
続『終君、どうしたんですか、えらく的確な発言ですよ、それは。』
始『まったく終のいうとおりで、「みんなに責任がある」というのは、責任の所在をごまかすために最高責任者が使う詭弁なんだ。(後略)』
なぜこれが詭弁なのか。それは直接的責任と間接的責任を混同しているからではないでしょうか。為政者が処断されるのは、彼が不正や背信を働いたからです。つまり直接その行為を為したことを非難されている。
しかしそれを「みんなに責任がある」というのは、まさに責任の混同です。何故なら、非難されるべき不正行為を働いたのは民衆ではなく、その為政者本人だからです。あくまで問題なのは直接行為を働いたものの責任、つまり直接的責任であります。
民衆の責任も免れ得ませんが、それは行為を為したことではなく、そのような人物を選んだことに対する責任、間接的責任です。明らかにこれら二種類の責任は同一線上に並べるべきものではありません。
それを強引に同一線上に並べ、自己の直接責任をうやむやにするからこそ、これが「詭弁」と称される所以でしょう。
さて次はヤンの言葉を見てみましょう。
「専制政治の罪とは、人民が政治の害悪を他人のせいにできるという点につきるのです」
何故ヤンはこのような言い方をしたのか。ここでヤンが意識している「民衆の責任」とは実に間接的責任ではないでしょか。
不正を働いた者の直接責任という点において、実は専制でも民主制でも同じです。しかし問題はそこから先です。その遠因としての間接的責任を民衆が感じることができるか否か。
ここにおいて専制は「他人のせいにでき」ますが、民主制はそうではないことが分かります。これこそが肝心なところではないでしょうか。
つまり民主制のもとでは民衆は間接的責任を意識させられますから、必然的に政治に関心を持ちます。為政者の不正も糾弾します。
しかし専制のもとではそれがありません。為政者がどんなに不正を働こうとも民衆には間接的責任すらない、つまり無責任な状態ですから、まったく気にする必要はない。民衆にとってはどこまでも「悪政は他人のせい」なのです。
「政治の腐敗とは、政治家が賄賂をとることじゃない。それは個人の腐敗であるにすぎない。政治家が賄賂をとってもそれを批判することのできない状態を、政治の腐敗というんだ」
民主制においては、民衆は間接的責任により政治家の腐敗を批判する状態を維持することができますが、専制においてはそもそも批判する状態が発生することすらありません。
だからヤンは言うのです。
「最良の専制政治より最悪の民主政治の方がマシ」
だと。
民主制の優れた点とは、実に民衆に間接的責任を負わすことにより、政治意識を高めるところにあるのではないでしょうか。そしてヤンはそれを分かっていたからこそ、あんなにも必死に戦ったのではないでしょうか。
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- board1 - No.1488
それでは更に問題提起
- 投稿者:本ページ管理人
- 1999年07月08日(木) 16時50分
田中思想の矛盾撞着、というよりかは、キャラクターのセリフを使った言葉遊びといった感の趣向だったのですが、なかなか面白い提案になったようです。
そもそも、銀英伝自体、田中氏の民主主義の存在意義に対する思考実験でもあったので、この件について考えてみるのも面白いかも知れません。
>民主政治では確かにみんなに責任がある、だがそれを自分の責任を言い逃れするための道具として用いる事は許されるものではない。
>したがって「民衆にも責任がある」というとき、それは行為の直接責任を指すのではなく、その行為が為された遠因となったことを指していっているのではないでしょうか。
たとえば、天下り先から接待を受けた類の明白な背任行為に関しては直接的責任と間接的責任の違いはわかりやすいでしょう。不正が不正として明白だからです。
では、バブルのように「結果として間違った政策」を取ってしまった責任に関してはどうでしょう?
例として、第二次大戦中ユダヤ人を殺戮した「結果として間違った政策」は、誰の責任でしょう? ヒトラー個人の責任でしょうか。ワイマール憲法下できわめて民主的に彼を選んだ国民は「選んでしまった責任」だけでしょうか? だとしたら、民主制とは構造的にファシズムの温床ではないでしょうか。
小林よしのりが激怒する「私たちは軍部(オウム)にだまされていたんだ!」もこれと同質で、結果として「民主制は人民が政治の害悪を他人のせいにできるという点につきる」事になってしまうことになります。
>民主制の優れた点とは、実に民衆に間接的責任を負わすことにより、政治意識を高めるところにあるのではないでしょうか
さらに責任には法的責任と道義的責任に分けられると思います。議会制民主主義の場合、民衆に法的責任を負わすことは事実上不可能です。となると、このMerkatzさんの言う「責任」は道義的責任と言うことになります。
この道義的責任は社会を構成する上で不可欠ですが(ex.人を殺すな、物を盗るな)、制度として見た場合、非常に脆弱な物です。よく言われるとおり、「ゴメン(道義的責任)で済んだら警察(法的責任)はいらない」のであって、強制力を有する法的責任が必要です。
道義的責任に依拠した民主制はきわめて脆弱で危なっかしい制度とはいえないでしょうか?
ちなみに皇帝には道義的責任も法的責任もないと言われそうですが、道義的責任で言えば結構な責任はあると思います(「朕たらふく食う汝ら臣民飢えて死ね」とはたぶん言えないですよ。いくら絶対君主制でも)。法的責任においても、文字通りの法的責任はないかもしれませんが、政治力学的な意味での法的責任は厳然としてあると思います(歴史を見れば滅んだ帝国の皇帝の末路がよく物語っている)。ただ、世界にただ一つの国家しかないという状況はきわめて特異なので、その状況下ではちょっと興味深い物がありますけど。