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投稿ログ83 (No.1501 - No.1512)

board1 - No.1501

虚言 このカキコミの意図について

投稿者:ココ
1999年07月11日(日) 09時10分

 う~す。ココっす。石井師のを見習って、オレもこの掲示板に「初心表明」をするぞ。石井師の「諸言 このホームページの意図について」と合わせて見るとおもしろいぞ。
 角膜痛めるぐらい目の穴かっぽじって読んでくれい(できれば尻の穴も)

 石井由助という男がいる。一応某格闘技で北海道大会優勝経験のある男だ(だからどうした?) おそらく、アンチ田中ファンの中でも尻の穴の狭さでは有数ではないだろうか?
 尻の穴が狭いと書いた。その理由は、この男が元田中のミーハーファンであったが、オウム事件をきっかけに転向。昔の別れた女をなじるミジメったらしさで、田中の批判に回り出したからだ。

 尻の穴が狭いと言う事は、それだけ視野狭窄で他人の欠点のアラさがしが上手いと言う事だ。すなわち、光学顕微鏡が微細なゴミを探しだすのに便利なのと同じ原理である。そして、視野狭窄である人間は、いきおい他者の長所を覆い隠し、その短所をことさら大きく見せてHPで公表することを喜びとする。ちょっと病的なアンチファンなら誰でも考え付きそうなことだ。

 いま、私は何の脈絡もなく「視野狭窄」だとか「病的」なんて物言いをした。インターネット上で1個人を批判する言葉ではない。しかし、石井由助相手にならば、私はあえて使ってみたい。なぜならば、このHPの管理者である石井由助の田中批判は非常(異常)に「みみっちく」「尻の穴が狭い」からである。
 勘違いされると困るので断っておくが、私は「HPで人気作家を批判してはいけない」などと言うつもりは毛頭ない。それどころか、人気作家のミーハーファンページが跋扈する一方、こう言ったHPを敢えて作ったことは、非常に高く評価したい(この意味で「反小林よしのり」のHPも高く評価している)。

 だが、同時に「批判」だからとHPで表明しても、それを運営する管理人が高尚な人間であるわけがない。「創竜伝」を転載しようが、ヤンのセリフを孫引きしようが管理人のカキコミがクソだったら、それはクソである
 先に、私は石井由助のことを「みみっちく」「尻の穴が狭い」と書いた。たとえば、このHPのTOPにある「諸言 このホームページの意図について」では、あろうことか、言うに事欠いて「小説の中で政治評論をするのがケシカラン」などとほざいている。表現自由の小説において「作品の中に作者の言葉が入ってはいけない」などとのたもうっているのだ。もとより、作家でも書評家でもないこのHPの管理人が、どこのお偉い文豪から孫引きしたセリフかは知らないが、嘲笑うべき虚言である。もし、この虚言を当てはめるならば、トマス=モアの「ユートピア」や高野長英の「夢物語」などの警世書は、もとより文学史から抹殺されてしまうであろう。小説に託した警世、批判書は別に田中が先鞭ではない。このような文学史の初歩の初歩を知らない石井由助が「小説の初歩の初歩として…」てなど能書きをたれるなどチャンチャラ可笑しいと言わざるを得ない。

 とどのつまり、石井は田中芳樹の「小市民左翼的な言動が気に食わない」と正面きって言えないがために、姑息にも「作品の中に作者の言葉が入ってはいけない」などとさも高尚な論旨にすり替えて批判しているに過ぎないのだ。石井流の孫引きを使って言わせてもらえば、『本来酒屋で仲間を囲んで陰々滅々とやっているべき愚痴を、インターネットと言う文明の利器を介することで、さも高尚な言説をしていると錯覚している』とでもなろうか? しかも、その愚痴の卑小さが目立てば石井の「尻の穴の狭さ」はいよいよもって尋常ではない。

 ここでは、いましてきたように石井由助平とそのお仲間たちのいかがわしさ、インチキぶりを立証していきたいと思う。
 それでは、始めてみたい。この掲示板を見る石井とその卑小なお仲間たちが少しでも「オレの尻の穴は狭かった。実に申し訳ない」と悔悟し、彼らが自らの指でその菊座を「どうぞ」と押し開き、私の熱い肉棒をそこに打ち込めれば幸いである。


 どう? 石井さん。できれば「諸言 このホームページの意図について」といっしょにTOPページに掲載して欲しいんだけど。ダメ?
 頼むよ~。尻の穴の広いとこ見せてよ(笑)

board1 - No.1502

つまらん(下の「ココ」氏)

投稿者:不沈戦艦
1999年07月11日(日) 16時00分

 書き込みやな。いきなり罵倒してくる貴公の方が余程ケツの穴が狭い気がするがの。それこそ現実世界での欲求不満が溜まっているんじゃないの?それに、「小説で政治評論」するのが絶対悪とまでは思わんが、創竜伝の場合は無意味な政治評論(??と思わせるものも多い)を挿入する事によって、ストーリー自体が破綻しておるとしか思えんが、それについては貴公はどう思われるのかの?まさかあれが素晴らしいものだ、なんて言うのか?


