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- board1 - No.1489
商業国家パルス王国と、まとめレス
- 投稿者:冒険風ライダー
- 1999年07月08日(木) 17時30分
<パルスのアトロパテネ会戦にいたる数年間の戦乱期では運用兵数を見てもほとんど総力戦(民主国家でないのでほんとの総力戦とは言えませんが)ですよね。それを同時に、しかも複数の敵対国を向こうにまわして数回繰り返していては、大いにその国力を剃いだことでしょう。しかし、あの数年で常に勝利していることはほとんど奇跡のようです。さすが、ナルサスさま~~ってとこですか。>
これは純粋に兵力と国力が相手国よりも上だった事、そして地の利があった事が勝利につながったのでしょう。アンドラゴラス三世は無能ではなかったという事です。
また、アトロパテネの会戦まででナルサスが活躍していたのは、パルス歴315年の三カ国同盟軍を撃退した時だけですから、別にナルサスの活躍で常に勝利したのではないんですね。
余談ですが、上記の三カ国同盟軍侵攻の年はパルス歴315年、物語が始まるのはパルス歴320年で「5年前」の設定のはずなのに、そうなっているのは1巻と2巻だけで、3巻以降は「3、4年前」という設定になってしまっています。ここは単なる誤記でしょうけど、かつては結構悩んだものです。
<遊牧国家の支配構造を考慮にいれますと、上記のようなパルスにおける国家運用に対する冒険風ライダーさんの考察は、実に理にかなっているように思われます。おそらく、そのとおりなのかもしれません。ただ、都市規模と総人口については引き続き調べて見ます。>
地方都市10万の設定をさらに補強するための追加裏設定をまた考えてみました(^_^)。
パルス国には奴隷がいますよね。この奴隷の数はどのくらいだったのかという問題がありますが、私はだいたい全パルス人口の25%ほどではなかったかと考えています。というのも、奴隷を持つ事ができる人はある程度の金持ちだけですし、あまりにも奴隷が多いと非生産的になってしまいます。奴隷貿易による補充もできるのですし、奴隷の使いつぶしというのもあったでしょうしね。
この奴隷の数を計算してみると
20000000 × 0.25 = 5000000
これをエクバターナに40万、ギランに15万、そして地方都市ひとつにつき4万1500、残りをパルス軍歩兵隊に配備するという解釈はどうでしょうか。ギリシアのアテネでは市民15万に対して奴隷が10万であったという話を聞いた事がありますし、地方都市には諸侯と貴族と商人が住んでいるという設定にすれば、それだけの奴隷がいるという設定も不自然ではありません。裕福な商人も奴隷を持っているでしょうしね。ギランの商人シャガードも奴隷を持ってたし。
パルスでは国王自らが「大陸公路の守護者」と名乗るほどですから、商人の地位もかなり高かったのではないかと考えられます。金の単位が「金貨(デーナール)」「銀貨(ドラフム)」「銅貨(ミスカール)」と設定されているくらいですし、商業活動がさかんだったのもうなづけます。私はパルス国を「商業国家」と考えていたくらいですしね。
<これに関しては、アーリア系の流れを汲むペルシア人がもとになっているパルス人自身が遊牧に従事していたとするなら、多分、馬の輸入はしないでしょうし、調教もトゥラーン人よりよっぽど上手だった可能性が高いです。おそらく馬の輸入はなかったのではないでしょうか。>
これは失敗かな~(T_T)。エクバターナでトゥラーンの隊商が馬を商品にしているという記述があるから「ひょっとして」と思ったのですけど、これではダメですね。あと考えられるの裏設定は「トゥラーンの馬は体格がよい」というのがありますが、これも難しいでしょう。
エクバターナで売られているトゥラーンの馬は「特産品」と解釈するしかないでしょうね。あとは種馬とか(^^;;)。
<あと、冒険風ライダーさん抜粋のパルス世界における食文化をみてみると、結構エエモン食されているようですね。鶏肉、卵、羊肉、パン類、チーズ、蜂蜜酒、麦酒などは王土内産でしょう。ブドウ酒は黒海、地中海付近の国から輸入したものでしょう。また、林檎やイチジクも頭に"乾"とついていることから、同じく黒海、地中海付近から輸入されたものと考えられます。ですから、こうした輸入品はすこし高価なものだったのかもしれません。>
<このほか油で焼いたナスにヨーグルトをかけたものや、ヨーグルトを水で割った飲み物があるようです。遊牧民が多いから乳製品が多く使われていたのではと感じました。それにオレンジやメロンなどの果物も豊富にあるそうです。乾燥した土地でとれる(それしかとれないともいう)果物ばかりだから、はっきりした気候区分はわからないけど乾燥ぎみの気候のようです。イランの古都イスファーンの南のペルセポリスでは、アレキサンダー大王の時代から葡萄栽培が盛んでワインが作られていたらしいです。>
