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- board1 - No.1214
satokoさんへのレス
- 投稿者:本ページ管理人
- 1999年05月10日(月) 14時46分
>これなら、他の田中ファンにも進める事ができると思います。
ありがとうございます。もっとファンの方々の声も聞いてみたいと思っています。
それでは、以下からは質問について答えたいと思います。
>その1、なぜ批判するべきが田中芳樹氏なのか?
これについての主な説明は前回行ったと思うので、今回は思想家について述べます。
確かに有効な言説の伝え方を模索せず、狭い世界で旧態依然としている論壇には批判される部分があります。しかし、「知識人の本は力作であれば力作であるほど難解になって売れにくい」と今回のゴー宣が喝破しているように、原理的に大衆社会に於いては知識人は影響力で小説家や漫画家に勝ちようがありません。
「竹槍で戦っている論壇村に核兵器を持ち込んだようなもの」と民俗学者の大月隆寛氏がゴーマニズム宣言を評しましたが、この言葉は論壇とエンターテイメントの関係を端的に表している比喩だと思います。この言葉には「それだけ桁違いの影響力があるのだから、自分の力をよく認識して自律してくれ」というニュアンスもあるのですが、田中氏はこの点に於いてあまりにも無自覚にやりすぎたと思っています。
>その3田中氏と小林氏の比較などまったく意味のない事である
ゴー宣がらみの話になったので、ちょっと順番を変えてお答えします。
まず、「参考文献を出してる分、小林氏の方が田中氏より真摯で…」とありますが、「『この作品はフィクションであり実在の人物団体うんぬんとは関係ありません』という評論としての責任逃れの一文を入れてない分、小林氏の方が田中氏より真摯で…」という趣旨のことならば私も述べたと思いますし、掲示板でも出てきたと思います。もちろん、創作小説である以上は、「この作品はフィクション…」という断りを入れること自体は、当然のことです。ですから、創竜伝でも首相や保守の政治家を愚劣に描くことは小説として許されると思います。ですが、創竜伝中にはリクルート事件や大韓航空爆破事件などの実在の事件やマハティール氏など実在の人物に対する明確な評論が存在します。たとえば、全くストーリーに関係のないところで明確にマハティール氏と判る記述に対して「独裁者で反民主的だから言うことを聞く必要はない」と評論しておいて、「これはフィクションだから」ということは卑怯であり、小説という表現技法を隠れ蓑にしていることで小説を貶めていると思うのです。もちろん、マハティール氏が独裁者で反民主的という主張を持つこと自体は結構なことです。その主張に自信があるのなら、「フィクション」である創作小説と一緒にせず「現実の」評論として語ればいいのですし、風刺というのなら「超能力兄弟が悪の財閥と戦う活劇」がテーマの小説の中にわざとらしく入れるのではなく、明確に風刺をテーマにした小説を書けばいいのです。
閑話休題。
少々話題がずれましたが、私も田中氏と小林氏の比較にとりたてて意味があるとは思いません。ただ、まったく無意味とは思いませんし、比較するというのであれば、以上の理由から小林氏の方が自分の発言に責任を持っていると考えます。
>その2批判、批評者たるに徹しすぎて文章を読み取れてないのではないだろうか。
>メイン文の6の所に「非国民という醜悪な言葉を・・・、万葉集の時代にも・・・(以下省略)」の部分
ですが、今読み返してみるとマズい文章だと思います。この点に関しては、自分の未熟さを恥じます。ですが、内容に関しては、今でも恥じるところのないものであると自負しています。
>あれは普通に読めばただの比喩である事が分かるはずです。
とのことですが、非国民という言葉の発生起源を考えれば、これに「万葉集」や「平家物語」を対置することはあまりにも不適切です。「比喩やその他のそこに込められた技術」として問題があると言われかねない記述だと思います。
>その4田中作品少女趣味について(笑)