 ちなみに言っておくが、私はここの管理人さんのように中道志向ではない。「田中芳樹の左翼的思考」は嫌いだな。アンタもそういう事を書きたいのなら、自分の志向くらい書いたらどうだい?

board1 - No.1504

RE.1500.1501

投稿者:石井由助
1999年07月11日(日) 20時25分

>うっす。初カキコミのココっす。フリーのライターやってるっす。
>まあ、それはさておき。オレにも悪口言わせろ~。



ちわっス。ウチの掲示板って、いままでこーゆー人が来ていそうで来てなかったからちょっとうれしかったりして。


>だけど、これ小説としては「アレはアレ」で「あり」だと思うぜ。だって、「小説は……でなくてはならない」ってかったりぃじゃん。視野狭いよ。
> あんたの論法で行くと、パロディーや風刺も全部ダメってことになっちまうじゃん。まあ、田中のはパロディでも風刺でもないけどよ。小説家が自分の小説内で政治評論やっててもいいじゃん。それとも、どこぞの偉い文豪が「小説家は自分の小説内で政治評論やっちゃいかん!」とか言ってたの?
>トマス=モアの「ユートピア」や高野長英の「夢物語」などの警世書は、もとより文学史から抹殺されてしまうであろう。

 どういうところでライターやっているのか知らないですけど、一応プロなんだからさ、よく読んでくださいよ~。俺、パロディや諷刺や警世書がイカンなんて言ってないよ。もし、ここで俺がゴー宣を「横紙破り」として容認しているのが「小林の主張が右寄りだから気に入っている」という理由だと思っているのだったら、説明するだけ無駄だから何も言わないけど。あと、掲示板で「ドストエフスキーの『悪霊』は小説という技法によって社会評論以上に社会の真実を描いている」ってな内容のことを俺は言っているけど、このイミ、わかるかな?


>虚言 このカキコミの意図について

 うふふふふ。俺は「アンチが騒がれれば騒がれるほどアンチの対象本体の凄さを証明することになる」っていうパラドックスを承知でこのサイトやってますよ。俺個人のアンチなんてうれしいなぁ。

>できれば「諸言 このホームページの意図について」といっしょにTOPページに掲載して欲しいんだけど。ダメ?

 俺なんかが田中芳樹と同列だなんて過分な評価に過ぎるでしょ?気持ちはうれしいけどねぇ。

board1 - No.1505

追記

投稿者:石井由助
1999年07月11日(日) 20時31分

ココ氏へ

あなたが田中芳樹のファンなのかどうかだけは聞いておきたいですね。

board1 - No.1507

雑談的レス

投稿者:本ページ管理人
1999年07月11日(日) 22時31分

>No. 1499
>肉に関しては、パルスとイランとではやはり差異があるのではないでしょうか。

現代のクウェートになるんですが、普通の日常食の基本形態は、
「パン類(ナン、ホブス)」+「乳製品(ミルク、チーズ、ヨーグルト)」で、ちょっと奮発して(牛丼に卵つける感覚)ケバブを食べるという感じらしいので、庶民食があの通りだとすれば、パルスはかなり生活水準が高いと言うことになりそうです。
 しかしそれよりかは、まず商人が結構金持っていていいもの食べているとは考えられないでしょうか? また、長旅で普段粗食していると考えれば「やっとエクバターナに着いたんだからちょっと奮発したもの食おうぜ」という気分があるのかも知れません。
…ってところでどうでしょうか?


>No. 1498


>ttp://www.linkclub.or.jp/~suno/

 面白かったですね。確かにここに来ている方には一読の価値があると思います。

>「ラインハルトはルドルフの後継者か。」
>人類の歴史がもっていた君主制→共和制というベクトルに対して,結局,そのあるべき歴史の流れを停滞せしめ,かえって逆行させてしまったことになるのではないだろうか

 うーん、「人類の歴史がもっていた君主制→共和制というベクトル」「あるべき歴史の流れ」という未論証の根拠を持ってローエングラム朝を批判するのはどうかと思いましたね。「人類の歴史がもっていた君主制→共和制というベクトル」「あるべき歴史の流れ」が本当にそうなのか、という思考実験が銀英伝のテーマの一つですから。
 これについてはまた、そのうち。


>単一国家(であるはず)の銀河帝国において,端的に国力の増進を図る必要性があるとは思えない。また,搾取階級である貴族の子弟に義務教育を行う必要もないだろうし,ましてや被搾取階級の平民たちに皇帝が教育の義務を課するはずもない

私があのサイトでもっとも興味深かったのがこれです。「単一国家」は人類が未だ経験していないシミュレーションとして非常に面白い。義務教育は富国強兵制度の一環であり、近代国家においては権力者が人民の無知蒙昧を望むことはあり得ません。
自国民の知能指数の高さを誇るのが、ある意味近代国家の為政者の本音でしょう(銀英伝の世界だって宇宙船によって戦う以上は一般兵でも高度なレベルの知識が必要)。が、専制によって人類統一国家が誕生したら富国強兵の必要性がない以上人民に知識がある必要はない。むしろ、無知蒙昧のほうが扱いやすいはずですし、必要な知識は一部階級によって独占された方が支配には効率的です。
 同盟という恒久的な敵が居てはじめて、帝国は強力な近代国家たりうるのではないでしょうか。
 となると、どうも、帝国には同盟の存在がないと成立し得ない逆説があるような気がします。