葡萄酒の主要な輸入先としてはマルヤムでしょうけど、葡萄は輸入以外にパルス国内で生産されているのもあるでしょうね。パルスの村にさえ葡萄酒があるくらいですし。生産地はマルヤムに近いパルス北西部~北部地域でしょうか。このあたりが気候的・地理的にも妥当だと思うのですが。
<この本によると11世紀のササン朝ホスロー1世の時代に編纂された「シャーナメー」(シャーは王、ナメーは書を意味する)というペルシアの「古事記」とでも言うべき民族叙事詩に登場しているそうです。このなかで遊牧民は「トゥラーン」と呼ばれ、定住する人「イラン」と数々の戦闘をしたというエピソードが記されているということです。>
「王書(シャーナーメ)」はアルスラーン戦記の参考文献のひとつに数えられています。
それにしてもトゥラーンって本当に実在していたのか……。私はササン朝に滅ぼされた「エフタル」という民族の事かと思っていましたが。
ところでササン朝は651年に滅んでいますので「11世紀」というのは間違いです。
<それとトゥラーンの産業として今まで忘れていたものが一つ。それはペルシア絨毯です。もともとは遊牧民の移動式住居の折りたたみ式の床が原点で、現在に至るまで遊牧民の有力な収入源でもあります。高価なものというイメージから、アルスラーン世界ではパルスあたりの産業かと思っていたのですが、言われてみればそうかと納得してしまいました。考えてみれば遊牧民が絨毯を織るほうが自然ですよね。材料になる羊毛は飼っている羊からいくらでも採れるし、必要性からいっても当然ですし、定住を目的とする建物では床がなくて地面が剥き出しなんてことはないでしょうから。すると女と子供と老人だけの集団になっても、細々となら食べていけるような気がしてきた…。>
これはトゥラーン人が誇り高い事と、大規模な飢饉が発生して緊急の遠征が必要になったという解釈をすれば何とかなるのではないでしょうか? トゥラーン軍が6巻で壊滅した後、商人に足元を見られて相手の言い値で売らざるを得なくなったから、8巻のヒルメスの誘いに乗ったという解釈もできますしね。強欲な商人ってどこにでもいますから(^^;;)。
<ううむ、装蹄技術で実際に何頭まで減らせるかは私にもわかりません。モンゴル軍はこの技術がなかったために1人6頭もの馬を連れていたというけど、蹄以外にも足の骨や腱や腰を痛める馬も多い上に、替え馬には非常食や万一の際の武器や防具の補修材としての意味もあったというから「0」にはならないでしょうね。おそらく半分の3頭くらいかとも思ったのですが、5巻のP129で「替え馬をふくめ10頭、それに4頭立ての馬車を用意せよ」というアンドラゴラスのせりふがあり、馬車にアンドラゴラスとタハミーネと部下が1人そして残りの5人が馬に乗ったとあるので、ここから想像すると1人2頭になるかと思われます。これは小人数だったからで、集団になると2人につき3頭でよいというように考えれば24万頭で足ります。これくらいなら大丈夫かなと、私は思うのですが。しかし20万なら4人で5頭という感じでしょうか。そこまで減らすと足りるかどうか、心もとないのではと思います。でもあとは略奪で補うとすればやれそうな気もします。>
非常に無理をいってしまったようですいません。「せめて20万前後くらいまで減らせれば何とかなる」と言った理由は、30万では多すぎると思ったので20万にしたという全く単純かつ適当な理由でありまして(-_-;;)。
まあ24万頭にまで減らせれば、短期決戦と掠奪で何とかなるかもしれませんし、「風のごとく進撃し、風のごとく去る」というのが完璧に実行できれば採算がとれる利益があげられたかもしれませんね。あんなにずるずると長期戦に引きずり込まれた上に壊滅したのでは話になりませんが。
あと主食についての詳しい説明、ありがとうございます。
それにしてもアルスラーン戦記、結構設定考えてあるんだな~。私が屁理屈こねられるのも設定が充実しているからですしね(^^)。
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- board1 - No.1490
食事の引用について
- 投稿者:冒険風ライダー
- 1999年07月08日(木) 17時32分
<やはり、アルスラーンが王族でエエモン食っているのは考慮するべきだと思います。たとえば、江戸時代の大名の食事を現在再現すると白米のご飯なんかが出てきて「これは伝統的な日本食だなぁ」というものが出来上がるでしょうが、当時の庶民が食べていた主食の実体は雑穀(ヒエ・アワ・キビなど)なわけで、目に見える食文化にとらわれ過ぎると実体を見誤る事になりかねないと思います。>
「アルスラーンが王族ゆえにエエモン食えた」という記述は、私が引用した記述の中では
アルスラーン戦記2 P22~P23
アルスラーン戦記6 P38~39
の二つぐらいで、その他の引用はアルスラーンが王族であるということとはあまり関係ないと思います。「アルスラーン戦記1 P73」の食事は「銀貨一枚にもおよびませんな」という記述がありますし、その他の引用は酒場や村での食事や遠征中の食事、兵士や捕虜に対する食事の引用ですので。おまけに田中芳樹の作品の御多分にもれず、主人公アルスラーンは贅沢好きではありませんし。