については少々答えに窮しますが(^_^;)、ライトノベルであると言うことに関しては、「アルスラーン」と「創竜伝」(共にライトノベルであっても評価が違う)の差、とだけお答えしておきます。
>私の友達の「田中信者」(この表現笑える)は「田中作品に対する批判がある。」それだけで許せないようです。だから私が「田中中国小説きら~い。」とか言うだけでもまじきれになっちゃいます。その子に無理矢理うちに遊びに来た時このHPを見せました(冗談で)。いらいらしているようでしたが、メイン文の途中までは「悔しいけど、そうかも・・・。」といっていたのが、「小説なら許される」の項を読んだ瞬間に壊れました(笑=こんなにあてはまる言葉はないと思うくらい)「こんなHPぶっつぶしてやる~!!」と言い出した彼女を私と彼女の彼氏でなだめても(それも冗談半分だったけど)「こんなくされいけんに誰が共感するか~!」の一点張りでした。
>
>途中まではほんとにちゃんと読んでたんです。なのに、あまりに露骨ないやみによってそれ以外の本当に共感できる意見が消されてしまったのです。
しかし、強烈なインパクトは間違いなく残せたのではないでしょうか(笑)。であれば、このHPはその友人の心に楔を打ち込めたと思います。
私も、田中芳樹の盲目的ファンであった時代には、田中氏の理論を論破するような理論に対して同じような反応をしていたと思いますし、そのような理論は不愉快でした。しかし、その不愉快さが心のモヤモヤとして残って忘れられなかったからこそ、常にそれに対する反論を考え、それが不可能ということになったとき、それが田中芳樹の姿勢に疑問を抱く契機となったのです。
satokoさんの友人に関しては、今現在は熱狂しておられるようなので、今このサイトを読んでもらうことは無理かも知れません。しかし、多少なりとも冷静になったときに(いつかは必ずそういう日が来ます)、このサイトは自分があれだけ熱狂した田中芳樹とは何だったのかということを考える参考になるのではないかと思います。
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- board1 - No.1215
脳天気なヤン・ウェンリー
- 投稿者:不沈戦艦
- 1999年05月10日(月) 15時41分
しばらく見ているだけで、書いてはいなかったんですが、何だか殺伐とした雰囲気が無きにしもあらず、といったところですね。たまには銀英伝の話でも出しましょうか?喧嘩ネタではないですし。
ヤンが一巻で「要するに私の希望は、この先何十年かの平和なんだ」とイゼルローン攻略作戦についてもっとも重要な役割をシェーンコップに頼む場面があります。はて、これはヤンらしくもない、希望的観測もいいところじゃないですかね?
というのは、このイゼルローン攻略作戦が成功して、同盟軍がイゼルローン回廊を制圧したとして、その後に銀河帝国政府が同盟との和平など望むか?といった点に関しての考察がきれいさっぱり欠けているからです。
ここで色々な方と意見の交換をした結果、少なく見積もっても銀河帝国の国力は同盟の2倍はあります。また、政治体制は皇帝と宮廷貴族による専制君主制で、民衆の意見が反映されるものではありません。そんな中で、一時的でも戦争を止める決断ができるのでしょうか?皇帝や貴族にとっては、「反乱軍どもを懲罰する為の戦争」であって、そもそも同盟が対等な敵手である、という意識すらないでしょう。仮に相手を対等と思っていたとしても、建前を崩して「反乱軍ではなく対等な敵」扱いすることはできますまい。そんなことを言った途端、権力闘争のいい標的になること間違いありませんから。また、彼らにとっての経済的負担は問題にもならない程度でしょうし(問題になるのであれば、貴族が戦争反対を叫んで、戦争なんぞとっくの昔に終わっている筈)、近親者が戦死する可能性にしても、職業軍人の家系なら「武門の誉れ」と諦めるだろうし、そうでないのなら危険な前線に出ることはないでしょう。そうです。皇帝や貴族にとっては、戦争を止めるメリットなど全くないのですよ。その程度の事を、あれほどの智者であるヤンがなぜ解らないんでしょうか?