 この帝国の病的な論理はソ連の病理に通じるものがあります。「我が国は社会主義国であり貧困は存在しない」という理論を現実に優先させたことが現実に貧困があってもそれを認めない(認めてはいけない)という病理的社会を生み出しましたが、「我が国は単一国家であり、他の国も敵国も存在しない(存在してはいけない)。あくまでも反乱軍である」という理論がある以上、どこかで現実と理論が矛盾を起こしそうな気がします。反銀英伝ではありませんが、帝国が同盟に優越するのは疑問ですね。

board1 - No.1508

あえて問う、石井由助と広末ストーカー、どこが違うのか?

投稿者:ココ
1999年07月12日(月) 00時22分

 おっす石井さん。オレのおちょくりエッセイ第2弾だ。今度は「あえて問う、田中芳樹とアドルフ=ヒトラー、どこが違うのか?」といっしょに読んでくれ。
>俺なんかが田中芳樹と同列だなんて過分な評価に過ぎるでしょ?気持ちはうれしいけどねぇ。

 喜んでもらえてうれしいっす。これからもずっとここでかかせてもらうよ。
「田中芳樹は、小説にエッセイを持ちこんだフトドキな作家だ」これは石井由助という男がもっとも好んだ台詞だった。

 嫉妬は批判を生む大きな原因である。このこと自体に異論のある人は少ないだろう。現在のワイドショーによる有名人追っかけも大衆の嫉妬に立脚したものであるし、だからこそTV局は一方で大衆に批判を浴びても大衆受け(視聴率)を求めてリポーターを派遣するのである。
また、嫉妬による批判は、その原因が嫉妬というネガティブでいやらしい理由であることに起因していることを極力隠そうとし、一見建設的であり信念があるかのように装うから判断することが難しい。その隠蔽性ゆえ、多くのマスコミは「報道の自由」の美名の元にタレントのプライバシーを暴露し、やれ「広末は早稲田をなめてる」だの「サッチーはけしからん」などと、聖人君子、閻魔様のごとくすました顔で鬱積した想いを晴らすのだ。まさに、それは人間(石井)という存在の哀しさであり、善悪で割り切ることの出来ない矛盾であり、原罪でもある。
そして、その嫉妬による狂気は転向ファンと言う石井のような存在をも生み出す。それは、やはり善悪で割り切ることの出来ない不条理を孕んでいるのだ。

まず、『田中芳樹は、小説にエッセイを持ちこんだフトドキな作家だ』という言葉の意味から考える必要がある。
高校までの石井は、現在では想像もできないほど田中芳樹を信奉し、サイン会で本人を見かけるとガラにもなくドキドキしたりもした(笑)。そして、オウム事件をきっかけに、思想的に目覚め(?)反田中芳樹の転向ファンとなり、高校の文芸誌で田中批判を書くまでにいたった。
 「元オウム信者がオウムを批判しうるように」と言えば聞こえがいいが、ようは、自分の思うようにならない女に「お前は不誠実だ」と泣き言を繰り返した挙句ストーカーになって追いまわす柔弱男にしか思えない。
 それゆえ、その状況を無視して上記の言葉を抜き出しても、何の意味も持たない。ましてや、そのような人間が田中への警句として使うのには、これほどふさわしくない言葉は他にあるまい。

 このような石井が田中に対して嫉妬の感情を抱くこと自体は悪いことではない。しかし、石井のように田中を「人気作家」で「売れてるん」だから何言ってもかまわないんだろう? 俺は一介の学生だし、懲らしめてやってもそれは悪ではない、と言うのは明らかに間違いだ。

 石井のような「懲らしめ」を別に珍しいことではない。ワイドショーでサッチーを「ブタ」となじったタレントや、早稲田で広末の頭を小突いたストーカー学生も石井の「懲らしめ」の延長線上にあるのだ。

「現実と虚構のボーダーラインを使った卑怯な評論」などと言って、本来、自由な表現であるべき小説をこのような矮小で手前勝手な論理で「定義」し、批判の論拠とし過剰な罵詈雑言をほざく。このような石井の心情と「ずるして早稲田に入りやがって」と登校した広末の頭を小突いた早稲田学生の心情。

 何が違うというのだろうか?

 どう、気に入った。できればこれもベスト版に加えてくんないかな? ダメ?
 あ、ところでオレ田中芳樹は「創竜伝」(五巻まで)と「銀英伝」(外伝読んでない)、「奔流」ぐらいかな~。一番好きな作家はマイケル=クライトンだけどね。

board1 - No.1509

わっはっは、お返事うれしいぜ

投稿者:ココ
1999年07月12日(月) 00時41分

>書き込みやな。いきなり罵倒してくる貴公の方が余程ケツの穴が狭い気がするがの。

 わはは、貴公だって! 「銀英」チック~。罵倒してるのはお互いさまさ。これからも仲良く罵倒していこう。田中でも石井でもココでもさ。
>「田中芳樹の左翼的思考」は嫌いだな。アンタもそういう事を書きたいのなら、自分の志向くらい書いたらどうだい?