それに引用した食事の素材がパルスで収穫されたものである事は間違いないのですから「こういったものがパルス国内で生産されている」という判断材料になりますし、そこから頻繁に出てきている素材を「主食である」と推理することは妥当であると思いますが。
あと余談ですが、江戸時代の庶民が食べていた主食の実体が雑穀(ヒエ・アワ・キビなど)というのはかなり眉唾ものではないでしょうか。江戸時代の石高は、農地開発や農業技術の発展で、表面には出てきていませんがかなり伸びているんです(表面に出ている石高は統計の問題か何かで江戸時代初期のままだったようです)。以前主張したように戦国時代で1800万~2000万石ほどの収穫があり、江戸時代の日本の人口が2000万人ほどですから、米は全人口を食べさせられるだけの量があるはずなんですね。それなのに一般庶民が雑穀を主食にしなければならない理由がどこにあるのでしょうか。農民以外の人口は最大でも300万人以下ですから、彼らが全部の米を食べきれるはずがありません。当然余った米は商人を介して一般庶民の方へまわったはずです。飢饉のために備蓄するにしても、1700万石以上の米を備蓄して何になるというのでしょうか。来年はまた同じ量の米が収穫されるのですよ? よほどの飢饉でもないかぎり。
雑穀を食べていたのも全くウソではないでしょうが、「雑穀が主食」というのは「江戸時代=暗黒時代」というデマゴギーのもっともたるものだと思います。
<パルスのモデルの一つは間違いなくササン朝のペルシアでしょうが、十字軍(どうみても)の時代もモデルですし、わたしはどちらかというと中世のほうが妥当だと思うのですが。>
あの比較で強調したかったのは「狭い日本の土地でもあれだけの収穫ができるのだから、それより大きい面積を持つパルスならば充分に自給できるだろう」ということだったのですが。
それと日本の場合、「近世」というのは大体定義できるのですが(だいたい江戸時代ですね)、「中世」というのは具体的にどこら辺の時代を指すのでしょうか? 確か戦国時代(特に初期)も「中世」という解釈があったようなのですが。
それに大化の改新あたりの時代は、日本の場合どう見ても「古代」に属するのではないでしょうか。私的には「遣唐使の廃止」か「鎌倉幕府の成立」あたりから「中世」に入ったのではないかと思うのですが、それにしても日本の「中世」は範囲があいまいすぎますね。管理人さんは日本のどの時代の、何の政治体制が「中世国家」であると定義しているのでしょうか?
それにしても管理人さんは結構外国旅行しているのですね。私は日本を出た事は一度もないので、うらやましいものですな~(^^)。
それから「アルスラーン戦記の食卓」を引用したのは、以前歴史を勉強していた時に「昔の生活を知るためには、その当時の食卓を知る事が最大の近道である」というのがあったので、それをアルスラーン戦記に引用してみたのですよ。結構重要なテーマかと思ったもので。「アルスラーン戦記の設定資料集」でもあれば簡単なのですけど。田中芳樹もくだらんガイドブックよりもこちらの方に力をいれればよいものを。まああの遅筆じゃ無理か(^_^;)。
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遊牧民と食生活論
- 投稿者:本ページ管理人
- 1999年07月08日(木) 18時28分
とりあえず、あくまでもモデルであり同一視は出来ないと言う前提の元に、イラン中近東の風土についてわかったことを挙げてみます。
イランのアーリア系が遊牧民であるという仕立て屋さんの指摘はその通りです。ですが、中近東の遊牧民は主にサウジに展開するベドウィン族を除いてすべて半農半牧であることは注目に値します。
その農業ですが、今までの議論だと「パルスは、まあ、農業に使える土地もあるけど、ほとんどが砂漠や高山といった農業に適さない土地で…」という消極的意見がほとんどでした。しかし、考古学的に調べてみると、この地域(特にイラン南西部の「豊穣の三日月地帯」と呼ばれる地域。あのチグリス・ユーフラテス流域であり、それ以外の丘陵地もそれなりの降水量があります)の農耕は世界のすべての他の地域に先駆けるものであったようです。また、植相の面ではエメル小麦、アインコルン小麦、六条小麦、二条小麦が野生していた(原産)ところだと言われ、ムフロン羊や山羊が野生で生息していたと言われています。つまり、小麦栽培に関しては発祥の地であり、小麦を粉化する技術が生まれパン食が誕生したのもメソポタミアでした。この地域では降雨や降雪が多いのが冬期なので、冬作作物である麦は農作にも適していたようです。また、この農作と同時に山羊や羊の家畜化が始まりました。ともあれ、この技術が伝播したものが、後の地中海農耕文化と言うことのようです。
