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- board1 - No.1198
アル戦ネタについて
- 投稿者:冒険風ライダー
- 1999年05月07日(金) 09時19分
<ところで、実際には騎兵10万が展開できるだけの広さってどれくらいなんでしょう?イメージが全然わかないのでピンときません。>
私もあまりピンと来ませんけどね(^^;)。はむぞうさんが以前「騎兵八万五千が並ぶだけで、トラック14000台分の広さをとる」って言ってましたけど、アトロパテネの場合、敵味方合わせて59万1千人もの人間と、14万3千頭もの馬がいますからね。少なくとも東京都よりもでかいのでは?
<全軍という記述だけから常備軍とはいえないのでは?>
これはアンドラゴラス王の紹介の時に「パルスの全軍――十二万五千の騎兵と三十万の歩兵を指揮するにふさわしい男である」(アルスラーン戦記1 P13)から推測しました。さらにパルスの東方国境には8万の戦力が常に臨戦体制で待機しているし、西方国境にも6万が常駐していますから、私は常備軍ではないかと解釈しました。自由民の兵については私も武装農民ではないかと考えていましたけど、奴隷と馬が平時はどうなっているのか、またどうやって生活しているのかがわからなかったので。特にアルスラーン戦記の奴隷は無給ですから、国ないしは諸侯が面倒をみなければならないわけです。奴隷の使い潰しもあったでしょうね。負担がバカになりませんから。
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- board1 - No.1199
『紅塵』私的感想
- 投稿者:小村損三郎
- 1999年05月08日(土) 01時46分
決してつまらない、ということはないんですが・・・。
個人的には、過去と現在の視点を交互に描いていく手法が、逆に散漫さの方を強く感じさせ、どっちつかずになってしまったような印象がありますね。
もっと頁数があればまた違ったかもしれませんが。(どちらのお話もボリューム的にも内容的にも物足りない)
恐らく、岳飛や秦檜を直接描くのは(自分自身の中でも)時期尚早。しかし、あまりの三国志ブームに業を煮やしていた折でもあり、何とか布教の為の文書はものしたい、というせめぎあいの中で、苦肉の策として彼らの後の世代を「一応の」主人公としたのだと思われます。
事実、主人公・韓子温のキャラは全く立たず(というか、初めから「キャラを立てる」ことを放棄してる)、殆ど『ダグラム』のクリン・カシム状態(笑)。
大体、『紅塵』を読んでない人がここの書込みを見たら間違いなく岳飛が主人公の話だと思うでしょう。
あと、余談ですが井上祐美子の『女将軍伝』は主人公のキャラクター造形といい、過去と現在を交互に描写する手法といい、全てに渡ってこの『紅塵』のパクリにしか見えません。
主人公・秦良玉のキャラは『紅塵』に登場する韓世忠の妻・梁紅玉と全く見分けがつきませんし。(名前まで似てる。まあ、どちらも実在の人物ですから偶然ですが)
しかし、何も女性の作家が女性を描くのが苦手なことには定評のある(?)師匠の作品をパクらなくてもいいと思うんですけど。
(アレ?ひょっとしてこのネタ以前にも書いたかな)
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- board1 - No.1200
紅塵ネタ
- 投稿者:俺様ランチ
- 1999年05月08日(土) 16時14分
小村損三郎さんへ。
私の場合は、それに加えて「岳飛主人公で書こうと思って資料集めてたらたまたま采石磯のエピソードを知り、アレもコレも詰め込みたくなった」ってのもあるような気がします。
確かに、岳飛と韓子温それぞれで中編2つでも良かったんじゃないか、って気もします。
冒険風ライダーさんへ。
謝罪外交と、オーベルシュタインが元になっての秦檜擁護、ってのはわかりました。ただ2つばかり、つっこみたいところを感じたので書いてみます。
1、謝罪外交の是非を論ずると話がかなりズレるのでやめますが、当時の南宋と現代日本では状況がまったく違うと思います。南宋は「侵略された国」であってそもそも金に臣下の礼をとる必要が無いのですが、日本はあくまで「侵略(進出でもいいですが)した国」であって、謝罪したところで全くの筋違いではないと思います。
ここで言いたいのは謝罪外交の正否ではなく、あくまで「南宋と現代日本の状況を同じとみる事に無理がないか」という事です。
2、オーベルシュタインと秦檜は確かに両者とも「嫌われる正論家」であったかも知れませんが、「嫌味なまでに私利私欲がない(という設定)」のオーベルシュタインと、それなりの権門である秦檜では好かれる要素に違いがありすぎだと思います。
「自ら死間になってもいい」とまで言ってのけるオーベルシュタインと、捕虜になった金から結構いい待遇で帰ってきた秦檜では、やっぱり自己犠牲の度合いがかなり違うと思います。
「秦檜の評価がどれも一緒なのが気に入らない」との事ですが、歴史上「悪人」の評価で固まってる人は他にもいるでしょうし、変に野党精神を発揮しなくてもいいのでは?