同盟は民主主義です。反戦派が選挙で勝って政権を握る、という可能性はない訳ではありません。そうなれば、和平を銀河帝国に持ちかけることも充分可能でしょう。しかし、相手が受け入れる可能性がほとんどないのでは、無意味ではないですかね。また、それがあるからこそ、同盟の国民も戦争を支持せざるを得ないのではないでしょうか。「帝国に負けたら民主主義は消滅する」のですから。どうも、この辺のヤンの考え方には、「こちらが和平を望めば、相手も受け入れる筈だ」という思いこみがあるような気がして仕方ありません。いわゆる、日本の「平和主義者」にありがちな考え方ですが。「自分たちがこれほど平和を願っているのだから、誠心誠意訴えればきっと通じる筈」というものです。実際は、誠意だけでは通じないのが国家間の交渉であったり、戦争であったりするのですがね。
結局、同盟が平和を得る為には、帝国を滅ぼすしかない訳です。相手には交戦を止める理由はないんですから。しかし実際には同盟の国力では不可能に近い。まあ、前に出した私案の「同盟軍、フェザーン侵攻」という反銀英伝ネタをやったらどうなるか解りませんけど。結局泥沼なれど、同盟は戦争を続けざるを得ないんですわ。しかも、後になってラインハルト・フォン・ローエングラムが権力闘争に勝って、更に事態は悪化しますし。ラインハルトの望みは「宇宙を我が手に」ですから、和平の働きかけなど無効です。この手の危険な権力者が出てきた場合の事を、ヤンは考えなかったんでしょうか?歴史家志望のなり損ないにしては、杜撰な思考だと思います。
えー、これは銀英伝の悪口のつもりはありませんので、異論・反論(ニュース23じゃないですが)いくらでも大歓迎です。言いたいことのある方は、存分にどうぞ。
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- board1 - No.1216
冒険風ライダーさんへ
- 投稿者:俺様ランチ
- 1999年05月10日(月) 16時03分
冒険風ライダーさんへ。
オーベルシュタインの1巻での行動、すっかり忘れてました。ですから私のオーベルシュタイン評、訂正しなきゃならない部分があると思います。そこは私が間違ってました。ただですね、この部分、
> 後世の人間にとって、オーベルシュタインに私利私欲があったのかどうかを判断する材料は歴史書しかありません。上記の行動を見て、オーベルシュタインに私利私欲や権力欲がなかったと評する事ができますか? そりゃ銀英伝読者や作品中の人間ならば知っていたでしょうけど、「後世の歴史家」が完全に知る事ができたかというと……。
ちょっと待って下さい。銀英伝をあなたは「後世の歴史家の視点」で読んでるんですか?小説の読者が作中の人物を評価するにあたっては「作品中の情報全て」を判断材料に使っていいと思います。「オーベルシュタインに私利私欲があったかどうかを判断する材料」は「後世の歴史家」はともかく、読者である我々は作品中の文章から得ているのです。それを判断材料に使って何が悪いのでしょうか?
別に田中作品に限ったことではありませんが、「小説のキャラを好き(嫌い)になる」かどうかの判断は「作中に客観的に表に現れる行動」にのみ影響されるのではありません。「そのキャラの行動と内面世界」を両方天秤にかけて、好き嫌いなり感情移入なりするのです。
小説でもマンガでも物語の「主人公格の人物」ってのは行動型の人間が多いですがその行動は「作中身近にいる第三者」にとっては迷惑でしかないという場合が多々あります。つまり「作中の第三者の立場」になっていたら、その作品の主要人物の魅力を正当に評価する事などできなくなってしまいます。
私もオーベルシュタインというキャラは嫌いでないですが、それはあくまでも「彼の内面」を読者という特権によって知っているからです。
「じゃあ秦檜の内面を知らずに彼を一方的に断罪しているのはどうなる」と返ってくるのでしょうが、それはちょっと違います。
「物語の人物を客観的な行動のみから評価」するのは「内面の情報まで与えられているのにそれを判断に活かさない」という理由で間違いなのですが、「歴史上の人物を客観的な行動のみから評価」するのは「内面の情報は判断材料にしたくてもできないため、客観的な行動からその内面を推し量るしかない」から「正しいのではなく仕方ない」のです。
以上、かなり長くなってしまいましたが、冒険風ライダーさんの小説を読む姿勢にちょっと疑問を感じたので、反論を述べてみました。
次にですね、