さて、この限られた豊穣な農耕地を取り損ねたものが遊牧民化したところから、半農半牧の文化が誕生しました。小麦栽培はもともと牧畜を伴って発展したと言われています。代表的な半農半牧文化を持つイラン東部のチャハールアイマク族の場合、家畜を畑耕に使い、脱穀は穂の上を家畜に歩かせ、麦刈り後の畑は放牧地へ使い、そこでの家畜の糞が肥料になるという、農耕と牧畜が見事に絡み合い回転する文化を持っていますが、これはそれが現存している姿と言えそうです。
このように、イランでは小麦栽培と遊牧を両立させる半農半牧生活がメインであり、それがどちらに重きを為すかによって農耕民と呼ばれたり遊牧民と呼ばれたりしてきたということが、社会構造の大前提になります(私が大雑把なんじゃないですよ(^_^;)ホントにこうなんですって)。
余談ですが、この半農半牧説の論拠はイランの遊牧の家畜が牛、羊、山羊といった、農耕可能な土地でなければ飼えないものであることが挙げられます。大げさに言えばこれらの家畜は三日草や水を欠かすと乳も出さず、荒涼とした土地では遊牧が出来ないわけです。一方、遊牧専門のベドウィン族のテリトリーは砂漠であり、家畜はラクダです。ラクダはしばらく水や草の不足する土地でも安定した乳量が期待でき、むしろ伝染病の心配がいらない分だけ乾燥した砂漠が適しているのです(ちなみに現在は遊牧禁止政策や農業の近代化によってベドウィンも半農半牧化しているということです)。
>米
中東では「料理の王様」とよばれ、大変なご馳走なようです(あまりとれないのでしょうから)。基本的にはハレの日の食べ物ですね。その為かかなり調理にはこだわりがあり、日本のような炊き干し法とタイのような湯取り法といった二種類の炊き方があります。もっとも、スープで炊くピラフが基本です。余談ですが、クウェートなどでは近年米食が盛んになる傾向があるらしいですね。日本でパン食が増えているのと全く逆のあこがれといったところでしょうか。
>肉
ケバブやシチュー、カレーのように、我々日本人からすると肉食のイメージがあります。しかし、これは現在の考えであって、食糧事情が発達していなかった当時、肉と乳製品のどちらを主食にしていたかと言えば、とうぜん後者になります。効率の問題です。遊牧民にとっては家畜は命綱であり、一定数が確保できるまでは家畜を手放すことはありません。彼らが肉食をするということはやはりご馳走という意味でハレの日の食事であるか、逆にせっぱ詰まった非常食であることになります。
これは、中近東に限ったことではなく、ヨーロッパでも新大陸が発見されてアメリカ・オーストラリアでの大規模牧畜が誕生するまで現在のような肉食様式はありませんでした。
というわけで、もしパルスでコメ・肉が贅沢品でないのであれば、パルスとイランの間には何かしらの差違があるものと考えられますね。
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- board1 - No.1492
RE.1490
- 投稿者:本ページ管理人
- 1999年07月08日(木) 19時05分
>エクバターナでトゥラーンの隊商が馬を商品にしているという記述があるから「ひょっとして」と思ったのですけど、これではダメですね。あと考えられるの裏設定は「トゥラーンの馬は体格がよい」というのがありますが、これも難しいでしょう。
> エクバターナで売られているトゥラーンの馬は「特産品」と解釈するしかないでしょうね。あとは種馬とか(^^;;)。
これは参考になるかわかりませんが…
13世紀に教皇の外交使節団としてタタール・ハーンへの親書を携えた修道士カルピニは、モンゴルの役人から「過酷な旅にはヨーロッパ産の馬を使うな。ヨーロッパ産の馬はすべて倒れてしまうはずだ」と忠告されています。
『雪は深く、ヨーロッパの馬はタタールの馬とは違って雪の下から草を掘り出すすべを知らな
い。タタール人は藁も干草も飼葉も蓄えていないため、道中、馬の飼料は雪に埋もれた草しか
ないのである。そこでわれわれはモンゴル人の助言に従うことにして、下僕二人をつけて、愛
馬に別れを告げた。
われわれは駄馬と付添人を快く提供してもらうために、モンゴルの役人に贈物をしなければ
ならなかった。』
パルスの馬とルシタニアの馬を同列に見ることが出来るかは不明ですが、モンゴル(トゥラーン)の馬には付加価値があったと考えられそうです。
>江戸時代の庶民が食べていた主食の実体が雑穀(ヒエ・アワ・キビなど)というのはかなり眉唾ものではないでしょうか。
>雑穀を食べていたのも全くウソではないでしょうが、「雑穀が主食」というのは「江戸時代=暗黒時代」というデマゴギーのもっともたるものだと思います。
まあ、「農民は土や虫を食ってた」といわんばかりの進歩史観にうんざりする気分はわかりますが、コメが日本の主食から日本人全体の主食になったのは戦後の4、50年ことですよ。
>管理人さんは日本のどの時代の、何の政治体制が「中世国家」であると定義しているのでしょうか?