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- board1 - No.1201
RE.1197
- 投稿者:石井由助
- 1999年05月08日(土) 18時45分
>「私の創竜伝考察シリーズ」が批判に傾いてしまっているのは確かです。しかも6巻以降はストーリーもおかしくなっているのでツッコむところが多いし……。どうも私のシリーズの弾劾論調が、このサイトを「アングラ右翼サイト」とみなされてしまう原因のひとつになっているような気もしますから、私も少し反省しなければなりませんね。
「私の創竜伝考察シリーズ」自体は非常に意義のあるものだと思うのですが、ボリュームがありすぎるために、失礼ながら一つ一つの批評の質が散漫になっている面も否定できないと思います。
別にタイムリミットがあるわけでもないですし、ここはひとつひとつ各個撃破で丁寧に片づけていったらどうでしょうか?
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- board1 - No.1202
久しぶりに見て
- 投稿者:satoko
- 1999年05月09日(日) 05時00分
おひさしぶりです。以前少し書かしていただいたsatokoです。久しぶりにここに来て、随分落ち着いた論調になっていたのに驚きと共に嬉しさを感じてます。
実は私もここであんまりに偏った思想、揚げ足取りではないか(武器がどうのこうのとか、左翼であるとか)と思われる書き方に辟易して少しの間こなかったのですが、俺様ランチさんや管理人さんの冷静な助言で本当に読みやすくなりました。これなら、他の田中ファンにも進める事ができると思います。
ですのでこの間かきたかった質問意見を遅くなりましたが書かしていただきます。
その1、なぜ批判するべきが田中芳樹氏なのか?
この間のレスで聞きたかったのは、「小説や漫画以上に影響を与えるものはない。」という主張の石井さんに「なぜ、田中芳樹氏や小林よしのり氏以上に影響力を与えない、与える力がない思想家に対して批判の目を抜けないのか。」という事です。私は田中氏、小林氏はあくまで大衆娯楽の創作者という認識を超す事はありません。(これで田中ファンの人に誤解されたので書いとくと、そのことと私が田中作品が面白いと感じているかはまったく別問題です。)にもかかわらず、というか娯楽ものには娯楽もののエンターテイメントがあり、思っている以上にオーバーに書く事は当然あると思いますし、それがわからないほど、現代の読者はばかではないと思うんです。ですから、それほどオーバーに田中氏を批判する必要はないのではないでしょうか。
その2批判、批評者たるに徹しすぎて文章を読み取れてないのではないだろうか。
これはこのHPにはじめてきた時に一番に感じたものです。「このHPの人は言葉はよく知ってるが、文を読むという事は知らないのではないだろうか。」これは率直な感想です。例を出してみると、メイン文の6の所に「非国民という醜悪な言葉を・・・、万葉集の時代にも・・・(以下省略)」の部分で「この時代の国に対する認識が・・・。」云々とかかれていましたが、あれは普通に読めばただの比喩である事が分かるはずです。「非国民」という「醜悪な言葉」に対して「万葉集」や「平家物語」という日本文学の中でも高尚とされている文学を「高尚な言葉」という比較の言葉として使っているに過ぎません。あそこを普通に読んで、あんなふうに感じる読者は多少なり歪んだとらえ方を、または率直に取りすぎていると感じます。批評者が「じゃあ、変わりに小説を書いてみろ。」などと下らぬ事を言われる事がありますがそんな必要はないです。が、比喩やその他のそこに込められた技術を見抜けぬ人が「自分は批判者ではなく、批評者だ。」といっても私には納得はできません。特に田中作品にはそういった技術が使われている事がおおく、それを最初から穴を見つけてやろうと思って読めばつくべきところは多くあります。ですが、そこを突けばつくほど、田中ファンは「何をくだらない事を。」と失笑してここでの批評から離れていくと思います。せっかくいい意見もあるのに。
その3田中氏と小林氏の比較などまったく意味のない事である。