>「悪人」の評価で固まっている人を、別の視点から改めて評価するということも私は重要なものであると考えています。「創竜伝」や「紅塵」における田中芳樹のように「ただ礼賛するだけ」「ただ否定するだけ」では何も分かりはしません。
この部分、コレについてはもう歩み寄りは無理でしょう。私は前回「田中芳樹だって秦檜否定一点張りじゃないと思うよ」と書いたのですが、冒険風ライダーさんは「田中芳樹は秦檜についてこっぴどい否定しかしてない」という主張は譲れないようですね。だからこれはもうどうしようもないと思います。
で、冒険風ライダーさんが一番力を入れておられる「謝罪外交の罪」ですが、この部分を読んだ時は正直「最近の掲示板右傾化ネタを読んでくれたのか?」と思いました。
この謝罪外交批判部分こそが「昔田中芳樹ファン(銀英オンリーファン含む)で現在は思想がちょい右(あえてレッテル貼りします)っていう限られた範囲の人間以外には絶対に通じない(by管理人さん)」主張なのですよ。
そもそも私の述べた「南宋は「侵略された国」であり日本はあくまで「侵略(進出でもいいですが)した国」であって・・・」という文章を引用してくれているのに、引用へのレスではなくあなたの歴史観開陳に終わっています。それなら最初から私の文章など引用してくれなくていいです。
>謝罪外交は、創竜伝と田中芳樹を論ずる時に非常に重要な問題だと私は感じていますので、「私の創竜伝考察シリーズ」でも取り上げてみようと思います。そのときに完全な答えを提出する事にしましょう。
この図式がそもそも、多数に対する説得力を持ち得ない理由なのです。「田中芳樹社会評論」への批判は「田中芳樹は社会評論に力を入れすぎて物語部分がおざなりになり、それが創竜伝をつまらなくしている」に止めないと「誰でも納得する」ものにはなりません。そうじゃなければ「実在兵器の性能描写の誤り」や「経済学の知識無しに経済を論じているので文章が意味をなしてない」とか「思想的立場によって意見の分かれるものではない事柄の誤記」です。
おそらく「私の創竜伝批評」中では「謝罪外交の誤りを指摘→それを支持する田中芳樹の誤りを指摘→そんなダメ田中芳樹が書くダメ社会評論満載の創竜伝はダメ小説」と展開される事が予想されますが、それじゃあ絶対に一般にウケる田中芳樹批判はできないったらできないんですってば!
極端なたとえ話ですが、10年経って右も左も謝罪外交を評価しだしたらどうします?そしたら創竜伝は「先見の明のある社会評論が全てのすばらしい小説」になりますか? そうではないでしょう。たとえ謝罪外交支持が正しく「優れた社会評論満載」という評価になったとしても「実在兵器を取材もせずに適当に話を作った」という「罪」は残りますし「そもそもこの作家は経済がわかってないのに経済評論をした」という批判も残るでしょうし、そもそも「どれだけ立派な事を言ってるのかどうかは知らないがとにかくやたら説教臭くてエンターテインメントとして楽しくない」という読者は存在し続けるでしょう。
冒険風ライダーさんが、謝罪外交に対して憤りを感じている事はよっくわかりますが、それはこの掲示板でされるべき話題ではないと思います。そのような話題が盛り上がるようならこの掲示板は「昔田中芳樹ファン(銀英オンリーファン含む)で現在は思想がちょい右(あえてレッテル貼りします)っていう限られた範囲」の内輪ウケの場以上のものにはならないと思います。
この掲示板は思想闘争の場ではないんです。冒険風ライダーさんの書き込みを読んでいると、「この人は田中芳樹批判に名を借りた右のアジをやりたいだけなんじゃないか?」或いは「田中芳樹とは反対の立場での社会批判開陳を(田中芳樹がやってるように)やりたいんじゃないか?」と思えてしまってしょうがないんです。
冒険風ライダーさんには「左批判をよりどころにしない田中芳樹批判」をしてくれる事を切に望みます。「左的考えへの批判」によるレスはしてくれなくて構わないです。が、そうでない意見、反論なら大歓迎です。
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- board1 - No.1217
>脳天気なヤン・ウェンリー
- 投稿者:石井由助
- 1999年05月10日(月) 16時18分
> ヤンが一巻で「要するに私の希望は、この先何十年かの平和なんだ」とイゼルローン攻略作戦についてもっとも重要な役割をシェーンコップに頼む場面があります。はて、これはヤンらしくもない、希望的観測もいいところじゃないですかね?