辞書で調べたら「封建制前期」が中世と言うことで、鎌倉時代から室町時代ということのようです。
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- board1 - No.1493
ザ・ベスト実験更新のお知らせ
- 投稿者:本ページ管理人
- 1999年07月08日(木) 20時30分
しばらく更新の滞っていたザ・ベストですが、反銀英伝のみ実験的に必要部分の抄録を行ってみました。前にあったリクエストにお答えしたものですが、読みやすくなったでしょうか。ちなみに今回は今までの部分の抄録を行ったにとどめ、ログの追記は行っていません。
ご感想を聞かせていただけると幸いです。
これから掲示板の論議の成果を整理して読みやすくまとめるという意味でザ・ベストを重要視していきたいと構想中ですが、掲示板のログも1500に迫り、個人でまとめるのは難しい状況になってきました。
そこで、ザ・ベストの編集を手伝っていただける方を募集いたします。非営利でやっているもので何か見返りがあるわけではありませんが、それでも手伝ってやろうという方がおられましたら管理人(yusuke-ishii@po.teleway.ne.jp)宛までメールをお願いします。
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- board1 - No.1494
ヤン・タイロンとヤンの悩みとユリアン
- 投稿者:satoko
- 1999年07月09日(金) 00時41分
>民主制政治とはファシズムの温床・・・。
>惰弱なもの
そのとおりでしょう。創竜伝はどうかわかりませんが(政治云々は斜め読み(笑))少なくとも銀英伝ではこの事は何度も指摘されています。
ヤン・タイロンはヤン少年にルドルフがなぜ民主政治の中で台頭し、銀河帝国を作ったか説明しています。
「みんながめんどくさい事をルドルフすべてまかせ、権力を与えていってからだ。」
そしてヤンはラインハルトとの戦いのなかで次の疑問に悩まされつつけています。
「民衆が自発的意志によって専制政治を選んだらどうするのだ。」と
これら二人の考えは管理人さんが指摘する事と同じ事だと思います。民衆が自分の責任を放棄する事で簡単に崩れてしまうものが民主主義だと。しかし、それでなおヤンがいう「最悪の民主政治でも最良の専制政治はまし。」(理由についてはMarkatzさんの指摘や本編の中に出てるので省略しますが)というものにもとづいた最終的な結論としてユリアンが本編の最後にカリンに言います。
「政治は政治に関心を失ったものに必ず復讐する。だからこそ僕たちは政治への関心を失ってはいけないのだ。」と
三者の意見は田中氏が自身の民主政治への思いを反映させたものだと思います。
民主政治は惰弱で移ろいやすいものだ。その事を認識し、自身の責任を放棄するような事はしてはいけない。それをすればどういう結果になるか歴史が証明している、と(まあ、こんな単純な話じゃないんでしょうけど)
「少なくとも」銀英伝では民主政治の長所のみではなく短所も踏まえた上での結論を出しています。だから、管理人さんの指適は正しいけどそこに留まるものではない思います。
雑文で失礼しました。
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- board1 - No.1495
訂正と馬について
- 投稿者:はむぞう
- 1999年07月09日(金) 11時37分
> 「王書(シャーナーメ)」はアルスラーン戦記の参考文献のひとつに数えられています。
それにしてもトゥラーンって本当に実在していたのか……。私はササン朝に滅ぼされた「エフタル」という民族の事かと思っていましたが。
ところでササン朝は651年に滅んでいますので「11世紀」というのは間違いです。
これは失礼しました。考えてみれば11世紀にササン朝があるはずがないのですよね。失敗失敗…。よく読んでみたら、ササン朝のころから度々いろんな書がつくられていたのを10世紀の詩人ダキーキーがまとめ、11世紀のフェルドゥシーが完成させたとありました。一時にできたのではなく何百年もかけて出来たものだったのですね。
で、実在の「トゥラーン」の黒テントの遊牧民クゥーチはアラビア語ではベドゥインと呼ばれているようです。最近の逸話では、1950年代のイラン政府軍との戦いの際、政府軍の戦車が乱射しながら500mまで近づいたとき、戦車の小さなのぞき窓に向けて一発だけ銃を発射しミスをしなかったといいます。