「参考文献を出してる分、小林氏の方が田中氏より真摯で・・・。」らしき言葉を何度かみかけましたが、まったく無駄な事です。なぜなら、田中作品の中にある政治評はいうなら小説の中のエッセンスに過ぎません(それが行き過ぎとかはこれとは別問題である)「創竜伝」を例に取るならば、竜堂兄弟は国家権力に何度も危険な目にあわされているわけで、それに対していわゆる反発や嫌悪感を感じて当然なわけです。その雰囲気を更に醸し出す部分で使われているのです。ですから、フィクションで当然ですしその事を責められるものではありません。ひるがえって小林氏の「ゴー宣」などは読者に対する告発、問題定義を目的としているものです。これが参考文献を出すのは当然の事では?少し話がそれた気がしますが、田中氏と小林氏では、まったく使っている目的が違い、うまい表現はできませんが絵本と政治論文を比較して批判しているような感を否めません。
その4 田中作品少女趣味について(笑)
ここに来ていらっしゃる方はほとんど男性のようなので、おそらくコバルト文庫など読まれた事はないのでしょうが、これを読んだ後もう一度意見を聞いてみたいです(笑)コバルト文庫ではきゃら作りの神様といっていいだろう(笑)藤本ひとみがコバルトから離れた時、すばらしい女流作家である事を考えた場合、ケースバイケースが田中氏にも許容してあげてもいいんじゃないかなと。まあ、これは女性ファンの戯言とおもっていただいていいのですが(笑)
相変わらずまずいぶんで理解しにくい所も多々あると思いますが、おっしゃってくださいましたらもう一度書き込みますのでよろしくお願いします。
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- board1 - No.1203
何だかなぁ、トホホ
- 投稿者:仕立て屋
- 1999年05月09日(日) 07時52分
いままでの苦労はなんだったのか、、、、
いろんな方々が論理的に論じてきたのは無意味だったのか、、やはり、万人に通ずる意見の出し方って難しいのだなぁ。
卑怯な書き方をしたが、理由を説明するのもだるいので、荒らしと判断されましたら削除されたし。
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- board1 - No.1204
そんなの当然じゃないですか。
- 投稿者:satoko
- 1999年05月09日(日) 09時43分
仕立て屋さんへ
「万人に理解してもらうの意見を言うのは難しい・・・。」なんて当然です。私だって下に書いた意見で皆さんに納得してもらうつもりはないし。でもそこから、さらに相手を完全にとは言わなくとも、理解を示してもらえるよう努力するからこそ、進歩があるのでは?
「理由も書くのもたるい」とのことですが、おそらく私の意見を読んでのことでしょうが、もしこのまま、理由を書かずにこのままにしていれば少なくとも私はこれから先のあなたの意見に正当性を感じる事はできません。このページのほかの人に感じる(たとえそれが腹立たしいものだとしても)誠意を、あなたに見出す事はできなくなるでしょう。
他の人が積み上げてきた理論云々ほど、他の人に失礼な話はないと思います。他の方がここまで積み上げてきた理論をばかにしてるのはあなたのその投稿では?別に腹立たしく思ったりするのはかまわない事と思いますが、あきれ気味にこたえるというのは普通に考えて、礼儀知らずだといわれても仕方ない事はわかっていただけると思います。
雑文ですいませんでした。
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- board1 - No.1205
レス
- 投稿者:仕立て屋
- 1999年05月09日(日) 13時36分
礼儀知らずととられたのでしたらかまいません、そのつもりで発言したのですから。
まず、ここでの話題や批判の対象が田中氏中心になるのは当然であります。なぜなら、このホームページの趣旨を読んでいただければ、ご理解いただけると存じます。そこを踏まえた上で以下、わたしの意見を述べます。
そもそも、作家に対する批判、批評というのは、その作品自体は当然としてその作品に対する作家の姿勢もまた対象となりましょう。
なぜ、小林氏の姿勢が真摯であって田中氏がそう受け止められないのか。作家とは執筆をなりわいとしているのですからその作品のジャンルの如何にかかわらず、それらに対する反動をもすべて引受ける位の覚悟が必要です。小林氏が己の基本姿勢を明確にし、自らの作品に対するレスポンスを引受けようとしている一方で、田中氏の場合はフィクションを歌うかぎりそれらから免責されるのです(故意でなくとも)。