>というのは、このイゼルローン攻略作戦が成功して、同盟軍がイゼルローン回廊を制圧したとして、その後に銀河帝国政府が同盟との和平など望むか?といった点に関しての考察がきれいさっぱり欠けているからです。
細かいニュアンスまで覚えていないので間違っているかも知れませんが、ヤンが望んだのは正式な和平ではなく、パワーバランスによる実質的な和平だったのではないでしょうか。
同盟がイゼルローンを手に入れることは、抑止力になりますから、帝国の大規模侵攻を防げる意味で暫定的な平和は希望できるのではないでしょうか。
核抑止論の平和が偽りの平和であっても現実に小競り合い以上のことを起こさなかったように。
まあ、結局ヤンの希望的観測というのは歴史的事実になってしまうわけですが。
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- board1 - No.1218
横レスですみません
- 投稿者:仕立て屋
- 1999年05月10日(月) 16時30分
横レスで申し訳ありませんが、一言(取り立てて意味はないけどね)。
>少々話題がずれましたが、私も田中氏と小林氏の比較にとりたてて意味があるとは思いません。ただ、まったく無意味とは思いませんし、比較するというのであれば、以上の理由から小林氏の方が自分の発言に責任を持っていると考えます。
こんな言い方は失礼であるかもしれませんが、ちょっと気になったものでお尋ねします。
これは一種のリップサービスですか?それとも本心からですか?たしかに、創竜伝における田中氏の姿勢を批判する際、何故その引き合いに小林氏を持ち出さなければならないのかと問われますと答えに窮します。ですが、管理人さんもご承知のとおり、件の田中氏の真摯さの欠如を論じていたのは、ちょうど小林氏の著書(戦争論など)が話題になっていた頃合であったわけで、その流れの中で小林氏が対極者として引き出されてきたのではないでしょうか。そこには別段、右翼的意図があったようには思えません。で、小林氏のことを考えてみると、彼はゴー宣や戦争論の類を描くまでは、おぼっちゃまくんなど(すみません、お気に入りなもので)ギャグ漫画主体でしたよね?そこから社会評論の類に切り替えたとき、本人も作品の中で言ってるわけですよ、”己の身を正す”と。”次やりたいもの”はフィクションという表現形式を採っているわけにはいかないと(←これはわたしの解釈です、あしからず)。
小林氏も元々は田中氏同様、純粋にエンターテイメント主体の作家だったのですよ。しかし、やりたいものが変わればそれにふさわしい表現形式があることを自覚した上で、エンターテイメントを持たせつつもあのような体裁を採ったわけです。翻って田中氏はどうでしょうか。同様な観点から見つめてみると、やりたいことに最適な形を模索するという姿勢を故意かどうか、無自覚なのかどうか分かりませんが、読者に見せようとしないではありませんか。もとは田中氏同様、エンターテイナーだったいう素性をかんがみて田中氏に対する作家として小林氏を引き合いに出すのは、以外に最適だったかもしれませんし、比較する上で”非常に”意義のある話題でなかったでしょうか。
まあ、以上のようなことは管理人さんも十分承知した上だと考えます。第一、この件はわたしが言い出しっぺだったわけではありませんし、自分自身、何故、そこまでくそまじめにレスしてるん?という気がしないではありません。ですが、”とりたてて意味があるとは思いません”とおっしゃられますとこのホームページの歴史を振り返った場合なんだか違和感があったもので横レスいたしました。
わたしも正味、すらっと流そうと思えば、そうしていたところなので(なぜか、魔がさして1203のようなアホな反応しめしちゃいましたが)この話題はこれくらいにしたいと思います。
失礼をば。
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- board1 - No.1219
RE.1218
- 投稿者:本ページ管理人
- 1999年05月10日(月) 16時57分
>>少々話題がずれましたが、私も田中氏と小林氏の比較にとりたてて意味があるとは思いません。ただ、まったく無意味とは思いませんし、比較するというのであれば、以上の理由から小林氏の方が自分の発言に責任を持っていると考えます。
satokoさんがこのことを論の本旨のように述べていますが、それを踏まえて本旨ではない余談だという(比較対象論としてまとめていないしするつもりもない)意味で「私も田中氏と小林氏の比較にとりたてて意味があるとは思いません」と書きました。
>”とりたてて意味があるとは思いません”とおっしゃられますとこのホームページの歴史を振り返った場合なんだか違和感があった
に関しては、「まったく無意味とは思いません」と述べているとおりです。
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- board1 - No.1220
レスありがとうございます!