> 葡萄酒の主要な輸入先としてはマルヤムでしょうけど、葡萄は輸入以外にパルス国内で生産されているのもあるでしょうね。パルスの村にさえ葡萄酒があるくらいですし。生産地はマルヤムに近いパルス北西部~北部地域でしょうか。このあたりが気候的・地理的にも妥当だと思うのですが。
これは多分パルス南部になるのではないでしょうか。実際にイラン南部は紀元前からワインと葡萄の産地として有名だったようです。まあイランとパルスが同じ気候だと仮定した場合の話ですが。
>エクバターナでトゥラーンの隊商が馬を商品にしているという記述があるから「ひょっとして」と思ったのですけど、これではダメですね。あと考えられるの裏設定は「トゥラーンの馬は体格がよい」というのがありますが、これも難しいでしょう。
> エクバターナで売られているトゥラーンの馬は「特産品」と解釈するしかないでしょうね。あとは種馬とか(^^;;)。
> パルスの馬とルシタニアの馬を同列に見ることが出来るかは不明ですが、モンゴル(トゥラーン)の馬には付加価値があったと考えられそうです。
馬の品種についての特徴をかんがえてみたのですが、アルスラーンの世界にそのまま当てはまるかは疑問ですが、参考までに書いてみます。
バシキール。原産はロシアのウラル地方。体高140cm(これは地面から首の付け根の骨までの高さ)駄馬、輓用、乗馬ならびに肉・乳および衣服の素材供給用として飼育改良された。どんなに過酷な気象条件下でも生活できるという点において世界で最も頑丈な馬である。これはトゥラーンの馬に近いのではと思われます。
カスピアン。原産はイラン。体高100~120cm。アラブより古い種で、実在するなかでは最も古い。アラブの原形になったと考えられている。非常に従順でおとなしく、子供でも牡馬を扱うことができるほどである。
アラブ。原産は中近東。体高142~150cm。サラブレッドよりやや小さい感じである。世界中で最も美しいといわれる。また世界中の品種の大部分に影響がある。何千年もの育種の歴史がある。
この2種類がパルスの馬に近いのではと思われます。
ルシタニアの馬については、ヨーロッパは馬の品種があまりにも多すぎて、もう少し時間をかけて検討してみないとわかりません。特にイギリスあたりでは品種改良が趣味なのかと思えるくらいに多く、性質もかけ離れて違うものも多いです。どなたかわかった方はご教授ください。
参考ついでに馬の食べる量です。これは競走馬ではなく、馬術競技用の馬にあわせた数字になっています。とはいっても現代の馬術用の馬たちは栄養過多ぎみなので、6掛けから8掛けくらいで妥当かもしれません。ちなみに500kgの成馬1頭分として計算してあります。
ヘイキューブ(牧草を干して固めたもの5cm角くらい) 6.7kg
皮付大麦 1kg
フスマ 750g
乾草 3.6kg
つまり1日で約12kgの餌が必要となります。
また足元を保護する為の敷材
オガコ 1年間で4立方メートル
必要とする面積
馬小屋 3.6m×6.3m(7坪)
半分は馬房、半分は道具などを保管する為のスペース
放牧場 約300坪
でもこれは遊牧しているとすれば不要でしょうね。
それに数頭同時に放すことも可能だし。
また馬は草を食べるといっても、雑草の中には食べると中毒を起こしてしまう種類もあるので、注意することも必要になってきます。でもこれは野生からほどとおいサラブレッドだけの話で、アルスラーン世界の馬たちにはあてはまらないかもしれません。
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- board1 - No.1497
では目先を変えて
- 投稿者:本ページ管理人
- 1999年07月09日(金) 16時17分
>「少なくとも」銀英伝では民主政治の長所のみではなく短所も踏まえた上での結論を出しています。だから、管理人さんの指適は正しいけどそこに留まるものではない思います
では、ちょっと目先を変えて「ローエングラム帝国」が最良の政治形態になる可能性についてはどうでしょうか。
いきなりですが、最大の問題は帝国誕生後あっという間に世襲慣習が成立してしまったことですね。これによって歴史上の凡百の君主制と同じ道を歩むことが決定付けられてしまったわけですからね。
つまり、ローエングラム帝国はラインハルトによって最良の政治形態であるのであって、制度として最良であるわけではありません(というかむしろ何の変革もない旧態依然のもの)。結局ラインハルトはゴールデンバウム朝に復讐しても、それの本質である制度に対して復讐できなかったのではないでしょうか。