たしかに物語のメインを飾るための要素としての政治批評もあるでしょう。しかしながら、そのとき気を付けるべきはそのエッセンスに不偏性がなければならないということです。でなければ万人受けは不可能であります。創竜伝においては明らかにある種の政治姿勢にたって政治批評がなされているのですから(ましてや実例を-出典の不明な-)、それと異なる政治的立場の人間から批判を受けるのは当然です。このような場合、その作品はフィクションを越えて政治評論の色を帯びてしまうのです。フィクションを歌う限りはそんな意見は封殺されてしまいます。ここに作家の作品に対する姿勢が現れるのではないでしょうか。あなたは、
>参考文献を出してる分、小林氏の方が田中氏より真摯で・・・。」らしき言葉を何度かみかけましたが、ま
ったく無駄な事です。なぜなら、田中作品の中にある政治評はいうなら小説の中のエッセンスに過ぎません
(それが行き過ぎとかはこれとは別問題である)
"別問題"とおっしゃいましたが、それこそが重要なことであるのに(そして、それに対する意見が述べられてきたのです)、"無駄"のひと言で切って捨てておいでになります。わたしが、失礼なレスをしたのもそのためです。フィクションと断りを入れられた瞬間から(あなたの発言にもありますが)、わたしは口を閉じざるをえません。
わたしが先の発言で"万人に通ずる意見を論じるのは難しい、云々"と述べましたのは、俺様ランチさんらが提言された昨今の特定の立場にのみ受けるような発言が幅をきかしているという言葉の趣旨を受けての発言であって、単に異論の持ち主を論破するのが難しいと言った訳ではありません。
たしかに武器の記述など舞台設定の不備などをもって一方的に田中作品を切るのは、木を見て森を見ずかもしれないが(これは田中氏の作品に対する姿勢として別に批判の対象となりうるが)、あなたが問題としている部分においては決して不偏性のない内輪うけのみに終止した論とは言えないでしょう。相手の意見に反論する場合、相手の論旨を正確につかんだ上で(&このホームページの趣旨を踏まえた上で)、行っていただきたいと存じます。
長々と失礼いたしました。
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- board1 - No.1206
仕立て屋さんへ
- 投稿者:satoko
- 1999年05月09日(日) 14時51分
なるほど理解できました。私の文がまずいために大きく誤解をさせてしまったようで、反論させていただきます。私があのなかで書いた。「行き過ぎであるとかと別問題である」という記述に関して、「無駄な事だ」と判断されたようですが、それは私の文の悪さもあるでしょうが、違います。行き過ぎである部分に関するここでの討論は、私はどちらかといわれれば田中信者と言ってもよい方だと思いますが、納得する所も多くすばらしいものだと思います。その点は私が知ってるほかの田中ファンの多くが認める所であり、私ももっと面白い討論などを期待しているくらいです。ですが、私があそこで書いたのは「田中氏の作品は小説である。その内容を批判するのはわかるとして、なぜ小林氏と比べる必要があるのか。」ただ一点のみであり、あそこで言う「別問題」とはその内容を切り離して考えてほしい、というものです。でなければ、「行き過ぎだから批判してるんだ。」で終わりですから。
ですが、一田中ファンとしてみてみればそれは納得しうる解答だとは思いません。私も「創竜伝」の中にある田中政治論的な部分はストーリーを混乱させる部分は多々あると思うし、そこを批判されても、まあ沿うかなと思いますが、批判の中にジャンルが違う人を比較に出して真摯であるかどうかという事を問うのは、田中ファンに楔を打ち込むという目的であるこのHPにあって、田中ファンがあきれる事のない記述ではないと少なくとも私は思う。
それでもなお、理解できないというなら私はあなたに対して何も言う事はできません。すくなくとも、私という田中ファンにはあなたが楔を打ち込む事はできなかった、そういう事になるだけの事ですから。
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- board1 - No.1207
ですから、論旨を汲んでください
- 投稿者:仕立て屋
- 1999年05月09日(日) 16時20分
satokoさんへ