- 投稿者:satoko
- 1999年05月10日(月) 17時29分
管理人さんれすどうもです(^^)わかりにくい文に親身にこたえてくださってほんとにうれしいです。
とりあえず、最初に謝っておくと書き方がまずかったせいで、またもや誤解をさせてしまったかもしれないのですが、田中氏と小林氏の比較については「小林氏と田中氏の比較というやり方が間違ってる。」という事が言いたかっただけなんです。
ここのベストで「田中ファンに小林ファンはいないだろう」みたいな事があった気がするので言うといい加減と思われるかな~と思って言わなかったのですが、私はかなりの小林よしのりファンです(笑)「田中芳樹と小林よしのりをどっちを彼氏にする?」ときかれれば間違いなく「よしりん!」とこたえるくらい(笑)
冗談はさて置き、「ゴー宣」ほぼ全巻そろえてるくらいのよしりんファンとしてみれば、他の人に「真摯である。」といわれれば、すごくうれしいです。(ただあそこでは、田中氏と比べればという限定だけど)それとは別に田中作品に政治的な所でストーリーの邪魔になるから愚痴なら他でいってほしいなと思う部分はあります。ですがそれとこれとをくっつけるのはいかがなもんでしょう?
たとえばなしのようにするのが一番わかりやすいと思うので(というか好き(笑))かいてみますと、たとえば、ある人がすごく赤川次郎の推理小説が好きだったとします。その人に対して、「ほんとに赤川次郎は取材してから書いてるのか、それに比べて山村美砂の作品はよくしらべてあるので臨場感あるいい作品じゃないか。」といわれれば悔しくても納得できると思います。
ところがこれが「本当に赤川次郎は取材してから書いているのか、それに比べて横山漫画三国志は中国に調べにいっただけあって臨場感あるじゃないか。」といわれて赤川次郎のファンが納得するでしょうか?それが真実をさしていても、それは違うだろうって感じになるのが普通だし、論法的に間違っています。
「それが行き過ぎだとかは別問題だ。」と書いたのは小林氏が「真摯である」ということ(ただこれは譲れないですが、参考文献を出すのは当然しなければいけない事です)や田中氏が真摯的ではない、という事に反論したい、を問題にしてるのではなく、そういう論法が間違ってるのじゃないだろうかというための言葉だったんです(これは仕立て屋さんへのレスになっちゃうか?)