どんなに皇帝が神聖不可侵だとしても、帝国が近代国家として成立するためには「皇帝機関説」とならざるを得ません。つまり、皇帝すらも帝国という制度の歯車なのであって、結局ラインハルトは歯車を差し替えただけにとどまり、彼の悲劇を生みだした構造を変革することは出来なかったのではないでしょうか。
民主主義が進歩の可能性によって欠点が留保されるのであれば、ローエングラム朝の可能性について考えてみるのも面白いと思います。
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- board1 - No.1498
ファンサイトでの意見で
- 投稿者:satoko
- 1999年07月10日(土) 05時19分
>ローエングラム王朝の・・・
家系による継続なんてことは、民主主義者から見ればおわらいぐさだ、というのがヒルダとラインハルトの結婚の際にヒルダひいては皇后に権限をどこまで与えるか、という会議においての部分で聞かれますね。
「可能性」とはちょっと違いますが、歴史的視野から見たという意見ではファンサイトのものなんですが面白い意見がありました。
ttp://www.linkclub.or.jp/~suno/
のなかの「銀英独り言」のところにある「ラインハルトはルドルフの後継者か。」という意見が面白かったです。ファンサイトは嫌いだとかいわずに一度見てみてくださいな。
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- board1 - No.1499
アルスラーン戦記の新たなる疑問と、まとめレス
- 投稿者:冒険風ライダー
- 1999年07月10日(土) 17時24分
<まあ、「農民は土や虫を食ってた」といわんばかりの進歩史観にうんざりする気分はわかりますが、コメが日本の主食から日本人全体の主食になったのは戦後の4、50年ことですよ。>
ちょっとその辺は暴言になってしまってましたね。すいません<m(_)m>。あの進歩史観は戦前のメチャクチャな記述と並んで嫌いだったもので。
しかし私のアルスラーン戦記の食卓の引用と主食の推理は、管理人さんの言う「江戸時代の大名の食事をもって『これが日本の主食』と断定している」というようなものではありませんよ。アルスラーンが王族である事は考慮しましたし、庶民レベルの食事もかなりあったうえ、そのあたりにも「パン」「麦酒」「肉を主体とした食事」といったものがあったからこそ「小麦と羊肉が主食である可能性が高いと思われる」と主張したのですから。
あの「江戸時代の大名と庶民」の例との比較はちょっと違うと思います。
<ケバブやシチュー、カレーのように、我々日本人からすると肉食のイメージがあります。しかし、これは現在の考えであって、食糧事情が発達していなかった当時、肉と乳製品のどちらを主食にしていたかと言えば、とうぜん後者になります。効率の問題です。遊牧民にとっては家畜は命綱であり、一定数が確保できるまでは家畜を手放すことはありません。彼らが肉食をするということはやはりご馳走という意味でハレの日の食事であるか、逆にせっぱ詰まった非常食であることになります。>
<というわけで、もしパルスでコメ・肉が贅沢品でないのであれば、パルスとイランの間には何かしらの差違があるものと考えられますね。>
米に関する記述が全くないので(ピラフあたりは米かとも思ったのですが否定されてしまったし)米は間違いなく贅沢品なのでしょうけど、肉に関しては、パルスとイランとではやはり差異があるのではないでしょうか。「鶏肉のシチュー」だの「羊肉のシチュー」だのといった記述がありますし、エクバターナの酒場でもやたらと肉を使用した料理がでてきています。エクバターナの酒場は商人向けの酒場ではあるみたいですけどね。
余談ですが、隣のシンドゥラ国でカレーの記述がありますので引用してみましょう。
アルスラーン戦記3 P186
<「やれやれ、辛いだけのシンドゥラ料理と縁がきれてありがたいものだ。もう十日も、あんな料理を食べていたら、舌がばかになるところだった」
ギーヴが毒づくと、ナルサスが苦笑しつつうなづいた。やたらと香辛料のきいたシンドゥラ料理は、パルス人たちを閉口させたのである。羊の脳を煮こんだ、とうがらしだらけの赤いカレー料理を、そうと知らずに食べさせられたあと、アルスラーンやエラムはしばらく食欲がなかった。>
ところでこのシンドゥラがインドであるというのは分かりますが、インドのどのあたりの時代の国家を参考にしたのでしょうね。