わたくしは全然、誤解などしておりません。ゴー宣と創竜伝が別ジャンルだということも理解しております(satokoさんの文脈上の別問題の使い方は明らかにそう取れませんが、文章全体からそのように理解しております)。その上で申し上げているのです。作家は書きたいものをまず、明らかにすべきです。その際、おのずとどのような体裁を取ればよいかきまるものでしょう。ゴー宣はあなたのおっしゃるとおり問題提起なのですからあのような形になったのですし。そのときギャグ漫画が描きたいのなら”おぼっちゃまくん”のような形態をとるでしょう。つまり、どのような場合でも作品に取り組む際はその姿勢をはっきりさせるべきなのです。一方、創竜伝はどうでしょうか。ファンタジー活劇があれほどまでに(実世界でも問題になったような事柄を例に挙げて)政治偏重するのはいかがなものでしょうか。わたしも実は8巻まで創竜伝を購読していますし、1巻目はそれなりに楽しく読みました(途中で、中国神話に突然切り替わったときにあれっと思いましたが)。全体的にはファンタジーと取れますが、現実世界の事柄を主に挿入されていますし、なかには同じ日本人として腹立たしい内容のものも(繰り返し申し上げます。普遍性があれば、ファンタジーとしてキャラに感情移入できるのです。あのように現実世界とオーバーラップされるとどうも、、名作、銀英伝にも政治的発言はありますが、それらには普遍性があります)あります。そこで、思うのです。どっちかにしてくれよ、せっかく楽しく読んでたのに、という具合に。それでもこの作品はフィクションという枠をもちいています。田中氏はどちらかはっきりすべきです。反論しようにもフィクションである限り、対象が曖昧になってしまってしまうのです。この場合、作品の内容をある部分破錠させる要素としての政治批評としか批判できなくなります。このような意味で小林氏と田中氏を比べているのですよ。”作品に取り組む際の真摯さ”ですね。
>それでもなお、理解できないというなら私はあなたに対して何も言う事はできません。すくなくとも、私という田中ファンにはあなたが楔を打ち込む事はできなかった、そういう事になるだけの事ですから。
こういう言い方はいかがなものでしょうか。これでは、価値観の相違で終わってしまいます。上記にあるとおり、あなたの論旨はつかんだ上で申し上げているのです。わたしもある意味、田中ファンですよ。もう少し、相手の論旨を汲んだ上でのレスを期待いたします。
>「理由も書くのもたるい」とのことですが、おそらく私の意見を読んでのことでしょうが、もしこのまま、理由を書かずにこのままにしていれば少なくとも私はこれから先のあなたの意見に正当性を感じる事はできません。
(中略)
>他の人が積み上げてきた理論云々ほど、他の人に失礼な話はないと思います。他の方がここまで積み上げてきた理論をばかにしてるのはあなたのその投稿では?
ひとつのことであなたがこれからなされるであろう発言を決め付けることはいたしませんし、そのような権限をわたしは持ちません。ただ、刺激を求める身として、僭越ながら、これからもあなたの、レス、ご意見、期待しております。
ところで、あたなたの上記発言の中略以降、論理的にご説明いただけませんか?よくわからないもので、、、。
これにて失礼。
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- board1 - No.1208
いち「銀英伝」ファンの感想 6
- 投稿者:Merkatz
- 1999年05月09日(日) 21時19分
あ、あ、あんまりだぁ。小早川奈津子!
私は名前から「美しい若い女性」を想像していたのに、あんなコメディホラーに出てくるようなキャラなんて・・・(勝手に想像する方が悪いって?そりゃごもっとも)。
「創竜伝」7巻は、こうして大ショックを受ける事からはじまった。
今まで私は創竜伝の社会批評に言及することは避けてきました。
冒険風ライダーさんをはじめ、皆さんが鋭いご指摘をなさっていらっしゃる。そこに私のような素人が口を挟むこともあるまいと思ったので。
ですが7巻は本当に頭に来ました。今までの中で一番酷いと感じた。ですから今回はひとつだけ言わせてもらいたい。
(以下の本文からの抜粋は適宜編集しております)
177ページ「中国はアヘン戦争以来、滅びる滅びると言われながら今日まで健在だ。政府なり国家なりが形としてなくなってしまっても、中国それ自体は立派に生き残るさ」
・・・あれだけ日本は滅びる、この世から消えてなくなると書きなぐっている人の、同じ文章とは思えません。
日本は政府の消滅=日本国土の消滅となっても、中国はそうならないという根拠は何なのですか?日本だって「政府がなくなっても日本それ自体は生き残る」といえるのではありませんか?