ジャンルの違いを超えての批判というのは、論評を行う上でタブーとされているのはご存知だと思うのですが、その上でかかれたのかちょっと聞いてみたいなと思います。
長くてごめんなさいm(--)m
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- board1 - No.1221
そのとおりです。すいません。
- 投稿者:satoko
- 1999年05月10日(月) 17時40分
管理人さんへ、つけくわえて謝るとわたしもあそこに書かれている本旨ではないことがわかっていたにも関わらず、揚げ足取りのような事を書いてごめんなさい。そのとおりです。軽く書くつもりだったのに大きく書いてしまってすいません。反省します。
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- board1 - No.1222
質問です
- 投稿者:仕立て屋
- 1999年05月10日(月) 18時34分
>satokoさんがこのことを論の本旨のように述べていますが
この部分がよく分からないのですが(私の解釈力の無さか)。つまり、ここでお使いの本旨が誰の本旨のことを言われておられるのか
ということです。
私がsatokoさんとのやり取りの中で使っていた論旨という言葉に引っ掛けて、satokoさんの1202のご発言におけるsatokoさんの文章全体の本旨を私が誤解しているという意味でお使いになっていらっしゃるのだとしたら一言、言わねばなりません(私の妄想か?違っていましたらお許しを)。
satokoさんの1202のご発言においては質問というか意見がそれぞれ意味合いにおいてほぼ独立し、1~4に分けられ、為されています。1、2、4は特に取り分けて言うことはありませんでしたので、3に対してのみ発言1205において私はレスしたのです。それに対するsatokoさんの1206のご発言における内容が私の1205の論旨を汲んだものではなかったのと1204のご発言の一部に対して思うところが有った(これは私の発言1203が無礼だったのを考えるといたしかたありませんが)為に(わたしも面識のない人に論旨を汲めなどと言う言葉を使うのはあまり好みませんが)あのような言い方をしたまでです。そもそもsatokoさんの発言1202の3におけるご意見は”別ジャンルの本を比較して論ずるのは無駄である”というのがその3における本旨ではないかと思われるのですが(その引き合いに”参考文献を出してる分、小林氏の方が田中氏より真摯で・・・”が出されていたように存じます)、違いましたでしょうか。この3をうけて管理人さんがご発言1214の3に対するレスをつけておられ、そこにおいてsatokoさんのご意見に”すべてではないがある部分において”納得されておられる(リップサービスでなければ)のを踏まえますと、私の発言1218に対する管理人さんのご発言1219の私へのレスは的を得ていないように思われます。私の気のせいでしょうか?
わたしの勘違いでしたら、お詫びいたします(本当はこんな野犬のようなマネはしたくないのですが)。もし、私の創竜伝ファンの方々に対する発言がお気に召されないのでしたら、高飛車な発言は今後控えたいと思います{管理人さんが小林氏に対して支持するものでもなく中立の立場であることは承知しております。が、管理人さんのこのホームページの意図という部分とコンテンツ8の中での小林氏に対する言及”一点だけで、私は小林の方が数倍真摯であると思う”を考えるとわたしもその”一点”においてくそまじめに論を展開したのですが(satokoさんのご発言1202その3の論旨がその”一点”に反論するものでしたから)、管理人さんのご発言1214の3のレスや1219の内容から私はこのホームページでの位置の立ち方がわからなくなったもので}
よろしく、お願いいたします。
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- board1 - No.1223
RE:1220,1221
- 投稿者:仕立て屋
- 1999年05月10日(月) 18時44分
もっと言葉を大切にしてください。
おっしゃられていることが、全然一貫していないではないですか。
>「それが行き過ぎだとかは別問題だ。」と書いたのは小林氏が「真摯である」ということ(ただこれは譲れないですが、参考文献を出すのは当然しなければいけない事です)や田中氏が真摯的ではない、という事に反論したい、を問題にしてるのではなく、そういう論法が間違ってるのじゃないだろうかというための言葉だったんです(これは仕立て屋さんへのレスになっちゃうか?)