<これは多分パルス南部になるのではないでしょうか。実際にイラン南部は紀元前からワインと葡萄の産地として有名だったようです。まあイランとパルスが同じ気候だと仮定した場合の話ですが。>
前にも引用しましたが
「ニームルーズの北は、適度の雨量にめぐまれ、冬には雪もふる。針葉樹の森と草原がひろがり、穀物と果実が豊かにみのる。いっぽう、分水嶺をこえて南にでると、太陽は灼熱し、空気と大地はかわき、点在するオアシスのほかには砂漠と岩場と草原が多く、森はない」(アルスラーン戦記2 P15~16)
という記述がありますから、私はパルス北西部~北部地域としたんです。葡萄というとフランスのイメージがありますし(^^;;)、あのあたりの気候に最も近いのは北部ではないかと思ったもので。
もっとも、記述にある南部の気候でも育つ葡萄もあるのかもしれませんが。当時のイラン南部の気候は分かりますか? それとパルス南部の気候が一致すれば南部で生産されているということになるでしょうけど。
<パルスの馬とルシタニアの馬を同列に見ることが出来るかは不明ですが、モンゴル(トゥラーン)の馬には付加価値があったと考えられそうです。>
<バシキール。原産はロシアのウラル地方。体高140cm(これは地面から首の付け根の骨までの高さ)駄馬、輓用、乗馬ならびに肉・乳および衣服の素材供給用として飼育改良された。どんなに過酷な気象条件下でも生活できるという点において世界で最も頑丈な馬である。これはトゥラーンの馬に近いのではと思われます。>
苦しまぎれに考えついた裏設定が意外な効果を生むとは……(^_^)。そうなると、新たに考えられる裏設定は
「トゥラーンの馬は頑丈で耐久性があるが、それゆえに高価なものであり、大規模な輸入はなかったがトゥラーンからの貴重な商品として珍重されていた。そのためパルスの騎馬軍団のなかでも、精鋭部隊や指揮官の馬はトゥラーンの馬で構成されていた」
というところでしょうか。そうなると、ダリューンの馬の「黒影号(シャブラング)」はトゥラーンの馬だったのかな?
ところで馬の問題となると、その前に鎧や甲冑の問題がでてきます。ルシタニアの甲冑はパルスのそれよりも重いという記述がありますし(アルスラーン戦記8 P118)、馬の比較と同時に鎧の比較をする必要があるでしょうね。馬が鎧の重さによって受ける影響などもあるでしょうし、機動部隊になるか打撃部隊になるかの違いもでてきます。パルスやトゥラーンの鎧ってどんなものだったのでしょうね。このあたりは記述が不足なので分かりませんが。
余談ですが、チュルクでは「山羊の革をかさねて間に鎖を編みこんだ甲」(アルスラーン戦記8 P97)を使っているようです。
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- board1 - No.1500
祝! 初イチャモン
- 投稿者:ココ
- 1999年07月10日(土) 22時55分
うっす。初カキコミのココっす。フリーのライターやってるっす。
なんか、みなさん欲求不満がたまっているようで…。日常生活でいい目見てないのかな?
まあ、それはさておき。オレにも悪口言わせろ~。
あ~、まず管理人こと石井さんの「緒言」読んだけど…
>例えば、最近の田中芳樹の代表作「創竜伝」では、驚くべきことに小説の中にまるでエッセイまがいの政治評論が出てくるのである。小説の初歩の初歩として、作品の中に作者の言葉が入ってはいけないというものがある。作者の主張は、キャラクターに語らせるとか、テーマとして伏流にして流すとか、そういうテクニックこそが小説であり、物語だからである。
わはは、なかなか挑発的な文だねこりゃ。
だけど、これ小説としては「アレはアレ」で「あり」だと思うぜ。だって、「小説は……でなくてはならない」ってかったりぃじゃん。視野狭いよ。
「俺はあいつの主張が気に食わない」と表明してんなら話わかるけど。(まあ、あんたのカキコからしてこれが本音だろうけど…)。
その小説の手法をことさらあげつらうと言うのも、おかど違いではないかい?
あんたの論法で行くと、パロディーや風刺も全部ダメってことになっちまうじゃん。まあ、田中のはパロディでも風刺でもないけどよ。小説家が自分の小説内で政治評論やっててもいいじゃん。それとも、どこぞの偉い文豪が「小説家は自分の小説内で政治評論やっちゃいかん!」とか言ってたの?
だ・か・ら…。「オレは田中の左翼的言動が気にくわねえ。だからこのページを立ち上げた」と最初から言ってりゃいいんだよ。
この掲示板。なかなか内容がヒートしていて気に入ったぜ。これからも色々好き放題書かせてもらうから、まあ、よろしく頼むわ。