 おいおい、思想調査? 別にどうだっていいじゃん。
 ただ、はっきり言えることは「お前らが嫌い」ってことだ。

board1 - No.1510

みんなもおこるよそりゃあんた

投稿者:satoko
1999年07月12日(月) 01時31分

管理人さん、ココさん
いいかげんにしてください!ここでもそもそもの目的は「田中作品、または田中氏の思想について」議論することでしょう?

管理人さん
今まで私を含めた田中ファンがあなたに対する個人的な批判をしなかったのは、この掲示板がそういう趣旨のものだと判断しているからです。ほかに投稿なさってる方もそうではないのですか?

アンチが来てくれてうれしいのはかまいませんが、ほかの人から見れば二人がお互いのことでやりあってるのははっきりいって邪魔です。

ココさん
あなた、ライターでしょ?この場の趣旨がどういうものか読めないのでしょうか?
また、管理人さんも指摘してますけど文章の意味を取り違えるものいいかげんにしてください。もちろんあなたがどこかのありもしない芸能ネタで騒ぎを大きくするのが楽しい程度の三流ライターなら仕方ないかもしれませんが、普通ライターの方って言うのは取材したことからそこにある事実を見ぬくのが仕事なのでは?あなたのは単なる不平を不愉快な言葉で書き換えてるのみ。おもしろくもなんともないです。

そもそもココさんは荒らしてやるつもりでいらしてるんでしょうが、管理人さんはそういうものを防ぐ立場にあるのでは?少なくともこんなやり取りがつづくのであればここにくる意味なんてありません。田中ファンがココを訪れても所詮この程度かとあきれることでしょう。

お二人の争い(ほかの人にも余計なこと言ってるみたいですが)、田中氏のものと関係ないことで争われるのであればメールか何かで続けてください。はっきり言って目障りです。

失礼します。

board1 - No.1511

パルス、馬などまとめレス(ちょっと長いぞ~)

投稿者:仕立て屋
1999年07月12日(月) 08時13分

 毎度、仕立て屋です


<パルスのモデルの一つは間違いなくササン朝のペルシアでしょうが、十字軍(どうみても)の時代もモデルですし、わたしはどちらかというと中世のほうが妥当だと思うのですが。>
================以上、管理人さん=================

十字軍の時代になると、ペルシアは完全にイスラム化してますし、戦略的には十字軍は、キリスト教圏にとって(イスラム教圏にとっても同じなんだけど)最大の聖地をオスマン・トルコなど異教のイスラム勢力から解放しよう、というものですよね。イアルダボートの光で異教の地を照らす、というルシタニアの建前とは戦略目標の点で微妙にずれると思います。ところで、作中ではパルスの友邦国マルヤムはルシタニア同様、イアルダボート神を崇める国です。ルシタニアはその協会会議にてルシタニアの西方教会に対してマルヤムの東方教会が異端であると決議し、これを併呑しました。史実においては、エフェソス公会議におけるコンスタンチノープル主教ネストリウス異端断罪に同意しなかったシリアのキリスト教徒が自称東方教会と名のりビザンティン教会から離脱、ローマ帝国の弾圧を逃れ、ペルシャ領ニシビスをネストリウス派教会の拠点とし、その後、ササン朝ペーローズ王からペルシアにおける支配的キリスト教派として公式に認可される、という出来事があったそうですが、この史実をヒントにしますと、マルヤムという独立国とペルシア領内北西部の1キリスト教派拠点という違いはありますが、この教派の拠点をシリアあたりの国とし、ペルシアがそれを保護するという形にすれば、立地的に地中海に面している点もちょうどマルヤムと共通しますし、これに十字軍の伝承を加味すれば、ちょうど作中イメージになると思います。どうでしょうか。



<イランの古都イスファーンの南のペルセポリスでは、アレキサンダー大王の時代から葡萄栽培が盛んでワインが作られていたらしいです。>
=================以上、はむぞうさん===================

 たしかに、そうみたいですね。甘かったわい。二つの山脈沿いには地中海性の気候が分布してますので各オアシスで果物もよく作られたらしいです。それでも、貴重な耕地ですからこうした嗜好品は高価な食物だったのかもね。


<高校時代の教科書を開いて気づいたのですが、ササン朝ペルシアというのはイラン南部の農耕民族が、イラン北東部からきた騎馬民族が建てた国家であるパルティアを滅ぼして建てた国だったんですね。国土はどちらもほぼ同じですが、パルティアのほうの当時の地図をみると「エクバターナ」や「アトロパテネ」などの地名が登場していました>
==================以上、はむぞうさん===================