全然、回答になっていませんし私のあなたへの反論の趣旨とずれています。ころころ変わる主張にいちいちくそまじめにレスした私が馬鹿みたいじゃないですか。
疲れました。しばらく、ROMに戻らせていただきます。
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- board1 - No.1224
よしりんとよしきん
- 投稿者:本ページ管理人
- 1999年05月10日(月) 18時46分
小説である創竜伝と評論であるゴー宣を比較するのはどうかということなのでしょうが…
おそらく、羊頭狗肉という故事がこれほど当てはまる事例も珍しいと思うのですが、創竜伝は小説の名を借りてはいますが実態はアジテーション評論集というのが現実だと思います。または評論が小説の「ひさしを借して母屋を取」っている状態。
暇になったら創竜伝の内、評論部分がどれだけの割合を占めるか測ってみたいと思っています。
きっと面白い結果が出てくると思う(^_^;)
「小説だから評論と比べるな」というのは正論です。芥川龍之介の「羅生門」とK・シュミットの「政治神学」のどちらが優れているかを述べよ、というのは無茶な話です。しかし、創竜伝が小説の名を名乗っていても実質は評論では、評論のゴー宣と比べることは無茶だとは思いません。
また、田中芳樹の羊頭狗肉の姿勢も責められてしかるべきですよね。小林よしのりとの比較にはその部分もあります。少なくとも、小林よしのりは羊頭狗肉はやっていませんから。
(ただ、三流の内ゲバ解析論よりもドストエフスキーの「悪霊」のほうが真実をついているというようなことはあります。創竜伝のようにわざとらしく評論を入れなくても評論以上に真実を語れるこれこそが本当の「小説」の力なのですが、ここでは例外として置いておきましょう)。
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- board1 - No.1227
RE.1222
- 投稿者:本ページ管理人
- 1999年05月10日(月) 19時28分
『satokoさんがこのことを本論8やこのサイトの本旨のように述べていますが、それを踏まえて本旨ではない余談だという(比較対象論としてまとめていないしするつもりもない)意味で「私も田中氏と小林氏の比較にとりたてて意味があるとは思いません」と書きました』
とするとわかっていただけるでしょうか。>参考文献を出してる分、小林氏の方が田中氏より真摯で・・・の部分が私の本論8の『「この物語はあくまでフィクションであり、現実の事件・団体・個人などとは無関係であることを、とくにお断りしておきます。」という評論の本質と正反対の免罪符をかざしていない一点だけで、私は小林の方が数倍真摯であると思う』部分の誤解だと認識しましたので、その誤解部分への反論とともに、『そんなに大きく扱っているけど小林よしのりと田中芳樹の対比は本論8及びこのサイトの余録であって「本旨」ではないですよ』というつもりで「私も田中氏と小林氏の比較にとりたてて意味があるとは思いません」と書きました。
仕立て屋さんとsatokoさんがこの件に関して論争していたことを考えれば、少々配慮に欠ける書き方だったかも知れません。申し訳ありませんでした。
しかし、上記した以外に他意はありませんので、よろしくご理解ください。
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- board1 - No.1228
わかりました
- 投稿者:仕立て屋
- 1999年05月10日(月) 20時27分
わかりました。私が誤解していたようです。ご返事ありがとうございました。
ただ、運営者でもない私が僭越ながら言わせていただくと、このホームページの”本旨”とはいったいなんなのでしょうか?このホームページの冒頭の緒言をご覧になっていただくと(って管理人さんがお書きになっているのですから私が言うまでもありませんが)、田中氏の作品に対する取り組み姿勢とそれが軽んじられた場合にその作品がどのような果実として結実してしまうのか、そしてそれを良しとするファンに楔を僅かでも打ち込められたら、ということではなかったでしょうか?そしてここは掲示板におけるさまざまな方々の意見の積み重ねによって成り立っているのではないでしょうか(中には少し外れつつもそこから派生していろんな話題に盛り上がるのもまた、楽しく、それはそれで良しです<---こういった話題のほうがむしろ私にとっては好ましいくらいです)。そんな集まりに依っているこの場において、ましてや、田中氏の姿勢を比較するのに(断っておきますが、あくまで姿勢であって作品の内容事態を比較しているのではありませんよ<--ここがsatokoさんの私の発言に対する勘違いです)引き合いに出された(言い出しっぺはわたしではありませんよ。変な正義感を出したまでです)小林氏のくだんの話題を”余禄”と捉えてらっしゃるのを拝見いたしますと、それではいったいその本旨というのは一体何であり何によって成り立っているのかと疑問を感じざるを得ません。 わたしが野犬のごとく噛み付いたのもここだけは譲れないと思ったためです。要素をないがしろにした本質ってのに如何ほどの価値があるのでしょうか?
えらそうにくどくどと述べましたが、頭を冷やしてまた出直します。そのときはみなさんよろしくお願いいたします。