中国大好きというのはかまいませんが、だからといって自分の故国を貶めるその精神構造は歪んでいるとしか言いようがありません。
だいたいあなたの大嫌いな日本あってこそ、印税を稼ぐことが出来るのですから、無くなって一番困るのはあなた自身なのではありませんか。
7巻は中国礼賛で塗り固められていますね。「北朝鮮は地上の楽園」という記事や文革礼賛と同類というわけですか。道理で頭にきた筈だ。
一転して8巻はいつもの創竜伝に戻ってますね。時間が過去と現在を行き来するので、なんか分かりずらい構成になってます。「仙界」なるものが登場して、ますます荒唐無稽になってきた感があります。
これ、どうやって結末を出すつもりなんだろうか?
個人的には路線変更して「小早川奈津子対竜堂兄弟」でやってほしいなあ。だって面白いんだもん、小早川奈津子。
コメディホラーの乗りでなかなかいけてると思うけどなあ。現代コメディホラー「大怪獣小早川奈津子対竜人竜堂兄弟」。うーん、これじゃ誰も買わないか(^^)。
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- board1 - No.1209
私見
- 投稿者:Merkatz
- 1999年05月09日(日) 21時55分
このサイトの意味やスタンスについてずいぶん論じられてますね。
「右傾化」という非難は仕方ないかなと思います。だって批判対象たる田中芳樹が「極左傾化」してますから、それに対する批判は自然と「右傾化」せざるをえないでしょう。
しかしそんな中でもレッテル貼りは行われてなかったと、私は思うんですけど。皆さんの批判は常に論理的で「左翼だからダメ」のような切捨ては全然なかったと思います。
それにこのサイトが新規読者の獲得に実績を上げているのは事実ですし。私がその証拠。ここのサイトに来なかったら、絶対創竜伝なんて読んでませんよ。
ここでいろいろ批判されていたから、いっちょ読んでみるか、という気になったんです。次は馬ネタで盛り上がった「アルスラーン」も読んでみたいと思ってますし。
確かに非常に細かいことまで突っ込んでいるんで、ファンの人から見れば「だから何?」と思うのも無理はないとも思いますが、「創竜伝」に限って言えば、社会批評が作品としての構成をぶち壊しているのが問題なのであって、ここの人たちは常にそれを前提として論じてきたはずです。
ですからファンの人たちもそこのところを理解してほしいと思います。ここの人たちは(自分も含めて)重箱の隅をつついて喜んでいるのではなく、田中作品のこういう所が作品の面白さを削いでいるぞと言いたいのです。
それを指摘するのに作者の思想にまで言及せねばならないところに、小説に社会批評を混ぜ込んだ「創竜伝」の業の深さがあると思うのですが。
管理人さんの「レッテル貼りはやめよう」との提言ですが、私は何のために批判を行っているのかを明らかにするほうが重要だと思います。
常連さんにとっては「社会批評が作品構成をぶち壊している」というのは暗黙の了解であっても、ここに初めて来るファンにとってはそうではありません。
ですから「こうこうこうだから、これが作品をくだらなくしている」「ああだから作者の誠意が感じられない」という風に、その批判対象が作品に及ぼしている影響を言及するほうが良いのではないでしょうか。
思想批判でとどめるのではなく、それが結果として作品に悪影響を与えているよと付け加えたほうが良いと、私は思うのです。
と言いながら自分の下の投稿は失敗してるなあ(^^;)。
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- board1 - No.1210
自分の言葉ではなしてみようと思います。
- 投稿者:satoko
- 1999年05月10日(月) 05時14分
どうも、カッコつけて難しい言葉で話そうとして誤解を招くようなので、ふつ~の話し方で書いてみよと思います。
Merkatzさんのご意見すごくわかりやすくて、ふむふむと思いながら読んでました。(^^)
そこを踏まえた上で、一つ言いたくて書いてます。実は私が前に書いた意見で、「なぜ田中芳樹なのか。」という事に関しておそらく「極左翼化してるからだ。」という答えが返ってくるだろうと思ってました。でそこから言いたかったのは、ここでは少し誇大に田中氏を評価(?)しすぎてないかな~。という本音です。
私の友達の「田中信者」(この表現笑える)は「田中作品に対する批判がある。」それだけで許せないようです。だから私が「田中中国小説きら~い。」とか言うだけでもまじきれになっちゃいます。その子に無理矢理うちに遊びに来た時このHPを見せました(冗談で)。いらいらしているようでしたが、メイン文の途中までは「悔しいけど、そうかも・・・。」といっていたのが、「小説なら許される」の項を読んだ瞬間に壊れました(笑=こんなにあてはまる言葉はないと思うくらい)「こんなHPぶっつぶしてやる~!!」と言い出した彼女を私と彼女の彼氏でなだめても(それも冗談半分だったけど)「こんなくされいけんに誰が共感するか~!」の一点張りでした。