 浅はかでした。良く調べたら、イラン高原を南下していた西イラン族ペルシア人も前7世紀過ぎにはファールス地方で徐々に定着農耕に移行していったらしいです。この際、一時エラム人の支配下に入ったらしいので、想像ですが、おそらく、かの地で農耕を営んでいたエラム人を駆逐して農耕生活に移ったのではないでしょうか。騎馬遊牧民族はおしなべて、農耕民族との出会いにより定着化する傾向があるようですから。その際でも、当然、兵器としての馬という認識は維持されるでしょうから、定着初期の段階では、管理人さんがおっしゃるように半農半牧畜の形で軍馬も飼育されたのだと思われます。その後徐々に身分制度と国家としての体裁が確立していくにしたがってそれ専門に直轄の軍馬飼育部門などが各ステップにて組織されていったのではないでしょうか。また同時に農耕で得られる穀物飼料により大型の品種(体高145cmくらい)も創出されていったのでしょう。騎馬は軍人のステイタスですから、軍人はもちろんのこと、パルス人一般にもより良き馬の所有と騎馬技術の研鑚は、一種文化的嗜みとしてひろく行き渡ったと想像されます。それがパルス騎兵の精強さを形作ったと思われます。
 ただ、それでも腑に落ちない点がいくつかあります。まず一つ、もはや純粋な騎馬遊牧民ではないのですから、パルス人一般に対する形容「歩くよりも早く乗馬をおぼえる」って、まるでモンゴル遊牧民などに対する形容を使うのは不自然な気がするという点。これを、騎馬遊牧民だった頃からの伝統的形容と見れば、まあ、許せる範囲ですが。また、パルスを農耕基盤の国家とした場合、その軍構成(大雑把に、貴族1万人、自由民10万人の騎馬兵と、自由民4万人、奴隷26万人の歩兵)はどう見ても遊牧国家のそれです。たとえば、ササン朝の文化、制度的継承元であるアケメネス朝の場合はペルシア貴族1千人、不死隊と呼ばれるペルシア人1万人が常時動かせる国軍の主力(親衛隊みたいなの?)で、その他に各方面の分遣隊と約20州からの召集軍で構成され、その内訳は主にペルシア人、メディア人など西イラン族からなる騎兵隊2万、各州の従属臣民臨時召集軍を含む歩兵及びフェニキア人、エジプト人などからなる海軍あわせて30万人というものです。騎兵の割合は全軍の1~2割であって、やはり主力は歩兵となります。ギリシアの重装歩兵に痛い目にあってるペルシア人ならなおさら歩兵の重要性は認識していたはずです(それでも軽装歩兵しか組織しませんでしたが、マイナス面を帳消しにするだけの圧倒的な兵力を持っていました)。ところで、作中ではパルス軍は奴隷を除いては、ほぼパルス人によって構成されているように見うけられます。以前、冒険風ライダーさんによる上記パルス軍、騎兵12万5千と歩兵30万が常設軍だとの見解に対して私はその騎馬の多さを農耕兵も含まれる、とすることで説明しようと試みたことがありましたが、よくよく調べて見ると冒険風ライダーさんの常設軍とする見解が正しいような気がしてきました。というのも、まず、西アジアでは馬を農耕には普通利用しないという点が一つ。また、軍馬は戦場の環境(大きな騒音や鬨の声、血の臭い)に慣れている必要がありますし、第一、重装備の騎兵を乗せて俊敏に動けなければ役に立ちません。それには、組織的に訓練される必要がありますから、それには直轄の軍馬繁殖地などで生産されるべきではないでしょうか。同時に職業は分化してるでしょうから騎士はもちろんのこと、自由民歩兵も職業軍人の可能性が高いです。以上の点から騎兵12万5千人、歩兵3万人は職業軍人であると予想されます。さらに冒険風ライダーさんがおっしゃったように東方国境8万人、西方国境6万が常駐しているということでこれらを王直属の地方分遣隊(もし、これら国境防備隊が王直属でなく、地方領主による防備砦とするならば、かなり信用の置ける譜代の臣を配置する必要がありますが、他に分遣隊と思われる記述が見落としなければありませんので、ここでは王直属としておきます)と見なすならば、当然、国庫支出の常設軍であり、その軍構成も主力軍と同様でしょうから、内、東西両方面軍で騎兵、歩兵の職業軍人として3万人、2万人が見こまれます。その異常な兵科構成を除いても、パルス王国軍における国王直属の職業軍人の多さ(計、17~18万人)は、なんだか現実離れしているように感じられます。まだ、パルス王国軍に、各属州からの臨時召集歩兵隊が存在するならば、この異様な軍構成は幾分、正常視されるでしょうが、そうなると今度は、王国軍全体の最大動員兵数が下手すると100万人に達するという異常な自体になりかねません。こうしたつじつま合わせにおける不都合を回避する手としてパルス遊牧国家説を唱えてみたのですが、これだと皆さんのご指摘通り作中の封建体制の雰囲気と矛盾してしまいますね。しかし、パルス王国を農耕及び商業国家とみた場合、どうしても初期の命題「騎馬兵の異様な多さと異様な軍構成」に立ちかえらざるを得ないんですよね。こうなったら、いよいよ”そういう設定の作品なの!!”と言うほかないのでしょうか。きっと、田中氏自身、物語にでてくるような英雄的騎馬突撃の有効性を信じて疑わないのでしょうが、MerkatzさんのHPにおける武田騎馬軍は実際には戦う前に下馬してから戦った、という話を考慮しますと、パルス王国軍はかな~り無茶してます。
(一部、わたしの想像からなっていますがご了承をば!)