途中まではほんとにちゃんと読んでたんです。なのに、あまりに露骨ないやみによってそれ以外の本当に共感できる意見が消されてしまったのです。
私はここでの議論で田中氏の記述が左翼よりなものに関して、右翼的な意見に傾くのは当然だと思います。それは同じ意見です。ですが、ここで書かれている田中像が本当に正しいものでしょうか?どうも私にはあまりに極端に田中像を作り上げているのではないかなと、それを見るとなんだか、その意見に説得力なく感じるようになるんです。
もちろん、ここのHPがただたんにみんなで悪口いお~ぜ~、とか、田中ファンでも理解できないやつはほっときゃいい。という目的のものであれば別にかまわないかな~と思いますが、ここは論議を目的にしている場と感じられるし、石井さんをはじめとして「理解してもらおう。」という誠意を感じるとてもよいHPだと思います。だから、読みたくない人に無理に読ませるのは私の友達だけとして(笑)いろいろな面から見てみたいというファンが、抵抗ない、少なくとも、理論をよむきもしないなどとなり得るような所ははずしてもいいんじゃないかと思います。
そういう意味で「田中は極左だ!」とか言う表現じゃなく「こうこうこういうとこから、田中氏の考えがおかしい。」という表現になった方がいいんじゃないかなと感じるので、多分管理人さんやその他の人が言ってたのも「右翼的な意見はいうな。」というものじゃなく、「極端に田中氏を左翼扱いするのはやめよう、理論的に責めていこう。」というものだったのかなという気がします、違うかもしれないですが。そんなんわかってるよ、ってかんじたらごめんなさいねm(--)m、とりあえず、以前来た時、田中氏がまるで悪の権化か、ただの変態か(笑)といわんばかりの掲示板での書き込みがあったこともあって確かに理論的に話してくださってる人もいるが、そういう幼稚な人もいて辟易した田中ファンが「下らん」として離れていった人がいる事からかんがえて、あの忠告は軌道修正するのにすごくいい事だったんじゃないかなと思います。
それでは雑文ですいませんでした。仕立てやさんへのレスはもう少し冷静になってから書く事にします。
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- board1 - No.1211
そうですね
- 投稿者:仕立て屋
- 1999年05月10日(月) 08時20分
>常連さんにとっては「社会批評が作品構成をぶち壊している」というのは暗黙の了解であっても、ここに初めて来るファンにとってはそうではありません。
そうですね。わたしもそれには同意します。ただ、わたしが1203発言においてあのような失礼な物言いをしたかと申しますと、satokoさんが1202の発言の冒頭にて以前にも発言された、云々とご発言されていたのを受けて、ああ、一応は創竜伝における田中氏の真摯さの欠如の項を(この掲示板の初期に論じられているので)お読みになってるのだ、それを踏まえた上でさえあのようなの発言(1202のその3)をされるのか、ああ、むずかしや~~~と感じたからです。
もう少し、寛容さがひつようでした(ちょっとえらそうか?失礼)。
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- board1 - No.1212
RE1200
- 投稿者:冒険風ライダー
- 1999年05月10日(月) 11時49分
<謝罪外交の是非を論ずると話がかなりズレるのでやめますが、当時の南宋と現代日本では状況がまったく違うと思います。南宋は「侵略された国」であってそもそも金に臣下の礼をとる必要が無いのですが、日本はあくまで「侵略(進出でもいいですが)した国」であって、謝罪したところで全くの筋違いではないと思います。
ここで言いたいのは謝罪外交の正否ではなく、あくまで「南宋と現代日本の状況を同じとみる事に無理がないか」という事です。>
まず、謝罪外交と秦檜の外交は、表面的には両者とも屈辱外交であるという共通点があります。そして、「必要が無い」という点では謝罪外交の方がさらに必要性がありません。南宋の場合は、「国の存続」があったために仕方なく「名を捨てて実を取る」外交をしたと解釈できますが、謝罪外交は「名も実も丸ごと捨てたあげく、日本を貶めただけ」の外交でしかないのです。両者は確かに同列には扱えないでしょうけど、外交の例として見比べてみれば、謝罪外交の愚かさが分かるという意味で私はこの2つを一緒に並べて見ていました。だいたい「過去の戦争責任」なるシロモノは、すでに日本はサンフランシスコ平和条約や日中平和友好条約などですでに清算されているのに、なぜ今更罪を蒸し返されて謝らなければならないのですか?
それから、謝罪外交を論ずるのに、「状況がまったく違う」という事を考慮する必要は全くありません。なぜなら謝罪外交とは「現在の価値観をもって過去を裁き、その子孫が謝罪する」という、歴史を冒涜するものであるからです。この論理を使えば、現在の価値観によって岳飛を「右翼の軍国主義者」「大量虐殺者」と断罪できますし、秦檜を「平和の使徒」と礼賛できます。田中芳樹だって中国史でこんな見方をされれば、「現在の価値観でなぜ歴史上の人物を評価するのだ!」と主張するはずです。しかし田中芳樹が創竜伝で展開している日本の歴史評論では、まさに「現在の価値観をもって過去を裁」くという事をやっています(特に戦前)。大好きな中国では比較的まともに歴史評価している(ただし岳飛と秦檜だけは例外)田中芳樹が、なぜ日本の謝罪外交の愚かさに気づかないのか、私は不思議でなりません。
謝罪外交は、創竜伝と田中芳樹を論ずる時に非常に重要な問題だと私は感じていますので、「私の創竜伝考察シリーズ」でも取り上げてみようと思います。そのときに完全な答えを提出する事にしましょう。
<オーベルシュタインと秦檜は確かに両者とも「嫌われる正論家」であったかも知れませんが、「嫌味なまでに私利私欲がない(という設定)」のオーベルシュタインと、それなりの権門である秦檜では好かれる要素に違いがありすぎだと思います。
「自ら死間になってもいい」とまで言ってのけるオーベルシュタインと、捕虜になった金から結構いい待遇で帰ってきた秦檜では、やっぱり自己犠牲の度合いがかなり違うと思います。>
オーベルシュタインも、銀英伝1巻でイゼルローン要塞から「たった一人で悠々と」帰還していましたし、ラインハルトに取り入って自己の安全を確保しています。また、キルヒアイスを間接的に殺したのはオーベルシュタインですし、ローエングラム王朝が成立した時には軍務尚書(←これはかなりの権門でしょう)に収まっています。もし彼を、「銀英伝の後世の歴史家」が評したら、意外に秦檜と同じような評価になってしまう可能性も充分にあります。現に「彼に否定的な歴史家」が、ロイエンタールが死んだ時に「血塗らずして対立者を葬り去った」などと評していますし。
後世の人間にとって、オーベルシュタインに私利私欲があったのかどうかを判断する材料は歴史書しかありません。上記の行動を見て、オーベルシュタインに私利私欲や権力欲がなかったと評する事ができますか? そりゃ銀英伝読者や作品中の人間ならば知っていたでしょうけど、「後世の歴史家」が完全に知る事ができたかというと……。
これと同じことが秦檜にも当てはまるのではないでしょうか?
<「秦檜の評価がどれも一緒なのが気に入らない」との事ですが、歴史上「悪人」の評価で固まってる人は他にもいるでしょうし、変に野党精神を発揮しなくてもいいのでは?>
「悪人」の評価で固まっている人を、別の視点から改めて評価するということも私は重要なものであると考えています。「創竜伝」や「紅塵」における田中芳樹のように「ただ礼賛するだけ」「ただ否定するだけ」では何も分かりはしません。そう考えたからこそ、あえて「野党精神」なるものを発揮したのですけど。
あなたもここのHPが「田中芳樹批判1色」になってしまったら気味が悪いでしょう? それと同じ事だと考えてください。
それと論争を始めてからかなり応酬がありましたし、お互いに考え方が理解できたと思いますので、そろそろ論争を終わらせたいと思いますが、いかがでしょうか。