< パルスでは国王自らが「大陸公路の守護者」と名乗るほどですから、商人の地位もかなり高かったのではないかと考えられます。金の単位が「金貨(デーナール)」「銀貨(ドラフム)」「銅貨(ミスカール)」と設定されているくらいですし、商業活動がさかんだったのもうなづけます。私はパルス国を「商業国家」と考えていたくらいですしね。>
================以上、冒険風ライダーさん==============

 これは、そのとおりだと思います。重要なオアシス拠点を押さえたオリエント国家は間違いなく商業でもかなり利益をあげています。
パルス王国軍構成の異常さから遊牧国家説を唱えてみたのですが、ちょっと無理があったようです(^^;


<エクバターナで売られているトゥラーンの馬は「特産品」と解釈するしかないでしょうね。あとは種馬とか(^^;;)。>
================以上、冒険風ライダーさん===============

 品種改良のための種馬というのは、きっとあったでしょうね。
種馬って重要ですから。


<「王書(シャーナーメ)」はアルスラーン戦記の参考文献のひとつに数えられています。
 それにしてもトゥラーンって本当に実在していたのか……。私はササン朝に滅ぼされた「エフタル」という民族の事かと思っていましたが。>
================以上、冒険風ライダーさん===============

 ちなみに、トゥラーンはモンゴル・トルコ系民族で、チュルクはトルコ系民族、エフタルというのはアーリア系のイラン族という説が有力らしいです(またの名を白いフンと呼ばれたそうです)。



<イランのアーリア系が遊牧民であるという仕立て屋さんの指摘はその通りです。ですが、中近東の遊牧民は主にサウジに展開するベドウィン族を除いてすべて半農半牧であることは注目に値します。

 その農業ですが、今までの議論だと「パルスは、まあ、農業に使える土地もあるけど、ほとんどが砂漠や高山といった農業に適さない土地で…」という消極的意見がほとんどでした。しかし、考古学的に調べてみると、この地域(特にイラン南西部の「豊穣の三日月地帯」と呼ばれる地域。あのチグリス・ユーフラテス流域であり、それ以外の丘陵地もそれなりの降水量があります)の農耕は世界のすべての他の地域に先駆けるものであったようです。また、植相の面ではエメル小麦、アインコルン小麦、六条小麦、二条小麦が野生していた(原産)ところだと言われ、ムフロン羊や山羊が野生で生息していたと言われています。つまり、小麦栽培に関しては発祥の地であり、小麦を粉化する技術が生まれパン食が誕生したのもメソポタミアでした。この地域では降雨や降雪が多いのが冬期なので、冬作作物である麦は農作にも適していたようです。また、この農作と同時に山羊や羊の家畜化が始まりました。ともあれ、この技術が伝播したものが、後の地中海農耕文化と言うことのようです。
 さて、この限られた豊穣な農耕地を取り損ねたものが遊牧民化したところから、半農半牧の文化が誕生しました。小麦栽培はもともと牧畜を伴って発展したと言われています。代表的な半農半牧文化を持つイラン東部のチャハールアイマク族の場合、家畜を畑耕に使い、脱穀は穂の上を家畜に歩かせ、麦刈り後の畑は放牧地へ使い、そこでの家畜の糞が肥料になるという、農耕と牧畜が見事に絡み合い回転する文化を持っていますが、これはそれが現存している姿と言えそうです。


 このように、イランでは小麦栽培と遊牧を両立させる半農半牧生活がメインであり、それがどちらに重きを為すかによって農耕民と呼ばれたり遊牧民と呼ばれたりしてきたということが、社会構造の大前提になります(私が大雑把なんじゃないですよ(^_^;)ホントにこうなんですって)。


 余談ですが、この半農半牧説の論拠はイランの遊牧の家畜が牛、羊、山羊といった、農耕可能な土地でなければ飼えないものであることが挙げられます。大げさに言えばこれらの家畜は三日草や水を欠かすと乳も出さず、荒涼とした土地では遊牧が出来ないわけです。一方、遊牧専門のベドウィン族のテリトリーは砂漠であり、家畜はラクダです。ラクダはしばらく水や草の不足する土地でも安定した乳量が期待でき、むしろ伝染病の心配がいらない分だけ乾燥した砂漠が適しているのです(ちなみに現在は遊牧禁止政策や農業の近代化によってベドウィンも半農半牧化しているということです)。>
================以上、管理人さん===================


ふむふむ、確かにササン朝の滅亡前の地図を見ると、その領土に「豊穣の三日月地帯」は入っとりますね。メソポタミアの1年草のイネ科草原(小麦類)に群れていた群居性有蹄類(群れてくれたほうが生産管理しやすいためか?)を捕獲、家畜化したのが早いのか、それら小麦の原種による農耕が早いのか、はっきりとはわからないがとにかく同時期にメソポタミアで小麦栽培と牧畜が始まったのは確からしいですね。農耕で食っていけるところは牧畜は副業的になりますし、農耕だけで食っていけないところでは牧畜の比重は高くなるでしょう。もともと、群居性有蹄類というくらいだから、群れで移動するわけです。これは遊牧に非常に向いてるわけでして、ステップ、サバンナなどの乾燥した草原は遊牧に大変都合が良いようです。騎馬遊牧が発達した理由の一つに、馬の移動力により少人数でより大規模な群れを管理可能になったことが挙げられます(具体的に羊では/人1人徒歩にて100頭以上、騎馬では人1人で1300頭以上と徒歩の場合の10倍以上の作業効率です)。これにより遊牧のみでも生活可能となり、乾燥帯のステップ草原においては最適化した生活形態といえます。実際、騎馬遊牧民といわれる人たちは(モンゴル人など)はその家畜のメインは羊、山羊で一番多く、、牛は森林ステップなど、より乾燥度の低いところで多くみられ、馬は牛などと大体同数らしいです。
 あと、現在、中近東における遊牧が半農半遊牧(耕作した段階で、厳密には遊牧とは言わないのですが/家畜をともなった農耕かな?)であるということですが、これは、管理人さんがベドウィン族の現状で仰ってるように、政府による定住化政策の推進というのは当てはまりませんでしょうか?中近東においては、歴史的に、時の政府が遊牧民を一種の暴力装置として利用してきた過去があり、一方で遊牧民側も、時の政府が混乱した際には反政府組織として立ち振る舞ってきた過去があるわけで、政府にとって、遊牧民は役立つときもあるが、非常に厄介な存在であることも確かなのです。国家としては、容認できるものではありません。それに、不動産を持たない遊牧の民から税金を徴収することはなかなかままならないものです。これらは、近代国家の論理と真っ向から対立するものです。
 ベドウィン族の場合は、定住化ということで、それぞれに土地が区分けされて与えられるわけですが、その特質である境界線のあいまいさに立脚すべき遊牧が、線引きされた狭い土地で成立するはずがありません。結局、その土地を大地主に売却した現金をもって、都市に流入していったベドウィンの民が大勢いると聞きます。なお、遊牧生活をおくるベドウィンにしろ、武装解除はもちろんのこと、いまでは、政府の補助金なしでは生活もままならないそうです。また、モンゴル遊牧民に関しては、同様に政府による定住化政策が進められているのですが、森林ステップを除いてなかなか定着化は進まないそうです。

 ちょっと、話がずれまして(^^; イランにおける半農半遊牧が、見るものによってコロコロ変わるというのは、なんだか、わかるような気がします。ただ、先に申し上げたように、厳密には農耕する牧畜民は遊牧民とは呼べないと思います。そういう意味で、パルスが純粋な遊牧国家であるとしたわたしの説は、ちょっと暴走気味だったと思っています。
 また、イランの気候については、豊穣の三日月地帯ですら乾燥帯なので、人の手で灌漑しなければ、すぐさま、緑の地は失われてしまいます。逆にいえば、人の手が加わる限り、かの地は非常に豊かな土地になりうるということですね。実際、その時々の為政者によって、人口の増減は激しいようです。イスラム征服以前のペルシアではゾロアスター教が盛んだったため、大地の耕作は推奨されたようです(ササン朝の名の由来ササンはアナーヒターという水と水流の女神の祭司だったくらい、関係ないか、ナハ)。前8世紀くらいにイラン北西部で始められたカレーズ(カナート)の技術がファール地方でも前6世紀くらいから導入され、灌漑利用されたようです。ですから、イスラム征服以前はかなり豊かな国だったらしく、聖書やギリシアの哲学者の著書にもそのような記述があるらしいです。いろいろ、本を探したのですが、なかなかペルシアの総人口に関するデータがなく、唯一、紀元0年あたりのローマ帝国の総人口が7~8000万人ということなので(これも確かかどうか不明、トホホ)、ササン朝ペルシアに2000万人ぐらいいてもおかしくないのかもしれませんね。
 また、これは、冒険風ライダーさん宛てになるかと思いますが、アケメネス朝ペルシアにおいては属州含めて大体20州前後だったらしいです。ササン朝においてはディフカーン(村の領主)とよばれる小貴族を軍人や役人に取りたてられた、とあるので、州の中でさらに細かく行政区画を分ければ問題ないとは思いますが。参考までに。

 それから、以前の冒険風ライダーさんのパルスにおける地形様相<パルス中央部のやや南よりにはニームルーズ山脈があり、この山脈より南は砂漠と岩場と草原が多い>との記述と、アルスラ1巻のパルス王土図を見ると、南海のペルシア湾に面する海岸線が湾の南岸に回りこまず、そのまま左右に切れている様子から考え合わせると、ひょっとしたら、「豊穣の三日月地帯」はその王領に含まれていないかもしれません。とても微妙なラインなんですが、とりあえず、悪足掻いてみました。あと、お米に関して。カスピ海南西沿岸のギーラーン地方では地中海性気候とあいまって、年間降水量1000mmを越え、稲作も行われているそうです。



<これは多分パルス南部になるのではないでしょうか。実際にイラン南部は紀元前からワインと葡萄の産地として有名だったようです。まあイランとパルスが同じ気候だと仮定した場合の話ですが。>
============以上、はむぞうさん=================

 ですね(^^


<バシキール。原産はロシアのウラル地方。体高140cm(これは地面から首の付け根の骨までの高さ)駄馬、輓用、乗馬ならびに肉・乳および衣服の素材供給用として飼育改良された。どんなに過酷な気象条件下でも生活できるという点において世界で最も頑丈な馬である。これはトゥラーンの馬に近いのではと思われます。>
===========以上、はむぞうさん===============

 トゥラーン人はアルタイ山脈から天山山脈北に分布していたモンゴル・トルコ系民族なので、体高120cm~のモウコウマ系の馬では?で、パルス人がどんな馬を欲していたか、考えをめぐらせてみると、一般に、ペルシア人はモンゴル・トルコ系の人たちより体格が大きく、騎兵も重装騎兵であり、ある程度、体高も必要とされたと想像されます(これは秦の騎馬に関する法律からの推測です)。



<苦しまぎれに考えついた裏設定が意外な効果を生むとは……(^_^)。そうなると、新たに考えられる裏設定は
「トゥラーンの馬は頑丈で耐久性があるが、それゆえに高価なものであり、大規模な輸入はなかったがトゥラーンからの貴重な商品として珍重されていた。そのためパルスの騎馬軍団のなかでも、精鋭部隊や指揮官の馬はトゥラーンの馬で構成されていた」
というところでしょうか。そうなると、ダリューンの馬の「黒影号(シャブラング)」はトゥラーンの馬だったのかな?

 ところで馬の問題となると、その前に鎧や甲冑の問題がでてきます。ルシタニアの甲冑はパルスのそれよりも重いという記述がありますし(アルスラーン戦記8 P118)、馬の比較と同時に鎧の比較をする必要があるでしょうね。馬が鎧の重さによって受ける影響などもあるでしょうし、機動部隊になるか打撃部隊になるかの違いもでてきます。パルスやトゥラーンの鎧ってどんなものだったのでしょうね。このあたりは記述が不足なので分かりませんが。
 余談ですが、チュルクでは「山羊の革をかさねて間に鎖を編みこんだ甲」(アルスラーン戦記8 P97)を使っているようです。>
==============以上、冒険風ライダーさん================

 当時、騎馬は騎士独特の優越感、ステイタスの具現化であった
はず。大きく立派な馬が好まれたと思います。主将級の騎士の馬が雄馬(未去勢馬)であることもままあったらしいです(荒荒しく、扱い難くはあるが、警戒心が旺盛など、戦場では役立つこともあり)。これは、わたしの主観ですが、ダリューンのような偉丈夫がトゥラーンの比較的小さい馬に騎乗していたのなら、それはそれで、わらえるかもしれません。
 アルサケス朝パルティア~ササン朝ペルシアにおける重装騎士戦法と鐙、蹄鉄の技術がヨーロッパの重装騎士を生み、また、より重い甲冑がより大きな馬を要求していったという歴史があるのだそうです。

board1 - No.1512

はじめまして

投稿者:ホリー
1999年07月12日(月) 10時48分

つい2,3日前初めてこのサイトを知った銀英ファンです。内容が高度なのに感動し、じっくり皆さんの意見を拝見してから参入させていただこうと思っていたら、えらく下品な人が混ざっていてびっくりしました。
 それではきちんと議論していた皆さんの真剣さはむくわれません。男性、特に学生さんはしばしば自分が一番偉いと勘違いして特定人物を批判してそのくせ自分を批判されると
急にしょぼくれたりしますね。こちらのサイトの皆さんはそんなつまらない人ではないと
信じたいものです。
 田中氏の最近の作品はまったく読んでいないので、氏の思想がいまどのあたりにあるのかわかりません。が、結局のところ小説が小説としての面白さを失ったらまともな読者は去っていくだけのことではないでしょうか?
最近同人界で広がっている中国古典の端緒は
田中作品ではなくゲームの影響大、と私は見ています。
 そういえば10年位前に銀英のことを批判する同人誌がありまして、つくった本人達はファン心理で書いてたようですが、
「未来の話なのになんで帝政が復活するん だ」
という、わけわからんことを言ってました。
今考えてみればこれ、マルクス的進歩史観で
す。これを田中氏本人に送って、どこかの誌上でひどく怒られてましたね。
 右だろうと左だろうとイデオロギーにはま
ってる人の考えはひどく狭量でつまらないものです。そういう枠から外れたところで作品論というのをやりたいです。
 今更、の話でしたらごめんなさい。

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